共謀罪の構成要件を厳格化した「テロ等準備罪」を新設する改正組織犯罪処罰法は、ついさきほど(つまり6月15日の午前)の参院本会議で、与党などの賛成多数をもって可決、成立した。

 この法律の審議にともなうすったもんだや、成立の過程をめぐるあれやこれやについて、色々と書きたいことがないわけでもない。

 だが、すでに言われ尽くしていることでもあれば、ほかの書き手がこれから繰り返すであろう内容と重複する話でもあると思うので、ただ一言「残念だ」と述べるにとどめておく。

 何を書いたところで愚痴にしかならないこの話題については、本当は、だからこそ根気良く延々と繰り言を並べ続けなければならないのかもしれない。実際それを実践している人たちもたくさんいるし、私は、その彼らの活動に敬意を抱いている。

 とはいえ、私個人は、この件に関しては、心の底からうんざりしている。いまさら、ことあらためて、何らを言う気持ちにはなれない。

 前提にさかのぼって考えるに、そもそも、私のこの「うんざりしている」という感情と、その感情の結果としてもたらされた無力感が、おそらくは現今のこの状況を招き寄せた一因であったわけで、言い換えれば、さまざまなことにあらかじめうんざりしていたことの結果として、われわれは、いまいるこの地点に立っているのかもしれない。でもって、私たちは、自分たちがうんざりし続けてきたことの代価を、これから長い時間をかけて支払うことになるのだろう。まったく、一から十までうんざりする話ではないか。

 今回は、義家弘介文部科学副大臣が6月13日の農林水産委員会で述べた言葉について考えてみるつもりでいる。

 というのも、義家副大臣は、現政権の「気分」というのか、精神構造をみごとなばかりに体現している人物で、それゆえ、この人の言動を観察すれば、われわれが遭遇するであろう近未来を、かなりの程度、正確に予測できるはずだと思うからだ。

 朝日新聞の報道によれば、

《13日の参議院農林水産会議で、自由党の森ゆうこ氏は、「文科省の文書再調査は(文書の存在をあると告発した)犯人捜しのためにやっているという話も出ている。今回告発した人は公益通報者にあたると思うが、権利を守る意識はあるか」と尋ねた。

 これに対し、義家氏は「文科省の現職職員が公益通報制度の対象になるには、告発の内容が具体的にどのような法令違反に該当するのか明らかにすることが必要だ」と説明。さらに森氏が「『(告発者を)守る』と言えないのか。勇気を持って告発した人たちの権利を守ると言って欲しい」と求めると、義家氏は「一般論」と断った上で、「告発内容が法令違反に該当しない場合、非公知の行政運営上のプロセスを上司の許可無く外部に流出されることは、国家公務員法(違反)になる可能性がある」と述べた。》(ソースはこちら

 ということになっている。

 義家氏のこの発言は、安倍総理が6月9日、学校法人「加計学園」の獣医学部の新設をめぐり文部科学省が追加の調査を行うことについて、「徹底的に調査するよう指示した」とされる、その総理の指示と整合していない。

 総理は、「徹底的な調査」を指示している。

 一方、義家副大臣は「非公知の行政運営上のプロセスを上司の許可なく外部に流出されることは国家公務員法(違反)になる可能性がある」と述べることで、事実上「情報の漏洩」を強く牽制している。

 並べて見れば明らかな通り、この二つの指示は正反対の方向を指し示している。
 ということはつまり、この二つの指示をともに満足させることは原理的に不可能なわけだ。

 事情を聴かれた文部科学省の職員はどちらの指示に従ったら良いのだろうか。

 総理の意を受けて、徹底的な調査に応ずるべく、自らの知るところをすべて明らかにすると、その態度は、副大臣が指摘するように「国家公務員法」に抵触してしまうかもしれない。

 かといって、副大臣が示唆するところに従って、国家公務員法に違反しないように非公知の行政運営上のプロセスを外部に流出することを避けようとすれば、総理の指示する「徹底的な調査」に違背することになる。

