日本社会全体の課題となってきた生産性の向上。働き方改革を推し進めるにはオフィスだけでなく、人や車の流れなど、社会全体を効率的に設計することも必要だ。今からおよそ80年前、まさにそんな「社会の効率化」を目的に英国で作られ、その後、世界の大都市に普及したルールがある。「エスカレーターでは急ぐ人のために片側を空けましょう」だ。

 ところが、当時の英国に負けず劣らず効率化が求められている現代日本で、この紳士的ルールに異を唱える人が増えている。「エスカレーターでは片側を空けず両側に立ち、じっとしましょう」と主張する彼らの最大の根拠は「危ないから」だ。とはいえ、国民的ミッションである働き方改革に整合的な上、既に社会に定着しつつある「片側空け」を今さら覆さねばならぬほどエスカレーターで片側を空けるのは、本当に危険なことなのか。エスカレーターで歩くなと主張する人々の考え方と、そうした思考回路を持つ人の行く末を、世界のエスカレーターマナーに詳しい専門家と考察した。

聞き手は鈴木信行

<b>斗鬼正一(とき・まさかず)</b><br /> 文化人類学に魅了され、大学院修士、博士課程と専攻。江戸川女子短大から江戸川大学創設とともに着任、人間陶冶と生きる力を磨く文化人類学の魅力を学生に伝えている。テレビ、新聞などのメディアでも、ミクロネシア、香港、ニュージーランド、日本各地等での現地生活密着型フィールドワークを通して出会った、あまりに多様、複雑な人間とその社会という不思議な存在の魅力を発信している。近著に『頭が良くなる文化人類学』(光文社新書)
斗鬼正一(とき・まさかず)
文化人類学に魅了され、大学院修士、博士課程と専攻。江戸川女子短大から江戸川大学創設とともに着任、人間陶冶と生きる力を磨く文化人類学の魅力を学生に伝えている。テレビ、新聞などのメディアでも、ミクロネシア、香港、ニュージーランド、日本各地等での現地生活密着型フィールドワークを通して出会った、あまりに多様、複雑な人間とその社会という不思議な存在の魅力を発信している。近著に『頭が良くなる文化人類学』(光文社新書)

なぜエスカレーターのマナーに関心を持つようになったのですか。

斗鬼正一氏(以下、斗鬼):私は文化人類学を専攻していますが、中でも異文化コミュニケーション、さらに具体的に言えば「海外から流入してきた異文化に日本人がどう対応するか」について強い関心を持ってきました。その意味では、古くは明治維新後の文明開化、最近では言えば、例えば「携帯電話文化の流入と日本社会の反応」なども研究対象になります。

 エスカレーターも海外から入ってきた文化の一つです。携帯電話などと比べて特徴的なのは、1914年の東京大正博覧会、日本橋の三越呉服店(現三越百貨店)への導入から既に一世紀が過ぎても、いまだ使い方について社会的ルールが完全には形成できていないことです。

弊社女性社員が三田駅で怒鳴られた理由

確かに。「片側を空けて急いでいる人を通す」というルールが定着したのかと思いきや、ここへ来て「両側に立ってじっとすべき」という意見が出てきました。つい先日も、弊社の女性社員が都営三田線の三田駅のエスカレーターを歩いている時、後方から「歩いてんじゃねえよ!!」と怒鳴られる事案が発生しました。

斗鬼:エスカレーターにおける片側空け(片側歩行)が初めて出現したのは、第2次世界大戦時の英国・ロンドンの地下鉄だと言われています。当時の英国は戦時体制下。社会全体で効率向上が求められていた時期で、その施策の一環でした。

 日本で片側空けが始まったのは1967年頃、大阪・阪急電鉄の梅田駅が最初で、その後、1980年代後半から90年代に掛けて東京などでも同様の現象が見られるようになりました。

いずれも、当局や鉄道会社の呼び掛けで始まったのですか。

斗鬼:英国はロンドンの地下鉄当局、梅田駅は阪急電鉄の呼び掛けでしたが、東京などは、「紳士の国・英国に見習おう」といった一部の人の主張に合わせ、自然発生的にルールとして定着していったようです。

