衰える足腰、量が増える失禁、度重なるトイレでの排便の失敗――老衰とアルツハイマー病の両方の進行により、2016年の秋の母は弱り、ますます介護に手間がかかるようになっていった。
10月に入ると、これらに加えて過食(「介護体制が整ったと思うや、病状が進行…」)も再発した。
いつも午後6時頃に夕食を出すようにしていたのだが、少しでも遅れると台所をあさり、買い置きの冷凍食品を散らかすのだ。「お腹が空いてお腹が空いて、いてもたってもいられない。御飯を作ってくれないあんたが悪い」――食欲は原始的かつ根源的な欲求ということなのだろう。何度言っても、懇願しても怒っても止まらなかった。
自分が壊れる時は、必ず前兆がある。
今回の場合、前兆は、「目の前であれこれやらかす母を殴ることができれば、さぞかし爽快な気分になるだろう」という想念となって現れた。
理性では絶対にやってはならないことだと分かっている。背中も曲がり、脚もおぼつかず、転んだだけで骨折や脱臼する母を私が本気で殴ろうものなら、普通の怪我では済まない。殴ったことで母が死んでしまえば、それは殺人であり、即自分の破滅でもある。
が、理性とは別のところで、脳内の空想は広がっていく。
簡単だ。
拳を握り、腕を振り上げ、振り下ろすだけだ。
それだけでお前は、爽快な気分になることができる。
なぜためらう。ここまでさんざんな目に合わせてくれた生き物に、制裁の鉄槌を落とすだけではないか。握る、振りかざす、振りまわす――それだけで、お前は今感じている重苦しい重圧を振り払い、笑うことができるのだぞ。
悪魔のささやきという言葉があるが、このような精神状態の場合、間違いなく悪魔とは自分だ。悪魔の声は、ストレスで精神がきしむ音なのだ。
遂に手が出てしまった
10月23日土曜日、私は少し台所に立つのが遅れた。すると母は冷凍食品を台所一杯にちらかし、私の顔を見て「お腹が減って、お腹が減って」と訴えた。明日の日曜日も自分が夕食を作らねばならない。「明日は遅れないようにしよう」と思う私の脳裏で、別の声がはっきりと響いていた。「殴れ、明日もやらかしたら殴れ」。
翌24日の夕刻、いつもの日課の買い物に出た私は、少し予定が遅れた。大急ぎで戻って来たのは午後6時過ぎ。5分と過ぎていなかったと記憶している。
間に合ったかと思った私を迎えたのは、またも台所に散らかった冷凍食品と、母の「お腹が減って、お腹が減って」という訴えだった。
気が付くと私は、母の頬を平手打ちしていた。
タイトルは『母さん、ごめん』です。
この連載「介護生活敗戦記」が『母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記』として単行本になりました。
老いていく親を気遣いつつ、日々の生活に取り紛れてしまい、それでもどこかで心配している方は、いわゆる介護のハウツー本を読む気にはなりにくいし、読んでもどこかリアリティがなくて、なかなか頭に入らないと思います。
ノンフィクションの手法でペーソスを交えて書かれたこの本は、ビジネスパーソンが「いざ介護」となったときにどう体制を構築するかを学ぶための、読みやすさと実用性を併せ持っています。
そして、まとめて最後まで読むと、この本が連載から大きく改題された理由もお分かりいただけるのではないでしょうか。単なる介護のハウツーを語った本ではない、という実感があったからこそ、ややセンチな題となりました。
どうぞお手にとって改めてご覧下さい。夕暮れの鉄橋を渡る電車が目印です。よろしくお願い申し上げます。(担当編集Y)
私と母はもみあい、叩き合い、そして…
母はひるまなかった。「お母さんをなぐるなって、あんたなんてことするの」と両手の拳を握り、打ちかかってきた。弱った母の拳など痛くもなんともない。が、一度吹き出した暴力への衝動を、私は止めることはできなかった。拳をかいくぐり、また母の頬を打つ。「なんで、なんで。痛い、このっ」と叫ぶ母の拳を受け、また平手で頬を打つ。
