最大都市ヤンゴンの中心部から車で北へ約30分。日本からの中古車や模倣ブランドのバイクが往来する幹線道路を進むと、見慣れたキリンビールの看板が道沿いに現れた。
「ここは、ヤンゴン有数の水源地帯。他社工場も近くに集まっています」。そう言って出迎えたのは、キリンホールディングスの南方健志・常務執行役員。現地最大手ミャンマー・ブルワリーの社長も務める。
キリンが2015年に買収したミャンマー・ブルワリーの敷地内には、真新しい発酵タンクや、缶へのパッケージングラインが並ぶ。生産能力拡大に向けた工事は今も続いている。
ミャンマーでは長らく続いた軍事政権が外資参入を妨げ、その結果として未開の市場が残った。約5100万人の人口を有し、平均年齢は27.1歳。消費市場としての魅力は強い。アジア最後のフロンティアと呼ばれるゆえんだ。
●1人当たりのビール年間消費量
年間の1人当たりビール消費量は3.7リットルと日本(43リットル)の10分の1に満たないが、生活水準の向上に伴い市場は年30%のペースで拡大。伸びしろは十二分にある。
「石橋をたたいても渡らないはずの当社が、こんな大胆な投資決断を下すとは驚いた」。南方氏が自嘲気味に語るのも無理はない。キリンは2年前、同社の投資基準のギリギリのラインを攻めて、この地に参入した。
15年8月、「キリン、ミャンマーのビール最大手を700億円で買収」。新聞記事に躍った見出しは、よく目にする日系企業のアジア出資案件とは少しわけが違った。
米制裁の解除前に投資
市場の8割のシェアを占有するミャンマー・ブルワリー。キリンはその55%の株式を取得した。問題は残りの45%だ。保有していたのはミャンマー国軍系の年金ファンドだった。
当時のミャンマーは米国からの経済制裁が解けず、国軍系ファンドも制裁リストに入っていた。欧米企業は同ファンドと提携することが、実質禁じられていた。日本企業も、米国の目を気にして、制裁企業関連への出資には二の足を踏むケースがほとんどだ。
キリンホールディングスは言わずと知れた上場企業。ミャンマー・ブルワリーへの出資は、株主から問題視されかねない際どい案件だった。
だが、見方によっては絶好のチャンスでもあった。東南アジアのビール市場はハイネケン(オランダ)やカールスバーグ(デンマーク)などの外資が、圧倒的な地位を確立している。タイ、インドネシア……、どこを見回しても日本勢は後発組の地位を強いられている。その中で、ミャンマーなら欧米資本が大規模投資に踏み出せないタイミングで市場参入を果たすことができた。
出資を検討していた際、「政治的な雪解けは近づいているという情報はつかんでいた」と振り返る南方氏。その後、16年9月には事実上の国家元首であるアウン・サン・スー・チー国家顧問とオバマ前米大統領の会談が実現。米制裁が19年ぶりに解除された。
さらにキリンは今年2月、国内3位のマンダレー・ブルワリーの買収を発表。北部都市マンダレーに拠点を持つ同社工場は、100年以上前の英国統治時代に作られた施設を今も保有する。品質管理はできておらず、瓶ビールを口に含むと強いえぐみが舌に残る。
キリンが求めたのは味ではない。ライセンスである。
長らく軍事政権下にあったこの国。戒律の厳しい上座部仏教を信仰していることもあり、アルコール関連事業への制限が厳しい。例えば製造ライセンスは、1企業に1工場しか与えられない。
マンダレー・ブルワリーのシェアは3~4%にとどまるが、南部ヤンゴンからではカバーできない中・北部地域へビールを製造販売する拠点にできる。
キリンは、オーストラリアやブラジルで数千億円規模の現地企業買収を繰り返しては、現地での販売に苦しんできた。海外で失敗はもう許されない。
ミャンマーは米制裁やライセンス規制など、参入障壁が高い市場。だからこそ、早期に入り込めば優位に事業を進められる。際どい投資判断にも、キリンに迷いはなかった。
ビジネス環境は世界170位
