『生きかた上手』など数々のベストセラーを持つ医師、日野原重明氏が亡くなった(写真:村田 和聡)
『生きかた上手』など数々のベストセラーを持つ医師、日野原重明氏が亡くなった(写真:村田 和聡)

 聖路加国際病院名誉院長の日野原重明氏が死去したことが7月18日、分かりました。105歳でした。

 「2020年の東京オリンピックのとき、私は109歳なわけですが、いまからその準備を…」

 在りし日の日野原氏が講演のたびに使っていたフレーズです。その度に会場は笑いに包まれますが、本人はいたって真面目でした。残念ながら東京五輪をその目で見ることはかないませんでしたが、日野原氏の生き方はこれからも多くの日本人に影響を与え続けていくでしょう。

 本稿では日野原氏の言葉を振り返りながら、日野原氏の功績の一部をご紹介します。改めて、ご冥福をお祈りいたします。

「果たすべきミッション(使命)がある」

 「私は疲労というものを感じたことがないのです」

 日野原氏は100歳を超えてからも現役医師として、講演のために全国を飛び回る。著書も130冊を超え、毎年のように新著を上梓してきた。

 原稿の締め切りが迫っている時には、明け方まで執筆を続け、2~3時間の睡眠で家を飛び出すこともある。そんな日の朝食はクッキー2枚とコップ1杯の牛乳だけだ。

 「この歳ですから、そりゃあ肉体的な疲労はありますよ。でも一晩寝ると、朝はすっきりして、『さあ、今日もやるぞー!』とフレッシュな気持ちで目覚めるわけです。なぜなら、果たすべきミッション(使命)があるからです」

 日野原氏が自らに課しているミッションのうち最大のものが、2000年から続けている「新老人運動」である。

 日本の65歳以上人口は2015年9月、3384万人に達し、人口全体に占める割合は26.7%となった。一方、働き手となる生産年齢人口(15~64歳)は減り続け、2013年には8000万人を割り込んでいる。これは32年ぶりのことで、少子高齢化は今後も間違いなく加速する。

 この絶望的なほどの厳しい状況を、老人自らが動くことで良い方向に向けていこうというのが、日野原氏の「新老人運動」だ。

 「90歳になったとき『新しいことを創はじめたい』と思いました。そこで立ち上げたのが『新老人の会』です。老人が慰め合うだけの会ではありません。自分たちの社会に対するミッションを見つけ、それを実践する集まりです」

 「新老人の会」の「シニア会員」になれるのは75歳以上。60~74歳は「ジュニア会員」、60歳未満は「サポート会員」である。日野原氏の発案だ。

 60~74歳を「ジュニア」と呼ぶことに若干の違和感があるが、女性会員などに話を聞くと「私は、まだジュニア会員ですから」とうれしそうに話す。社会的には「高齢者」と呼ばれる人々が、ここでは「ジュニア」。そう位置付けられるだけで、人の心持ちは変わる。

 いつも注意深く患者の声に耳を傾け、患者との対話から治療を始める日野原氏は、言葉の効用をよく知っている。

成人病を「生活習慣病」と言い換えるように提言

全国を飛び回る生活を送っていた日野原重明氏。東京・世田谷の自宅にいるときも、熱心に執筆に取り組んでいた(写真:村田 和聡)
全国を飛び回る生活を送っていた日野原重明氏。東京・世田谷の自宅にいるときも、熱心に執筆に取り組んでいた(写真:村田 和聡)

 「政府は75歳以上のお年寄りを後期高齢者などと呼びますがね、あれはダメです。老人という言葉には『人生経験を重ねた思慮深い人』という畏敬の念が入っている。中国語で立派な人を『大人(ダーレン)』と呼ぶでしょう。あれに近いニュアンスですね」
 「一方で、高齢者という言葉には『物理的に年を取った人』という意味しかない。おまけに『後期』などと線引きをする。あれはお役人の発想ですよ。そう呼ばれた人たちがどう感じるか、人の気持ちを考えていない」
 「私は、75歳以上のお年寄りを『新老人』と呼びたい。世界のどこよりも早く超高齢化社会に入った日本の75歳以上は、国民の寿命が延びたことによって生まれた新しい階層だからです。新老人たちが生き生きと活躍する社会を作ること。それこそが私に与えられたミッションだと考えています」