片側空けは、英国や日本以外でも広く普及していると聞きます。

斗鬼:米国やフランスなどでも見られるルールです。中国でも北京や上海など都市部では五輪や万博を機に当局が要請し、韓国でもワールドカップを機に片側空けの導入が進みました。いずれも多くの外国人が自国を訪れる国際的イベントの開催に合わせたタイミングで、「紳士的な先進国である」ということを世界に示したかったためだと思われます。

――なるほど。

斗鬼:ちなみに、右と左のどちらに立つかは国や地域で異なり、米、英、仏、中、韓、大阪は右に立って左を空けますが、オーストラリアやシンガポールは東京同様、左に立って右を空けます。

 この現象を理解するには、“当局や鉄道会社などの要請ではなく自然発生的に「片側空け」が定着した場合、どちらを空けるかはその国の交通ルールに准ずる”と考えると分かりやすいと思います。

なるほど。東京は「自然発生的」だから、交通ルールと同じになる。日本は左が走行車線で右が追越車線なので、エスカレーターでも左に立つ(右を“追越車線”として空ける)わけですか。いずれにせよ、片側空けが、“効率的で紳士的な仕組み”として普及しているグローバルルールであることは間違いない、というわけですね。

斗鬼:大都市に限定すれば、そういう言い方をしてもいいでしょう。

では先生、話はここからです。冒頭にも言いましたが、この効率的かつ紳士的かつグローバルな片側空けに異を唱える人が最近、増えていると聞きます。彼らがそう主張する根拠は「危ないから」で、「エスカレーターは片側に立つように設計されてない(だから片側空けは危険)」といった専門家の声もよくメディアに掲載されます。片側空けは本当にそこまで危ない行為なのでしょうか。

「片側空け廃止」が逆に事故につながる可能性

斗鬼:片側空けというルール、それ自体がエスカレーターの運行に深刻な支障を与えるといったことはないと思います。片方だけに重心がかかる結果、陥没したりして大きな事故につながった事例は、少なくとも私個人は聞いたことはありません。

片側だけ部品の消耗が早くなったりしても、定期検査で早期発見して交換すればいいだけですよね。エスカレーターの寿命は縮まるかもしれませんが。

斗鬼:片側空けに反対している人が主張しているのは、機械の故障や破損というより、片側で止まっている人に片側を歩いている人がぶつかる危険性だと思います。転んだり、荷物を落としたりしてそれが別の人にぶつかる事故ですね。

 あまり報道されてはいませんが、エスカレーターでの転倒や接触などで怪我をする人は年々増えていて、2014年には東京消防庁管内だけで1443人がエスカレーター事故で救急搬送されました。

ただ、安全性の面を言うなら、今、片側空けを廃止してしまえば、例えばラッシュ時に多くの人が降りる都心のターミナル駅では、人がホームに溢れ、線路への転落が起きかねないという声も聞きます。

斗鬼:それはそうです。非常に危険な場所が残っているのは事実です。

それに今の日本は、当時の英国に負けず劣らず効率化が要求されています。そうした状況での片側空けの廃止は働き方改革に逆行する、という主張もあります。電車で移動する際の駅での乗り換え時間はビジネスで最も無駄な時間の1つです。大切な商談や打ち合わせに遅れまいとエスカレーターを歩きたいと思うビジネスパーソンの気持ちも分かる気がするのですが…。

斗鬼:でもだからと言って、「片側空けをこのまま続行すべきだ」という主張はいかがなものかと私は思います。今現在、不安を感じながらエスカレーターを利用している高齢者の方々などはどうするのですか。

万一にもぶつからないように左側(東京の場合)にしっかり寄ってもらうとか、本当に片側空けが怖い人はエレベーターを有効利用してもらうのはいかがでしょう。海外では、高齢者にエレベーターの利用を推奨している国もありますよね。

斗鬼:それは「強者の論理」だと私は思います。ロンドンで片側空けが始まったのは戦時体制下、大阪は万博前後の高度経済成長期、東京はバブル期です。いずれも効率重視で弱者への配慮などほとんど関心がない時代で、強者の論理が最優先された時期。その象徴の1つが片側空けだと私は考えています。

「俺たちが怖いから歩くな。でも効率は上げろ」も一方的?

