加計学園グループの問題で世間が騒然とするなか、5月31日、2020年の東京五輪・パラリンピックの開催経費を巡り、東京都と国、大会組織委員会、都外の開催自治体のトップらが総額1兆3850億円の分担について大筋で合意したというニュースが流れてきた。

 NHKのNEWS WEBのサイトは、このニュースを
《東京五輪費用負担 都・組織委・政府が正式合意》
 というヘッドラインで伝えている(こちら)。

 ニュースを見た視聴者は、
「いよいよ、五輪に向けた体制が本格的に動き出した」
 という感想を抱くことだろう。
 NHKの放送原稿は、そういうふうに書かれている。

 ニュースは小池百合子都知事の、
「地は固まった。大会を3年後に控えて準備を急がないといけない。まとまってよかった」
 という記者団への言葉と、森喜朗東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長の
「一歩どころか、数歩、前に進んだ。鍵がかかっていた、その施錠が外れたということだと思う。各県の準備が加速すればもっといろんなことができるんじゃないか」
 という発言を伝え、さらに神奈川、埼玉、千葉、の各県知事のいずれも前向きなコメントを紹介している。

 以下、参考までにNHKが伝えた各自治体のリーダーの言葉を列挙しておく(上記ウェブより筆者が抜粋)。

●黒岩祐治・神奈川県知事:「もともと申し上げていたのは、立候補ファイルの原理原則を忠実に実行してほしいというただ一点だった。今回の合意は、輸送や警備の分野でも自治体が通常行っている行政サービスの枠を超える部分は負担しなくてもいいということで、ほぼパーフェクトに近いと感じている。前を向いて明るい気持ちでオリンピックの成功に向けて全力を注ぎたい」

●上田清司・埼玉県知事:「立候補ファイルなど原理原則を踏まえて負担するということが確認できてよかった。紛れもなく日本のオリンピックなので、遅れた分、東京都を全力で応援していきたい」

●森田健作・千葉県知事:「いろいろな混乱があったが、やっと元に戻ってスタート台に立ったという感じだ。これからは、小池都知事にしっかりとリーダーシップをとってもらい私たちもしっかり協力していく」

●熊谷俊人・千葉市長:「今後は、実務的にスピードアップし、とにかく時間がないので、成功に向けて、東京都や組織委員会と一緒になって取り組んでいきたい」

 朝日新聞の伝え方は、少しニュアンスが違う。31日の朝日新聞の朝刊の見出しは
《五輪経費分担、大枠で合意 都外自治体の負担額は先送り》(こちら
 と、合意があくまでも「大枠」にとどまっている点を示唆し、あわせて一部経費の扱いが先送りになっている旨を併記している。

 毎日新聞は、6月1日の社説で
《五輪経費で「大筋合意」 司令塔不在の不安が残る》(こちら
 として、はっきりと先行きの不透明さを指摘している。
 本文中で、社説子は、

《--略-- 国の担当者である丸川珠代五輪担当相は協議会に先立って、国と組織委、都の3者合意として「自治体が400億円負担」で固まったと発表した。これに対し、埼玉県の上田清司知事や神奈川県の黒岩祐治知事らが不快感を表明した。
 金額はその後、50億円圧縮されたが、頭越しの手法に、都以外の知事が反発したのは当然だ。
 五輪という国家プロジェクトに関する合意形成の進め方が拙劣と言わざるを得ない。 --略--》

 と、予算の決定過程およびリーダーシップの欠如に苦言を呈し、最後は、
 「責任の押し付け合いをしている場合ではない」
 という一文で社説を締めくくっている。

 私の感想は、毎日の社説が述べているところに近い。

 というよりも、このニュースについて私が最も強い印象を抱いたのは、一連の報道の中に、舛添要一前都知事が組織委員会に対して求めていた「法的根拠に基づいた支出の説明」がまったく示されていなかったことだった。

 われら都民は、理由や根拠を説明されないまま、支出だけを求められている。
 しかも、こうした状況について、都民のリーダーたる都知事ご本人が、「前進」であるかのようにコメントしている。