 「後期高齢者」を「新老人」と呼び換える。「たったそれだけのことで何が変わるのか」と思われる方が多いかもしれない。しかし言葉には人々の考え方を変える力がある。日野原氏はかつて、言葉による日本人の意識改革に成功している。

 「昔は糖尿病や心疾患、脳血管疾患のことを『成人病』と呼びましたね。そう呼ぶと患者さんたちが『成人になったのだから、成人病にかかるのは仕方ない』と思ってしまう」
 「しかし、こうした病気は食生活や日頃の運動によって予防できるし、治癒もできる。生活習慣が原因なら、それを改めればよいのです。『成人病』を『生活習慣病』と呼び換えるだけで、人々の意識は変わるのです。だから公的な文書でもそう呼び換えるよう、政府に働きかけました」

 厚生省(現厚生労働省)は1980年頃から糖尿病などを「成人病」と表記してきたが、日野原氏らの提言を受け入れる形で90年代後半から「生活習慣病」に呼び変えた。

 生活習慣病という言葉は日本人の間に広く定着。それを予防するために多くの人が自分の体重や血圧を気にかけ、適度な運動を始めたり、食生活を改善したりし始めた。

「長寿ニッポン」を支える制度作りにも寄与

日野原重明氏は、「長寿ニッポン」を支える制度の定着にも貢献した(写真:村田 和聡)
日野原重明氏は、「長寿ニッポン」を支える制度の定着にも貢献した(写真:村田 和聡)

 戦後間もない1947年、日本の医療事情は劣悪で、病院も医師も薬も、すべてが不足していた。日本人の平均寿命は男性50.1歳、女性54.0歳だった。

 そんな時代にいち早く、「病気を治す」ことではなく「病気にならないこと」に注目した医師がいた。聖路加国際病院の橋本寛敏元院長と、国立東京第一病院(現国立国際医療研究センター)の坂口康蔵元院長である。日野原重明氏は橋本院長の右腕として予防医療の制度立ち上げに奔走した。

 「病院は病気の人が来るところというのがそれまでの常識でしたが、病気を予防するためには健康な人が病院で受診する必要があるのです。寿命が延びていけば、やがて健康な人がどう老いていくかという問題が重要になると我々は考えました」
 「最初は『定期健康検査』と呼んでいましたが、これを聞きつけた新聞記者が船を点検・修理するドックからの連想で『人間ドック』と書き、いつの間にかこの呼び方が定着しました。最初の利用者は政治家です。政権についている時の政治家は激務に追われますが、内閣が辞職するとしばらく暇になる。その期間に『体のお手入れをされたらどうですか』とお勧めしたのです」

 聖路加の内科医長だった日野原氏は、国立東京第一の小山善之医長と組んで、人間ドックの仕組み作りを進めた。人間ドックを健康保険の対象にしてもらうため、日野原氏と小山氏は東京・乃木坂にある健康保険組合連合会の本部にも通った。

 血圧測定、血液検査、検尿、心電図、レントゲンといった健康診断の定番メニューはこの時に固まった。

 「今は技術が進んだおかげで、日帰りでほとんどの検査が受けられますが、当時は検査機器の性能が劣っていたので、検査をするのに1週間かかりました。優れた装置がなくて、当初は肝臓の検査はできませんでした」

 こうして54年、国立東京第一と聖路加は日本初の人間ドックを開始した。両病院合わせて7床でのスタートだった。

 「健康な時に病院に行くという習慣は、当時の日本人にはありませんでした。我々は病気を予防したり、早期に発見したりするためには、自覚症状がなくても定期的に健診を受けた方がいい、という考え方を日本中に広めなくてはなりませんでした」

 人間ドックを普及させるうえで、国民の誰もが名前を知っている政治家に受診してもらうことは大いに効果があった。ある日、とある大物が聖路加の人間ドックにやってきた。読売新聞のオーナーで衆院議員も務めていた正力松太郎氏である。

