海外の友人や仕事仲間には、「相当変わっているな」という人が少なくない。社会が“普通”であることを強いる度合いが、日本社会よりも低いのだろう。(画像:Ikon-Images/アフロ)
海外の友人や仕事仲間には、「相当変わっているな」という人が少なくない。社会が“普通”であることを強いる度合いが、日本社会よりも低いのだろう。(画像:Ikon-Images/アフロ)

「異才活用」を本気でやる

 日本の企業、特に伝統的な大企業では、時代の変化とのずれが目立つ人事制度改革の議論が盛んだし、少しずつ変化のきざしも見えている。ただ、本当に効果ある改革を行おうとするならば、大変困難だが実行すべき二つの山を越えなければならない。「異才活用」を本気でやること、そして、「働く意味」を再設定することだ。

 人材の多様性を高め、異質同士のぶつかり合いの中で、イノベーションを起こす。この観点からの「異才活用」に反対する向きは少ない。しかし、これを本当に実行するのは、容易ではない。我々自身が無意識に培ってきた組織文化という強敵を相手にしなければならないからだ。

 『発達障害』(岩波明著、文春新書)、『異才発見!――枠を飛び出す子どもたち』(伊藤史織著、岩波新書)という二冊の書籍がある。ここのところ、NHKをはじめさまざまなメディアでも取り上げられているASD(自閉スペクトラム症)、ADHD(注意欠如・多動症)、アスペルガー症候群などの発達障害。これらについて、最新の知見はどのようなものか、少し勉強してみよう、というくらいの気持ちで、この二冊を読み始めた。

私自身、ADHDの症状にかなり該当していた

 ところが、読み進めているうちに、私自身、軽度ではあったかもしれないが、ADHDの症状に相当当てはまる子供だったのだな、ということに気づかされた。

 小学校時代、毎年毎年通信簿には、「落ち着きがない」「すぐに気が散る」といった指摘が続いていた。屋外で写生をした際に、時間配分がうまくできず、「あと数分で片付けよう」と言われてから、大慌てで、できていない部分を脈絡のない色で塗りたくり、当初はそこそこうまく描けていた絵を台無しにしたことを、今でもよく覚えている。整理整頓や片づけも大の苦手で、学期の終わりになると机の引き出しから、かちかちになった給食のパンが出てきたりして、隣の席の女の子が片づけてくれていた。

 何かにつけて、悪気はないのだが、ルールや規則を守れず、今考えてみると、かなりの問題児だと思われていたかもしれない。

「どうしてこんなに生きづらいのだろう」

 その後、中学に入っても、同様のことが繰り返され、「きちんとしろ」「なぜそんなことができないんだ」と怒られることが続き、大げさに言えば「どうしてこんなに生きづらいのだろう」と思っていた。

 一説によれば、小学生男子の約1割は、なんらかの発達障害に当てはまるらしいが、私もその一人だったのだろう。当時の生きづらさや疎外感は、このあたりからも来ていたのかもしれないと、いまさらながらに気づかされた。(もっとも、「発達障害」の著者、岩波先生によれば、最近自分が発達障害だと思い込んで受診してくる大人が多いらしいので、勝手に決め付けてはいけないのだろうけれど。)

 私の場合は、母親が根拠なく「あなたは大丈夫」だと思い続けてくれたことや、中学・高校で(少数ではあるが)「おまえは本当に仕方ないな」と言いながら、受け入れてくださった先生方のおかげで、いつの間にか(「普通の人」のふりをしながら)生きていける程度には改善した気がする。