 いったいどういうことなのだろう。われわれは、ナメられているのだろうか。
 さよう。われわれは、ナメられている。都民は、事後承諾の形で支出を求められている。

 「えっ?」

 と言ったきり、レジの前で立ち尽くしている間抜けな酔客よろしく、わたくしども一千万都民は、はじめて見る伝票の中の身に覚えのないオーダーに絶句している次第だ。

 あるいは、多くの都民は、注文した記憶もない不思議な色の飲み物を、テーブルに出されたからという理由で、たいした考えもなくごくごくと飲み干すのかもしれない。

 まあ、本人たちがそれで良いというのなら仕方がない。
 私から特に申し伝えるところはない。

 私個人は、こと五輪に関しては、都の姿勢は、舛添さんの時代から比べて、明らかに後退したというふうに受けとめている。

 都は、組織委員会に良いようにされている。
 小池都知事は、森五輪組織委員長と対立しているように見せかけながら、その実、この1年間、あらゆる決断を先送りにすること以外に何もしていない。

 でもって、私は「なにもしていなかった」この1年間の不作為と不決断の意図を、深読みせずにはいられなくなっている。

 どういうことなのかというと、都と組織委員会は、綱引きをしているように見せかけながら、結局のところ、双方ともに「時間切れが近づいて、すべての決断を、議論無しで、説明抜きで、一瀉千里の勢いで片付けなければならなくなるタイミング」を待っていたのではなかろうか、と、そこのところを疑いはじめているわけです。 

 今回は、前回に引き続いて前川喜平前次官の証言がもたらした波紋について書くつもりでいたのだが、気が変わった。

 加計学園の問題には、まだまだこの先新しい展開がありそうだし、でなくても、もう少し大筋が見えてきてから扱った方が適切かもしれないと考えたからだ。

 一方、五輪については、ここへ来て、にわかに拙速な形で話が進んでいる。
 この、話の進行のスピードそのものに、私は、強い警戒感を抱きはじめている。

 というのも、五輪については「話が進んでいる」というよりも、「あらゆる決断がぞんざいにやっつけられつつある」と言った方が実態に近いと思うからだ。

 おそらく、これから先、事態は、さらにデタラメな決断が加速する形で進行していくはずだ。とすれば、6月のはじめのこの段階で、私の目に見えている現状を、あるがままに書き残しておくことには、一定の意味があるはずだ。

 7月の都議選が終わったら、結果がどちらに転ぶのであれ、いずれにせよ五輪に向かう体制は、ある程度はっきりするはずで、だとすると、そこから先、五輪の話題は、「議論」や「選択」や「説明責任」の問題ではなく、単にこなすべきスケジュールとして処理されるに違いない。その時期になったら、もはや内実をともなった議論は期待できない。われわれは、とにかく目前のノルマと、後ろからせっついてくる締め切りに追われて、何も考えられなくなる。必ずそうなる。

 小池都知事は、31日、記者団に向かって

 「地は固まった。大会を3年後に控えて準備を急がないといけない。まとまってよかった」

 と、述べた。
 そのほかの知事や関係者も、異口同音に、時間が残されていないことと、決断を急がなければならないことを強調している。

 時間切れが迫っていることは事実だ。知事さんたちのおっしゃる通りだ。

 でも、私は、時間が無いことを粗雑な決断の理由にしてほしくはないと思っている。むしろ、時間が無いからこそしっかりと議論してほしいと考えている。

 「そんなことを言ったって時間が無い以上、しかたがないじゃないか」
 という人もいるだろう。
 それもわかっている。
 というよりも、わかっているからこそ私は無茶な要求をしている。

 私が「時間が無いからこそ」などと、底意地の悪いものの言い方で理屈の通らない要求をしているのは、時間が無いことを理解していないからではない。私は「どうして時間がなくなったのか」を問題化したいがためにこういう言い方をしている。

 ずっと前からこうなる気がしていた。

 「どうせ、もう間に合わないというタイミングになって、あらゆることがろくな議論もされないまま時間切れを理由にバタバタと都民の承認を得ることもなく決定されることになるに決まっているのだ」

