財務省が、学校法人「森友学園」(大阪市)への国有地売却の交渉記録を記した文書や電子データを廃棄・消去した。同省は6月2日までに当時使用していた情報システムを更新したことを発表している。

 システムの更新自体は、まあ、よくある話だ。

 コンピューターシステムの端末、いや末端にぶら下がっている人間は、システムの更新にともなって発生するトラブルやら間違いやら手続きミスのおかげで、多かれ少なかれ痛い目に遭った経験を持っている。

 私自身、この30年ほどの間に、ハードディスクがまるごとおシャカになった事故を2度ほど経験しているし、OSのアップデートの手順をしくじって大切なデータを消してしてしまったことも2度や3度ではない。

 そういう悲しい事態に遭遇するたびに、わたくしども古手のオタクは、
 「データの一滴は血の一滴」
 という、先アップル時代から語り伝えられているデジタル技術格言を思い出しては、あらためて心に刻み込んでいる。

 まことに、データほど尊いものはない。
 データは、自分自身が生きてきた証でもあれば、私という人間の魂の反映でもある。
 その意味ではわが子と同じだ。

 過日、その「データの一滴は血の一滴」であることを骨身に刻み込んでいる30年来のパソコンユーザーである私にとって、到底受け入れがたいニュースが流れてきた。

 朝日新聞が伝えているところによれば、

《学校法人「森友学園」(大阪市)への国有地売却の交渉記録を記した文書や電子データを財務省が廃棄・消去したとされる問題で、同省は(6月)2日までに当時使用していた情報システムを更新した。運営を委託していたNECが近くデータを物理的に消去する作業に入る。--略--》(ソースはこちら

 というのだ。
 なんということだ。
 こんなバカなニュースがあるだろうか。

 私の観察範囲の中では、今年一番のバカニュースと申し上げて差し支えないかと思う。

 二番は無い。二番目以降は問題外だ。
 今年のバカニュースはこれに尽きると、いまの段階から断言しておきたい。
 それほどバカなニュースだ。

 このニュースを知って以来、私は少々逆上している。
 アタマの中で、かなり乱暴な言葉で、財務省をののしっている。
 大変に腹を立てている。
 いくらなんでも、データというものをあまりにもバカにしたやりざまだと思うからだ。

 NECにもがっかりしている。
 NECと言えば、私が生まれてはじめて自腹で購入したPC-8001(初代は1979年発売)というマシンを作っていたメーカーだ。

 購入した当時、そのPC-8001の内部メモリは、実に、8kバイトだった。
 8G(ギガ)でも8M(メガ)でもない。ただの8k(キロ)である。現在使っているiMacの実に100万分の1の記憶容量だ。

 ついでに申しておけば、当時、外部記憶装置は持っていなかった。
 つまり、データは原則として、記録不能だったわけだ。

 ハードディスクは、一般市場向けにはまだ提供されていなかったし、CDもまだ開発中、フロッピーディスクは10万円以上する、高嶺の花だった。

 じゃ、どうするのかというと、音楽用のカセットテープを使うのである。

 私たちはプログラムを書くと、それをオーディオ用のテープレコーダーに音声として記録して(FAXと同じような仕組み…と言ってももう分からない人が多いんでしょうね)、その音声を再度デジタルデータに変換することで、ファイル記録の代用にしていた。たしか15分のテープに32kバイトのデータが入った。そういう時代だったのだ。

 であるから、私は、そのPC黎明期を知るNECの人間が、デジタルの記録文書を「物理的に消去」するという空恐ろしい作業に、どうして手を染める気持ちになったのか、その経緯をどうしても想像することができない。

 なぜなら、データの一滴が血の一滴であり、メモリの1kが涙の1kであることを誰よりもよく知っているのは、日本ではじめて本格的なパソコンを市販して成功させたメーカーであるNECの人々であるはずで、その彼らにとって、得意先の人間が作ったデータであっても、データである以上、それは流れる血と同じもので、そのNECのシステム技術者が、「データを物理的に消去」するということは、医師が患者を縊り殺すことに等しい、絶対にあってはならない職業倫理違反であるはずだからだ。言っていることがめちゃくちゃだが、そのくらい怒っていると思って欲しい。

 「データの一滴は血の一滴」

 というこの格言を教えてくれたのは、1980年代の半ば頃、私が当時時々出入りしていたアスキーの中の「メゾン」と呼ばれている宿泊労働施設にタムロしている若いプログラマだった。