 にっちもさっちも行かないではないか。

 文科相の職員にしてみれば、このダブルバインド状況の意味するところは、完全な行動不能である。
 てなわけで、かかる状況から導き出される近似解は、

 「徹底的な調査に応ずるべく真摯に回答している体を装いつつ、その実、何ひとつ内実のある話を漏らさない証言態度」

 ぐらいなところに落着する。
 わかりきった話だ。

 官邸にしてみれば、国会の会期が延長されて、共謀罪が可決成立するまでの間、時間を稼ぐことができればそれで良いわけだし、副大臣の立場もまた、国会審議が続いている間は、文科省が加計学園の問題から逃げている印象を薄めることができればとりあえずはオーケーだ、ということだ。

 つまり、両者の立場は、「指示」としては完全に矛盾しているものの、「意向」の上でははじめから足並みを揃えているわけで、なあに国会が閉会してしまえば、矛盾も一致も、すべてはどうせ古い資料になるだけの話なのである。

 私が今回の騒ぎを眺めていて面白いと思ったのは、義家副大臣の農林水産委員会での恫喝まがいの答弁について、ネット上で

 「ヤンキー先生の名が泣くぞ」

 という反応がいくつかあがっていたことだ。

 これらの声がどういう意図から発せられたものなのかというと、上司である官邸の意向を忖度して、部下にあたる文部科学省の官僚を恫喝してみせた義家副大臣の振る舞い方が、「弱きを助け強きをくじく」ヤンキーの美学に反するではないか、ということだったようだ。

 なるほど。
 「ヤンキー」という言葉からそういうたくましくも心正しい人間像を思い浮かべる人々がいることは、ちょっと不思議に見えるが、よくよく考えてみれば、さして意外な展開でもない。

 実際、ヤンキーを理想の人間像ないしは男らしさの典型として描写する物語は、いまなお少年漫画やテレビドラマの世界では、ど真ん中のメインストリームを形成している。

 「ごくせん」「タイガー&ドラゴン」「静かなるドン」「マイボス☆マイ☆ヒーロー」「任侠ヘルパー」「クローズ」「龍が如く」などなど、本来は反社会的な人物像であるはずの任侠の世界の人間をヒーローとして描くドラマなり漫画も、相変わらず高い人気を維持している。

 要するに、われら日本人は、ヤンキーが大好きなのだ。

 であるからして、「ヤンキー先生」というキャッチフレーズも、単に義家副大臣の来歴が「不良あがり」だという事実を描写しただけの言葉ではない。

 むしろ、「ヤンキー先生」というその名前は、義家氏に対して、「改悛したヤンキー」だからこそ期待できる、熱い人間性や行動力を期待して名付けられたものだ。

 ヤンキー先生の支持者たちは
 「片隅に追いやられた人間への共感」
 であるとか、
 「正しいことのためにはカラダを張る傾向」
 であるとか
 「世の中の決まりごとや法秩序より、自らの信念にしたがってまっすぐに行動するひたむきさ」
 みたいな、そういう男気(おとこぎ)なり、親分肌を彼の上に見ようとしていると、そう考えるのが自然だ。

 しかしながら、私の見るところ、義家副大臣が、国家公務員法を持ち出して官僚を恫喝したのは、極めてヤンキーらしい処世だったし、指揮系統における親分筋にあたる官邸の意向を忖度してみせた機敏さもヤンキーしぐさ以外のナニモノでもない。

 なんというのか、ヤンキーというのは、上下関係のはっきりしたサル山ライクな社会での生存に特化した生き方の別名なのであって、ヤンキーほど兵隊として有能な人間はいないという、それだけの話なのだ。

 ついでに申せば、私個人は、義家氏のようなキャラクターを副大臣として重用していることでもわかる通り、そもそも現政権の行動規範自体が、まるっきりヤンキー美学そのまんまだと考えた方が、すべてにおいてわかりやすいのではなかろうかと考えている。