平手だったのは、「拳だともう引き返せなくなる」という無意識の自制が働いたからだろう。その時の自分の気持ちを思い出すと、「止めねば」という理性と「やったぜ」という開放感が拮抗して、奇妙に無感動な状態だった。
現実感もなく、まるで夢の中の出来事のように、私と母はもみ合い、お互いを叩き合った。いや、叩き合うという形容は、母にとって不公正だろう。私は痛くないのに、母は痛かったのだから。自分を止めるに止められず、私は母の頬を打ち続けた。
我に返ったのは、血が滴ったからだ。母が口の中を切ったのである。暴力が止むと母は座り込んでしまった。頬を押さえて「お母さんを叩くなんて、お母さんを叩くなんて」とつぶやき続ける。私は引き裂かれるような無感動のまま、どうすることもできずに母をみつめるしかなかった。
そのうちに、母のぶつぶつの内容が変化した。
「あれ、なんで私、口の中切っているの。どうしたのかしら」――記憶できないということは、こういうことなのか! この瞬間、私の中に感情が戻って来て、背筋を戦慄が走り抜けた。
洗面所に向かった母を置いて、私は自室に籠もった。なにを考える気力も沸かないまま、携帯電話を見ると、ドイツにいる妹からのLINEの連絡が入っている。
「今日コネクトした方が良ければ連絡ちょうだい。
来週は秋休みになるので自宅にいません。再来週の11/6はいます」
妹とは、毎日曜日の午後6時か7時頃に、スカイプをつないで、母に孫達の顔を見せるという習慣をずっと続けていた。都合が付かない時は、柔軟に中止したり延期したりしているので、その連絡だ。
今日が日曜日で助かった――。すぐに私は返事した。
「今すこし、話をしたい。スカイプスタンバイします。」
妹に話すことで危機を脱する
スカイプを通じて妹に、私が何をしてしまったかを話した。誰かに話さなくては自分が狂ってしまいそうでたまらないということもあったし、話すことで再発を防がねばならないという意志もあった。何をしても母の記憶には残らない。この状態で暴力が常習化し、エスカレートすることを私は恐れた。
妹は事情をすぐに理解したようで「分かった。私からケアマネのTさんに連絡を入れる。もう限界だということだと思うから、ちゃんと対策しよう」と言ってくれた。
翌日、すぐにTさんは連絡してきた。
「妹さんからメールが届いて、事情は理解しました。まずは松浦さん自身が少しお休みをする必要があると思います。とりあえずお母様にはショートステイに2週間行ってもらいましょう。休養して時間を稼いで、その上でこれからのことを考えるといいと思います。必要なことは全部私のほうで手配しますから」
そして付け加えた。「正直、私から見ても、ここしばらくの松浦さんは、もう限界だなと思っていました。よくここまでがんばられたと思います」
よく頑張った――おそらくは暴力を振るってしまった家族に対して、どのような対応をすればいいかが、マニュアル化され、確立しているのだろう、と私は思った。が、たとえそうであっても、この言葉は心に沁みた。
こうして急に、母をショートステイに送り出すことになったが、その前にいくつかやらねばならないことがあった。歯医者の定期検診に連れて行き、歯の掃除をしてもらった。妹に頼んで冬用下着を通販で送って貰い、試着させてサイズが合うかどうかを確認した。
ショートステイに行く前日、内科医院に連れて行ってインフルエンザの予防接種をした。抗体が定着するまで数週間かかるから、冬の本格的流行の先だって、早めにやっておかねばならない。
予防接種の同意書には、本人のサインが必要だった。「ここに自分の名前を書くんだよ」と言うと、母は「自分の名前が書けない」と当惑したような顔で言った。「ひらがなでもいいんだよ」というと、しばらく考えてから、やっと漢字で自分の名前を書いた。かつてのはつらつとした筆跡からは想像もつかない、弱々しいサインだった。
母がショートステイに出ると、家にいるのは老犬と私だけとなった。2週間の空白――実に2年4か月振りに私が得た休息だった。
母を預けることを決意する