しかし何をもって強者、弱者とするかは難しい。安定した資産を持ち年金生活している高齢者は、社会保障が揺らぐ中で必死に働いている若者たちから見ればむしろ強者とも言えませんか。仕事をしていればどうしても急がねばならない場合もあります。「俺たちが怖いからエスカレーターは歩くな。でもそれ以外では効率を上げて働き、年金の原資をしっかり納めてくれよ」ではそれこそ強者の論理で、納得できない若者がいてもおかしくありません。三田駅で怒鳴られた女性も憤懣やるかたない様子でした。

斗鬼:体力の衰えた高齢者が弱者というのと、若者が経済的弱者というのは、次元の違う問題のように思いますが、「全面的に片側空けを廃止すべきだ」という主張にも問題がある、という点については同意します。

だとすれば先生、片側空け問題はどう決着を付ければよいのでしょう。

斗鬼:一律に廃止するか続行するという二元論ではなく、使い分けることが大事だと思います。まず以下の場所では、片側空けは廃止すべきです。

①デパートやショッピングセンター、文化施設、観光施設など急ぐ必要のない場所
②階段がすぐ傍にある場所
③長いエスカレーターの場合

 そして階段が近くになくても④エスカレーターが複数ある場所は、片方を「片側空け」にする。これで問題は大きく改善します。

――①のデパートやショッピングセンターなど急ぐ必要のない場所は、片側空け賛成派もまあ納得だと思います。②の階段がすぐ傍にある場所も、本当に傍にあるならいいと思います。ただ③の長いエスカレーターの場合は? 長いエスカレーターほど片側空けにしてもらって先を急ぎたいところですが。東京で片側空けが始まったのも長いエスカレーターがある駅ですよね。

斗鬼:そこは錯覚で、実は、長いエスカレーターほど歩かなくなるんです。そして、その場合は、片側空けを廃止し、全員が両側に乗った方がトータルとしての効率は上がります。英国などでは、一定の条件下では歩行禁止・両側立ちの方が、片側空けより輸送量が30%向上するといった社会実験もあります。

長いエスカレーターは、意外に人は歩かない、と。確かにしんどいですしね。

斗鬼:こうした使い分けに加え、エスカレーターの幅を広げることも有効です。建築基準法の規定ではエスカレーターの幅は110cm以下。一方で公共の階段は140cm以上にせよという規定があります。幅を多少広げるだけで接触事故は確実に減ります。また場所によっては、エレベーターの運転速度を見直してもいいかもしれません。

なるほど。確かに一律で片側空けを続行する、廃止するではなくて、時と場合で使い分けるのはいいアイデアかもしれません。

全面支持派も否定派もろくなことにはならない

斗鬼:これからの時代は、社会ルールも多様性を前提とした設計が欠かせません。片方の立場だけを主張する極端な意見をぶつけ合っていては、世の中はますます生きにくくなります。みんなが折り合いをつけて尊重しあって初めて暮らしやすい社会ができるんです。

とすると、一律で片側空けを廃止せよと言う人や、逆に一律で片側空けを続行せよという人の末路は…。

斗鬼:ろくなことにはなりません。その実例が米大統領のトランプさんですよ。単純で極端な考え・主張は分かりやすいし、一部の人には確実に支持されます。しかしこの世界が多様性に満ちている以上、長続きしない。必ず周囲に摩擦と軋轢を生み、やがてその人もその人を支持する母体も衰退していきます。欧州の人々が、移民排斥など極端な思想を掲げる政治家を思ったほど支持しなくなったのも、トランプさんの存在が大きい、と私は思っています。

なるほど。とりあえず新しいルールが作られるまでは、歩きたい人は止まっている人に気をつけて、止まっている人も歩いていく人のためになるべくスペースを空けるなど、互いに思いやりながらエスカレーターを使うしかなさそうですね。

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