 もっとも、「ヤンキー」という言葉には、様々な定義が並立していて、現状では、あまり厳密な話はできないわけなのだが、ただ、私個人は、現政権が、「ヤンキー」という言葉の多義的な意味を多義的なまま含みおいた上で、いずれにしても「ヤンキー」志向であることは明らかだというふうに考えている。

 以下、傍証を並べてみる。

 ヤンキーの精神性は、まるっきりの不良というのとは少し違っている。
 少なくとも本人たちは、自分たちを「できそこないの不良」そのものだとは思っていない。

 むしろ、自分たちのような純一で真正直な人間がうまく適応できないような世の中のありかたのほうが間違っているぐらいに考えることが、彼らの間の共感のタネになっている。

 彼らには彼らなりの道徳があり、固有の美学がある。
 ヤンキーは、武士道や儒教道徳や任侠道みたいなものを寄せ集めた、独特の倫理観を共有している、と言い換えても良い。

 それは、「仲間が第一」だという日本のムラ社会に昔から通有する集団主義の友情賛美傾向でもあれば、「腕と度胸と現場主義」を重んじる10歳児の任侠志向でもある。

 総じて言えば、彼らは儒教道徳(的なもの)から来る「忠孝」と、武家由来の「お家大事」と、任侠映画ゆずりの「友情物語」ぐらいな雑多な物語のアマルガムみたいなものを信じている人たちで、だからこそ本人たちは、自分たちを倫理的な人間だと考えている。

 以上は、大変に大雑把かつ粗雑なまとめだが、私が、ヤンキーと呼ばれる人間像についてざっと考えている骨子の部分だ。
 異論は認める。
 そう思わない人はそう思わなくてもかまわない。

 大切なのは、そのヤンキーの人々が抱いている道徳なり倫理が、近代社会の法理念や人権意識と多くの部分で相容れない点だ。

 で、はなはだ乱暴な結論だが、そこのところが、ヤンキー政権である現政権が、憲法改正を願ってやまない根本的な理由だとも思っている次第だ。

 実際、共謀罪も、
 「仲間内の裏切りを絶対に許さない」
 ことを第一の原則とする任侠世界の疑心暗鬼を明文化したものだと思えば、そんなに違和感はない。

 

 事実、ツイッター世界の中でも「元暴力団組長」を名乗る「猫組長」なるアカウントが

共謀罪成立で発狂してる連中見ながら乾杯したい。

 と、共謀罪の成立を歓迎するツイートを発信して、共感を集めている。
 私は、このアカウントが本当に元暴力団の組長であったのか、単なるやくざワナビーのチンピラなのか、それとも「元」と言いつつ現役としての活動をある程度残しているのか、本当のところはまったく知らないのだが、ともあれ、任侠の世界に身を置いていた設定で情報発信をしている人物が、自分たちが有力な捜査対象であるはずであるにもかかわらず、それでもなお共謀罪へのシンパシーを隠さないのは、なにごとにつけ苛烈さと明快さを好むヤンキーの人々が「人権だのポリティカリーコレクトネスだのに足をとられて思うままにその実力を発揮できずにいる民主警察」に歯がゆさを感じていることを物語っていると思う。

 共謀罪の成立を歓迎する市民は、意外なほど多い。
 ちょっと前にさる高名なお笑い芸人が、日曜の番組の中で、共謀罪の成立を容認する発言をしたことが話題になったが、私はあの発言が、特定の芸人の特殊な感覚であるとは考えていない。むしろ、ああいう発言がバラエティー番組の中で普通に語られたことは、一般のテレビ視聴者の感覚がすでにヤンキー化していることを示唆するものだというふうに受け止めている。