 と、私は、もう何年も前からずっと、そう思っていた。
 果たして、事態は、予想した通りの形で進行しつつある。

 おそらく、この先は、

 「もうグダグダと議論している時間はない」
 「この期に及んでおまえはまだあーでもないこーでもないと、重箱の隅をつつくのか?」
 「だから、やると決まった以上あとは国民が一丸となって突っ走るしかないじゃないか」

 てな調子で、さらにデタラメな決断が次々と押し付けられることになるだろう。
 しかも、記録は残らない。

 長野五輪の記録が破棄され、森友学園をめぐる財務省のデジタル記録が機器のリニューアルにともなってまるごと消去されようとしているのと同じように、五輪に関する拙速な決断と意味不明な支出を裏付ける資料や議事録や書類や伝票の類は、いずれ、どこへともなく、消えていくに違いないのだ。

 時間切れについては、私自身にも、多少身におぼえがある。
 毎度、原稿執筆について、同じ手法を援用している自覚があると言っても良い。

 具体的には、
 「いますぐに書き始めないと絶対に間に合わないギリギリのタイミングで書き始める(っていうか、そのタイミングまで書き始めない)」ことによって、テーマへの迷いや、推敲時の逡巡や、炎上を予想しての執筆意欲の減退を回避しているということだ。

 時間が無いことは、決断の軽率さや、作業の粗雑さや、予測の甘さといった、本来なら許されないはずのいくつかの手続きを正当化してくれる。
 してみると、執筆家にとって、締め切りは圧迫のようでいて、実は福音なのである。

 であるからして、迷うことの嫌いな人間(←条件さえ整えばいつまでだって迷っているタイプの優柔不断な人間)や、真面目に考えるのが苦手な人間は、強制的な決断をもたらす時間切れの効果に、結局のところ依存することになるのである。

 古い知り合いに、住んでいる部屋が本でいっぱいになる度に引っ越しを繰り返している男がいるのだが、彼の不決断の生き方も時間切れ寸前まで決断を引き伸ばす締め切り依存人種とそんなに変わらない。

 彼が普通に生活していると、本はどこまでも増殖する。

 で、ある時期がやってくると、必ず書棚の整理をせねばならないタイミングに直面するわけなのだが、その時が来ても、彼は、自分がどの本を書棚に残して、どの本を廃棄して、どの本を古書店に売却して、どの本を知人に寄贈するのかを、まったく判断することができない。というよりも、その作業に直面する度に、彼は、完全に度を失って惑乱するのである。

 で、いくつかの段階(玄関の書籍アーチ化、浴室の書庫化、キッチンの書棚化、就寝スペースの消失、書籍タワーの崩壊などなど)を経て結局、引っ越しを決断するに至る。

 引っ越しにともなって、余儀なく、住んでいる空間の半分以上の容積を専有する書籍の処分を、「決断することなく」迎えるに至るわけなのである。

 五輪は、3年後にそれを迎えるわれわれに、本を捨てられない愛書家にとっての引っ越しや、逡巡を嫌う文筆家にとっての締め切りとよく似た「余儀ない決断」の機会をもたらしてくれる。その強制性に、あるタイプの人々は魅力を感じているのだと思う。

 あれこれ文句をつけている私にしてからが、半ばうんざりしながらも、余儀なく巻き込まれる運命に翻弄される日々を、待ち焦がれているのかもしれない。

 今回は豊洲市場の問題にも触れたかったのだが、五輪の話だけで紙数が尽きてしまった。

 本当のところ、私は、だらだら書いているうちに、豊洲の話題に到達しないまま目安の行数に到達してめでたく逃げ切る結末を望んでいたのかもしれない。それは否定しない。

 というのも、豊洲と築地をめぐるお話は、どこからどう手をつけるにしても、どうにも厄介な話題で、私は、自分がそれをうまく処理する自信を持てずにいるからだ。

 あ。小池都知事も同じ気持ちなのだろうか。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

いや、お書きになりたいならば
〆切は延びませんがページは伸ばしますが…

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

まずは会員登録(無料)

登録会員記事(月150本程度)が閲覧できるほか、会員限定の機能・サービスを利用できます。

こちらのページで日経ビジネス電子版の「有料会員」と「登録会員(無料)」の違いも紹介しています。

この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。