異質な自分を直そうとして、精神を病んでしまう子供も

 ただ、前述の本によれば、こういう症状、言い換えれば、異質さをなんとか直そうとするあまり、本人が二次障害的な精神症状を起こすまで、責めてしまう例も数多いらしい。

 まったく別の話だが、海外、特に米国や欧州の一部の国で友人や仕事仲間と接していると、「この人は相当変わっているな、日本だと到底受け入れられないだろうな」と思わされる人たちが、かなりの数、存在する。おそらくは、日本社会よりも「周囲に合わせること、“普通”であることを強いる」度合い、「暗黙の社会ルールに従う」ことを求める度合いが低いのではないだろうかと思える。帰国子女の人たちからも、同様の話は何度も聞かされた。

 医学の専門家ではないので、断言することはできないが、発達障害にも軽度から重度なものがあり、その中で比較的軽度なものが、日本社会の中では「相当変わっている」「異質な」ものとして扱われることが多いように思える。「同調圧力」という言葉があるが、知らず知らずのうちに、日本の社会や組織の中に、ルールや規則通りに動けない人に対して、厳しく評価する傾向があるのは間違いないだろう。典型的なのは、人事評価の中で「協調性がない」とされるとマイナス評価されることが多いというあたりだ。

「異才を伸ばす」というプロジェクト

 さて、二冊目の『異才発見!』では、東大の先端研で、こういう少し異質なところがある子供たちの中で、磨けば光る才能があり、それを自分自身も伸ばしたいという志がある人たちを選んで行われている、「異才を伸ばす」というプロジェクトが紹介されている。詳しくは、ぜひ同書をお読みいただきたいが、この異質を受け入れ、さらに異才を伸ばす、ということが、そう簡単ではないということがよくわかる。

 不登校だった子供が学校に行き始めても、「そんなことが目標だったのか」と叱咤激励し、おたくのようにあることに詳しい子供に対しては「超一流はそんなものじゃない」と本物に接する機会を作る。自分で課題を自由に設定させ、その上で、具体的な行動も自分でプランさせる。その内容が良ければ、時間的、金銭的サポートは惜しまない。この繰り返しをしていく指導側の一種執拗なまでのこだわりと努力があってこそ、異才が輝く、というのだ。

いかに我々が、彼ら・彼女らを排除してしまっているか

 これらの発達障害は、子供だけではなく、大人にもかなりの数が存在すること。しかし、メディア等で取り上げられることで、自分は発達障害ではないか、と思い込んでしまう人もいること。などなど、いろいろ蒙(もう)を啓(ひら)かれる点が多々あった。

 ただ、「日本企業が多様性を高め、さまざまな異質の人材を活用する難しさ」という従来から考え続けているテーマについて、この二冊の中に大きなヒントがあったのは予想外だった。

 『発達障害』で、「空気が読めない」「極端なこだわり」といった特徴がある人たちをどう受容していくのか、という部分があるのだが、ここで気づかされるのは、いかに我々が(無意識のうちに)彼ら・彼女らを排除する行動をとってしまっているか、だ。特に日本の会社組織の中では、ある一定の行動規範からはみ出してしまう人たちを低く評価することが、無意識のうちに繰り返し行われ、組織文化の一部にまでなってしまっている可能性が高いように思える。

「異質な人材を活かす」というレベルではなく、根こそぎ変える

 単に言葉で、「異質な人材を活かす」というのではなく、無意識なうちに彼ら・彼女らを低く評価したり排除したりしがちな組織文化を、根こそぎ変えていく。さらに、本当に活かすために、リーダーが徹底的にチャレンジしながら深く関わっていく。この二つができてこそ、多様な人材が受け入れられ、その中から異質同士のぶつかり合いを通じてイノベーションが生まれる。こういう大変難しいチャレンジが必要なことを、この二冊の本は教えてくれた。

 逆に言えば、難しいからこそ、乗り越えた企業は、そう簡単には真似できない競争優位性を身につけることができるわけだ。人事制度の変革を、細かい手直しレベルに留めず、本当に企業の成長につなげていくためには、「異質」「異才」を巡る本格的な行動、そしてそれをやり切る覚悟が必要なのだろうと思う。

 さて、次回は、働くことの意味・目的の再設定について、書いてみたい。

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