16年3月末にスー・チー国家顧問主導の新政権が発足して1年が過ぎた。軍事政権から民政移管したテイン・セイン前政権時代と変わらず、海外からの投資を誘致する動きは引き続き重視されている。米制裁解除に加え、新たな投資法が制定され、経済は明るい方向へ進もうとしている。
当然課題も多い。ビジネス環境は世界190カ国・地域の中で170位と最低レベル(世界銀行調べ)。慢性的な電力不足に加え、汚職も蔓延している。だからといって、手をこまぬいてはいられない。
日本企業は「条件が整うまで待つ」という従来姿勢では勝てないことを嫌というほど味わってきた。ベトナム、カンボジアなど東南アジアの「開発後発組」では、政府の後押しを受けた中国や韓国の企業に投資額で圧倒されている。
最後のフロンティア、ミャンマー。この国の経済をリードする投資国はまだ決まってはいない。リスクを取ってでも、積極投資に転じる日本企業はキリンだけではない。
ヤンゴン中心部に位置する黄金の仏塔、シュエダゴン・パゴダへと続く参道の入り口には、週末になるとテントの前に人だかりができている。
様子を見に近づくと、家族連れがインスタントヌードルの試食品を食べている。エースコックが仕掛けたインスタント麺の試食キャンペーンだった。
ミャンマー向けには現地の煮込み料理「ヒン」の味をベースとした新商品を投入し、価格も1食20円に抑えた。
この国の1人当たりのインスタント麺消費量は年8.5食と日本の44食に比べ少ない。だが、工業化が始まる国では、都市部に出てきた労働者が、低コストで食べられるインスタント麺を選び、需要が爆発的に伸びる傾向がある。
ヤンゴン近郊。住友商事・三菱商事・丸紅などが開発したティラワ工業団地にエースコックの新工場がある。これまでベトナム工場から輸出してきたが、4月にも現地生産に切り替える計画だ。現在は市場シェアは5%にとどまるが、本格稼働すれば年7200万個と国内年間消費の2割に相当する生産量となる。
しかし不安も多い。水力発電中心のミャンマーでは、乾期にはほぼ毎日停電が起きる。ガス火力発電所を整備したティラワ工業団地の停電率は他の工業団地に比べ10分の1程度であるが、現在入居しているのは縫製業など電力使用量が少ない企業が多い。
インスタント麺を製造するエースコック工場では、麺の素材をラインに載せ、一定スピードで油揚げ・冷却工程を行う。1度でも停電すると製造ラインの麺は全て廃棄処分となる。
「電力事情を考えると事業計画が描きにくい。同業大手では進出にゴーサインが出せないのでは」とミャンマー法人の平野彰社長は指摘する。
エースコックは1995年、ベトナムでいち早く生産・販売を開始し、圧倒的なシェアを獲得した経験を持つ。「食の嗜好は保守的。先にシェアを取ったものが絶対的に有利となる」(平野社長)。先行者利益を再び獲得するため、多少のリスクは織り込み済みなのだ。
東南アジア諸国連合(ASEAN)の中でも賃金水準が最も低いミャンマーではあるが、スマートフォンは既に普及している。ヤンゴン市街地を歩くと、露天で果物を売る女性から僧侶まで、誰もがスマホを持っている。
●SIMカード普及数の推移
ミャンマーでは直近2年間でSIMカードの普及数が600万枚から5000万枚へと爆発的に伸び、人口1人当たりほぼ1枚の水準となった。2014年に海外事業者の参入を認めた結果、市場原理が働いてSIMカードの価格は1枚10万円超から150円程度に、劇的に値下がりしたからだ。
ヤンゴンの中心部。エレベーターすら無い、古びた白いビルに国内携帯シェア50%弱を握るミャンマー郵電公社(MPT)の事務所がある。同社には日本のKDDI・住友商事連合が14年7月から経営参画した。両社併せて100人が日本からミャンマーに出向き、事業に携わっている。
カエル跳びの市場
「先進国で経験したプロセスを飛び越えたスマホの普及。リープフロッグ(ジャンプするカエル)の市場と呼んでいる」とKDDI出身の雨宮俊武MPT・CEO(最高経営責任者)は説明する。