 「いいですかオダジマさん。ソフトウェア、あんなものはどうにでもなります。特に市販のアプリだの言語だのは壊れたり消えたりしたところで、しょせん、最終的にはカネを出せば買えます。オペレーティングシステムも、ハードウェアも、周辺機器もたかが道具です。どんなにひどいことが起こったのだとしても、とにかくカネさえ出せばどうにでもなります。でも、自分で書いたコードやテキストは一度消してしまったら絶対に復活しません。何億円積んでも戻って来ません。隣のマシンのメモリに残っていることもありません。だからデータは何重にもバックアップをとって厳重に保管しておかないとダメなんです。フロッピー代をケチるヤツは本当のバカです。人間のクズです」

 と、彼は、アタマがスパークしている時のプログラマに特有な早口でまくしたてたものだった。

 私自身、パソコンがらみでは、電源ユニットの突然死やOSのクラッシュにはじまって、メモリの熱暴走、ハードディスクの頓死、ディスプレイモニタの突然死、液晶の破壊、アプリの発狂、落雷による全ハードウェアの即死に至るまで、あらゆるタイプの悲劇を経験してきた人間であったわけだが、最終的に一番堪えたのは、ほかのなによりもデータの喪失だった。

 ハードウェアの破損は、買い直すことで乗り越えることができる。というよりも、つい15年ほど前まで、われらがパーソナルコンピュータは、常に劇的な進化の途上にあったわけで、それゆえ、古いマシンの機能停止は、そのまま新しいマシンへの乗り換えという意味で、半分以上は福音として受け止め得る経験だった。

 しかしながら、データの喪失は、言葉の真の意味で死を意味している。
 それほどに痛い。

 いま、私のエディタは「遺体」という変換候補を提案して来たが、まったくその通りで、データを消してしまった時の気分は、自分自身が突然遺体になってしまった時の気持ちとそんなに変わらないものなのだ。

 西暦2000年以前の原稿を記録しておいたCD-Rが、ある日読み出し不能になっていることを発見した時の、あの暗い気持ちを、私はいまだに忘れることができない。

 そのCD-Rの中には、血の出るような作業の結果としてのテキストデータがおよそ10年分記録されていた。

 破損の原因は不明だ。

 もしかしたら、うっかり太陽光にでも当ててしまったのか、保管の仕方が悪くて記録面を傷付けてしまったのか、あるいは、粗悪な初期のCD-R製品は、そもそも5年程度でデータが飛んでしまう仕様だったのかもしれない。

 いずれにせよ、フロッピーディスク時代から様々なメディアに書き記し、転記し、溜めこみ、何代ものマシンを経由して集約されたその原稿データは、

 「おお、10年分の原稿データぐらいなら1枚のCD-Rにすべて記録できるぞ」

 という私自身の愚かな思い込みと愚かな集約作業のせいで、二度と帰ってこない磁気の藻屑になった。

 書きながら詳細に思い出してしまった。
 今思い出しても、いやな汗が出る。

 「おい、うそだろ?」

 全身の血の気が引いて、目の前の景色が白っぽく変化して行くのがありありとわかった。

 それから、別のマシンの別のCDドライブを試してみたり、CD再生のためのキット(←まあ、磨くわけです)を購入して試してみたり、家電量販店のCD再生サービスに依頼してみたり、およそあらゆる努力を繰り返したが、データは二度と読み出せなかった。

 私の10年間がまるごと消えたというに等しい。
 そういう、経験を経て、私たちは、データに向き合っている。

 聞けば、官僚にとって、文書は、命に等しいものだという。

 というのも、彼らが作成した文書は、自分たちの仕事の結果であるのみならず、将来に向けての前例でもあれば、何か問題が発生した場合の参照先でもあり、結局のところ、彼らの行動と意思、そして仕事への誠実さをゆるぎない形で記録した、彼ら自身の墓碑銘でもあるからだ。

 であるから、どんな些細なメモであっても、心ある役人は、決して捨てない。
 彼らが、文書を捨てたり焼却したり処分したり破砕したりするのは、彼らが、何か後ろ暗い作業の証拠を隠滅しようと決意した場合に限られる、と、私はそういうふうに受けとめている。

 紙に記録された書類が、時間の経過にともなって、思いのほか巨大なスペースを侵食するという話は、いろいろな方面から聞く。

 さる知り合いの法律関係者がいつだったか言っていたところでは、訴訟や調査に関連して発生する書類を5年間保管しておくだけのことで、事務所の一部屋が埋まってしまう量になるものらしい。

 千代田区内の決して安くない家賃のひと部屋がまるごと書類で埋まるということは、書類の保管コストがそれだけバカにならないということでもある。

 そういう意味から考えれば、オフィスなり官庁なりのトップが、保管コストや検索性の限界を鑑みて、ある程度年数を経た書類を、一定の基準に従って廃棄しようと画策することには、一定の正当性があるのかもしれない。

 しかしながら、今回財務省が「物理的に消去」しようとしているデータは、デジタルデータだ。

 ということは、ハードディスクなり磁気テープなりに記録しておけば、保管コストは、お役所にとっては事実上、ほとんどゼロだろう。スペースも机一個分あれば十分に足りるのではないか。