 というのも、あの番組は、出演者の不規則発言がうっかり送出されてしまう生放送の番組ではなくて、収録済みの映像をスタッフが確認した上で再生している収録番組だからだ。

 ともあれ、われわれは、任侠の世界に舞い戻ろうとしている。
 賛成しない人もいるだろうが、私はそう思っている。

 ついでに申せば、私は人前で「腹心の友」みたいな言葉を使う人間は、「仲間」に対して独特の感情を持っているとも思っている。

 彼は、おそらく、仲間を優遇することを、道徳的なことだと考えているはずだ。
 その彼の考え方を改めさせることは容易な仕事ではない。
 私は、無理だと思っている。

 ヤンキーは、「学校の先生が教室で教えていた」タイプの規範や決まりごとを、総じて憎んでいる。

 で、民主主義も、その仲間に入っている。
 ヤンキーは民主主義を好まない。

 彼らはより鉄血でガチで時に暴力的で緊張感に溢れた、ギリギリでスパルタンな体制を好む。

 たとえば日本国憲法の三大原則と言われている

 国民主権
 基本的人権の尊重
 平和主義

 は、いずれも、ヤンキー美学からすると、なまぬるくてお花畑でどうにもイカさない女の腐ったみたいな(←ミソジニーもヤンキーの特徴のひとつですね)旗印に見える。

 だから、そういうものは鼻で笑うことにしている。
 法治主義も、個人主義も、多様性の尊重も、当然のことながらお気に召さない。
 どれもこれも、現代民主主義を支える理念はおよそビシっとしていない、と、そう思っている。

 まあ、人間をビシっとさせるみたいな体制は、強権体制に決まっているわけだから、民主主義がその反対を志向するのは当たり前といえば当たり前なのだが、とにかく、ヤンキーはビシっとしていない体制を、コシの無いうどんをきらう讃岐の人たちみたいな調子でバカにしている。

 ヤンキーの目には、法よりは信義、個人の裁量よりは仲間の掟、人権よりは義理、平和よりは闘争、平時よりは非常時、自由よりは挺身、生命よりは死の方が美しく、尊く見えている。

 その証拠に、新撰組にしても、白虎隊にしても、四十七士にしても、尊敬できる集団に属していた男たちは誰もが血によって誓った大義を成員の個々の生命より高く置いたではないか……と、彼らは考える。

 一方、民主主義が想定する社会は、その中で生きる個々人がそれぞれに別の考え方を持ち、相容れない感情と立場と自由を抱いていることを前提に設計されている。

 であるから、民主主義の世界では、個々人の信念や正義感や人権が折り合わない部分については、互いに承認した法に従うことで共生することにしている。

 だからこそ、日本国憲法は、公よりは個を、規制よりは自由を、忠義よりは人権を、私的な集団の掟よりは普遍的な法律を重視しているわけなのだが、そういう曖昧でビシっとしていない世界観は、ヤンキーのみなさんにはピンと来ない。

 ヤンキー先生について、「ヤンキー」なのに「先生」だっていうのは変じゃないか、というツッコミがあったが、実は、この組み合わせはそんなに不自然ではない。

 というのも、人間と人間の間に権力関係を設定すると、当然その中で生きる人間はヤンキーになるからだ。

 ということは、生徒に対して上からものを言う前提で対している限り、その先生は、一定のヤンキー性を身にまとうことになる。

 私は、義家副大臣みたいなタイプの人間は、自分が関わる組織をサル山化する触媒として機能するのだと思っている。

 このことはつまり、彼を重用し、文科省の大臣に据えている人間が、官僚機構をサル山化することを願っているということでもある。

 もしかしたら、彼は、われわれの国の社会をまるごとサル山にしたいと考えているのかもしれない。

 まあ、その方がビシっとして良いじゃないかと思う国民が多数派を占めるようなら、うちの国がサル山化することを止めることはもう誰にもできない。

 余生は、はぐれザルとして生きて行くしかないのかもしれない。
 仲間はつのらない。
 共謀罪になると思うので。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

外からは、サル山のサル達はけっこう幸せそうに見えるんですよね…。
高校の教科書にあった太宰治の「猿ヶ島」を読み直したくなりました。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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