固定電話の普及率は5%程度。インターネットの固定回線もほとんどの地域で未整備であるが、携帯電話の基地局整備を背景に、スマホだけがいち早く普及した。LTE(高速通信サービス)も一部地域で利用が始まっている。
当然、日本のやり方は通用しない。そこで、MPTは携帯キャリアの枠を飛び越え、昨年9月からオリジナルブランドのスマホ端末を販売している。
端末価格は約3000円と同国でも最も安い水準とした。しかも、購入者には通話料割引などを通じて購入代金分を還元する実質無料作戦に打って出て、最初に用意した数万台はすぐに売り切れた。自ら価格破壊を仕掛け、カタール系やノルウェー系のライバル外資キャリアに勝負を挑む。受け身の姿勢にとどまっていない。
ミャンマーはインド、中国、タイなどアジアの有力国に囲まれている。軍事政権時代は中国政府との結びつきが強かったものの、スー・チー、オバマ会談を経て米政権との関係改善も模索し始めた。政治と経済の両面で、極めて重要なポジションにある。
人口5100万人と消費市場としての期待度も高い。その7割はまだ農村部に居住しており、今後も安価な労働力を都市に供給する余地もある。
「映画『ALWAYS三丁目の夕日』の題材となった昔の日本のような、国全体が伸びる期待感がある」と、ミャンマー日本商工会議所の隅良太郎会頭は話す。
これまでのところミャンマーへの進出は日本勢が先行しているが、うかうかとはしていられない。米制裁解除を受け、世界の投資家がそのポテンシャルに目を付け始めたからだ。ティラワ工業団地の運営会社社長の梁井崇史氏も「欧米企業の入居検討が増え始めた」と話す。
街の風景も少しずつ変化している。ヤンゴン中央駅前の敷地に最近、巨大な柵が突如として張り巡らされた。三菱地所と三菱商事が中心となり、オフィスビルなど計4棟、総延べ床面積約20万平方メートル超という大規模不動産開発プロジェクトを立ち上げた。
竣工予定の20年度には、複数の外資系企業による50~100人規模の入居を想定しているという。近隣ではシンガポールの不動産大手ケッペル・ランドも大規模なオフィスビルの開発計画を進めている。
11年にテイン・セイン前大統領が経済改革を打ち出し、ミャンマー投資ブームが起きたものの、多くは先行投資の域を出ていない。スー・チー政権は欧米との結びつきを強め、世界からマネーを呼び込む狙いが明確にある。ブルーオーシャンのミャンマー市場も、大競争時代の到来は時間の問題だ。
リスクを取ることで一歩先んじて市場に参入した日本勢。この一歩が後々、大きな意味を持つかもしれない。
ミャンマーは「隠れた資源大国」という顔も持つ。下の図の通り、最も輸出比率が大きいのは天然ガス。3位には鉱物が続き、これら2項目で全体のほぼ半分を占める。
●2015年度の品目別輸出比率
近年では海上鉱区の国際入札が実施され、資源探鉱が本格的に始まった。2016年には南部の海域で国内最大規模の天然ガス田も発見された。
しかし、潤沢な資源を生かし切れていない側面もある。天然ガスの大半は隣国の中国やタイへパイプラインを通じて輸出している。一方、電力不足に悩む国内への供給体制は整っていない。
鉱物では、ヒスイ(下写真)が世界最大の産出量を誇るものの、近年の相場下落で関連産業は大打撃を受けている。
スー・チー氏は「資源はいずれ枯渇する」と訴え、工業化政策を重視する。ただ、現在の主要産業である縫製品ですら、輸出全体に占める割合は8%弱にとどまる。
欧米との関係改善や投資関連法の改正など一連の動きの背景には、資源に依存する経済構造からの脱却を急ぐスー・チー氏の焦りが隠されている。
(日経ビジネス2017年4月10日号より転載)
登録会員記事(月150本程度)が閲覧できるほか、会員限定の機能・サービスを利用できます。
※こちらのページで日経ビジネス電子版の「有料会員」と「登録会員(無料)」の違いも紹介しています。