 にもかかわらず、彼らがそれを「物理的に消去」せんとするのは、いったいいかなる事情を反映しての態度なのであろうか。
 まあ、ここから先のことは私にはどっちみち見当がつかない。
 だから黙る。

 ただ、デジタルデータを「物理的に消去」(つまり、磁気記録を磁気的にデリートする処理とは別次元の消去、すなわち、記録媒体そのもののブツとしての文字通りの破壊を意味しているのだと思う)するという、たわけた言明を、私はどうしてもまっすぐに受け容れることができない。

 他人に事情を説明する言葉として、あまりにも荒唐無稽かつ不自然かつ不誠実だと思うからだ。これは、いち役所だけではなく、現政権全体に通じる態度だ。

 私は、現在の政権の一番の問題点は、国民に対して、起こっていることをまともに説明しようとしないところだと思っている。

 森友学園の問題が追及されはじめた当初から、政府側の回答は、ほとんど意味を為していなかった。

 佐川理財局長は、国会答弁の中で、

 「それぞれの処分についての個別の会議につきましては、改めて私どもの方から確認するということを控えさせていただきたいと申し上げている」

 というこの回答と、そして同じ意味の言葉を、何度も何度も繰り返し繰り返している。

 この回答は、

「イエス」
 でも
「ノー」
 でもない。
「わからない」
 とも言っていないし
「おぼえていない」
 とさえ答えていない。
 彼は、
「確認することを控えさせていただきたい」
 と言っている。
 これは要するに、
「私は質問に対して答弁するつもりがない」
 ということで、実質的には
「おまえのかあちゃんでべそ」
 と言っているのと変わりがない。
 要するに、彼は、質問者を愚弄しているのだ。

 森友問題や、加計学園の問題について、私自身は、必ずしも、巨大な不正が隠されているとは限らないと思っている。

 案外、突き詰めてみたら、法律的には立件できないレベルの、ちょっとした仲間内の公私混同事案に過ぎないのかもしれないという感じを受けてさえいる。

 が、問題は、そこではない。

 何が隠れているのであれ、隠れていないのであれ、この半年ほどの国会答弁を眺めていて、とにもかくにも異様な印象を抱かせられるのは、政権の幹部ならびに関係省庁の官僚たちが、野党からの質問に対して、ほとんどまったく誠実な回答を提供する意思を見せていない点についてだ。

 手続き上の不正や資金疑惑や税金の無駄づかいが実際にあるのかどうかとは別に、私は、現政権の最も大きな罪は、国会を愚劣な言葉がやりとりされる場所に変貌させてしまったことだと考えている。この点に限っていえば、安倍政権は、私が60年の間に見てきたどの政権よりも悪質だ。

 菅義偉官房長官は、加計学園の認可に関連して、「総理の強いご意向」を示唆する文書の存在が報道された時、その文書について
 「まったく怪文書みたいな文書」
 という言葉で論評して、最後までマトモに取り合わなかった。

 文科省の前次官が、実名顔出しで、当該の文書の真実性を証言すると、今度は
 「貧困問題のために出会い系バーに出入りし、且(か)つ女性に小遣いを渡したということでありますが、さすがに強い違和感を覚えましたし、多くの方もそうだったんじゃないでしょうか。常識的に、教育行政の最高の責任者がそうした店に出入りし、小遣いを渡すようなことは到底考えられない」
 「自ら辞める意向を全く示さず、地位に恋々としがみついておりました」
 と、文書の内容には触れず、もっぱら証言した前川前次官の人格を攻撃する言葉を並べ立ている。

 さらに、朝日新聞の取材に答えて、文科省の現役職員が、当該の文書が省内の複数の部署で「共有されていた」旨を証言すると、これに対しては、松野文科相が、
 「出どころが明確になれば、調査に関して対応を検討したい」
 という意味の回答をしている。

 普通の理路で考えれば、出どころが明確になっていないからこそ、調査しなければならないと思うはずなのだが、松野文科相の言い方だと
 「わからないから調査しない」
 という謎のような話になってしまう。
 まるで、空腹だから食べたくないみたいな話だ。

 政権まわりの人々のこれらの回答は、はじめから答えるつもりを持っていない人間のしゃべり方で、報道や野党の質問にその都度答えている言葉も、とりあえず、その場をしのいでみせているレトリックに過ぎない。

 ここまで不誠実な回答を繰り返す背景には何があるのだろう。
 「血の一滴」であるデータをあっさり消してしまおうとする財務省の行動を見ていると、この人達って「不都合になったら、消去すればいい」くらいに思っているんじゃないか、とさえ思えてくる。
 くわばらくわばら。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

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