ショートステイなどの施設を使って、家族と本人を引き離すというのは家庭内暴力が発生した際の基本的な対応なのだろう。11月、12月と、ケアマネTさんは、11日間のショートステイの後3日間の帰宅、また11日間のショートステイと3日間の帰宅というローテーションを組んだ。
公的介護保険の補助が出るとはいえ、ショートステイには1日5000円程度の出費が伴う。収入が激減している私にはかなりきつい状況だ。ありがたいことに、共働きをしている妹が、緊急に送金してくれたので、収入的危機は回避できる見通しがついた。
ケアマネTさんと話し合い、自宅で私が中心になって母を介護するのはもう限界であって、ここから先は施設のプロに母を託するべきであるということになった。
私の気持ちはといえば、悔悟と安堵がぐるぐるに混ざったものだった。
「ここまでか、ここまでしかできなかったか、もう少しなんとかならなかったか」と、「これでやっと終わる」が入り交じってぐるぐると身の内を走り回り、母がショートステイに行っていても、あまり休息できたという実感はなかった。
実際、まだ安堵できる状況ではなかった。老人介護施設には定員があり、昨今の老齢人口の増加によってどこも混雑していた。望んだからすぐに入居できるというものではないのだ。
一言で老人介護施設といっても、その種類は非常に多い。
大きくは、健常な老人の入居する施設と、認知症などで介護が必要とする老人向けの施設とに2分され、さらに公的施設と民間施設とに分かれる。
これだけで区分が4つあることになるが、それぞれ規模や目的によってさらに細かい種類が存在する。大人数の施設、少人数の施設、生活していくことが目的の施設に、医学的な治療やリハビリテーションを目的とした施設などなど。
母のように取りあえず目立った疾患はなく、老衰とアルツハイマー病により要介護3の認定を取得している場合には、「介護が必要な老人が、生活を営んでいくための施設」が、入居の対象ということになる。
3つの入居先候補
我々兄弟は、Tさんのすすめで、母を預ける先として、特別養護老人ホーム、グループホーム、民間の老人ホームの3つを検討することにした。
特別養護老人ホームというのは、要介護3以上の認定を受けた老人が入居できる公的な介護施設だ。生活の場としての施設なので、継続的医療行為が必要な場合は対象外となる。広域型と地域密着型とがあり、広域型はどこに住民票があっても入居可能。地域密着型は定員29名以下と小規模で、その地域の老人のみを受け入れる。公的施設だけあって、入居費用が比較的安価だ。施設の建設年次によって、設備の充実度合にかなりの差があり、一人一部屋の個室のところもあれば、病院の大部屋のようなところもある。安価ということもあって入居希望者が多く、入居まで1年以上自宅待機というケースもあるという。
それに対してグループホームは、主に社会福祉法人やNPOなどの民間が主体となって運営する、地域密着型の介護施設だ。その地域に住む老人を受け入れ対象としている。規模は10名から20名程度で、少人数で家族的介護を行うことを特徴としている。施設は基本個室。公的な補助が入っていることもあって、入居費用が極端に高いということもない。ただし、こちらも人気は高く、入居前の待機が長くなる傾向がある。
民間の老人ホームは言うまでもないだろう。全般に入居費用は高い。上を見れば切りがない世界だ。が、逆に言えば金次第でどんなサービスでも選択することができる。やはり高いということがネックになるのか、入居はさほど難しくはない。ここでも「地獄の沙汰も金次第」なのである。
実際問題、民間の老人ホームは、我々兄弟の収入に比して入居費用が高すぎ、とてもではないが利用はできなさそうだった。となると特別養護老人ホームか、グループホームだが、どちらもそう簡単に入居できそうな雰囲気ではなく、「これは長期戦となる」というのが、2016年の末の段階での見通しであった。
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