 「1週間の健診の最後に会食の時間があったのですが、正力さんに会いたい人たちが皆さん受診に来ましたよ」

 この頃から日野原氏は正力氏の主治医になり、正力氏の最期をみとることになる。こうしてまずは政財界の有力者から始まった人間ドックが徐々に一般の人々にも広がり、「長寿ニッポン」を支える制度として定着していく。

日野原重明の「生き方教室」
第4回 健康は自分で守る。医師に頼りきりではいけません
第5回 疲れたなどと言っている暇はないのです

有料サービス『日経ビジネスDigital』の記事を期間限定で公開します。

死はグッバイではなくシー・ユー・アゲインです

増大が続く医療費について、医学界と経済界を代表する2人が話し合った(「日経ビジネス」2015年6月1日号特集より、年齢は対談を行った2015年当時。写真:山田 哲也)
増大が続く医療費について、医学界と経済界を代表する2人が話し合った(「日経ビジネス」2015年6月1日号特集より、年齢は対談を行った2015年当時。写真:山田 哲也)

 高齢化社会に突き進む日本では老人の医療費増大が止まらない。だが、老人を悪者にしても何も始まらない。医学界と経済界を代表する2人の賢人は、「医を仁術に終わらせてはならない」と声をそろえた。国民医療費は2025年に50兆円を超え、そのうち6割以上を65歳以上の医療費が占める見込みだ。

日野原重明氏:医療界だけではなく、社会全体で考えるべき問題だと思います。まず無駄な医療をやめることです。医療を営業と考える医者は延命治療に夢中になりがちです。患者や家族には「長生きは良いことだ」という思い込みがあり、医者も延命した方がもうかるからです。しかしチューブにつながれて最期を迎えることが患者や家族にとって本当の幸せでしょうか。社会的にみれば膨大なコストがかかっている。

 お年寄りに「長生きするな」と言っているのではありませんよ。人生の質を言っているのです。私は日本におけるホスピスの普及に力を注いできました。ホスピスでは、天から与えられた命を、最後まで質高く全うすることに重きを置きます。患者には「最期が来ましたよ」と自覚してもらい、「また天国でお会いしましょう」と家族とお別れしてもらいます。グッバイではなくシー・ユー・アゲインです。

 延命治療をやめれば、住み慣れた自宅で最期を迎える人が増えるでしょう。病院より、自分がずっと生きてきた場所で最期を迎えたいと望む人は多いのではないでしょうか。これを実現するには医者も患者も家族も考え方を改めなくてはなりません。死に抗うのではなく、死を受け入れる考え方が必要です。

 欧米ではこうした考え方の下、ホスピスや在宅医療の体制が整備されています。努力すれば日本でも、コストを抑制しながら医療の質を上げることは可能だと思います。そのためには教育から変えていかなくてはならない。

 ルネ・サンド(1928年に国際社会福祉協議会を設立したベルギーの医学者)は「国民の参与なくして国民の健康は作られない」と言っています。まず社会の中のいろいろな層の人々による協力体制を作る必要があります。「真の健康社会を作る」ことを国民の総意にしなくてはならない。

稲盛和夫氏:サンドの言葉は経営にも通じると思います。全従業員の参与がなければ良い経営は実現できません。

 私が再建に関わった日本航空(JAL)を例に取ればパイロット、客室乗務員から整備のエンジニア、荷物を運ぶ人、機内食を作る人、機内や空港を掃除する人まで、すべての人がそれぞれの役割をきちんと果たし、なおかつ自分の持ち場で収益を考えてもらう必要がありました。

 医療も同じだと思うのです。ドクターから看護師さん、食事を担当する人まで、医療に関わるすべての人が、どうすればコストを上げずに、患者さんに良い医療を提供できるか。皆で考えるところから始めたらいいのではないでしょうか。

書籍『日野原重明先生の生き方教室』

日野原重明氏の書籍をご紹介します。

100歳を越えても挑戦し続ける力はどこから来るのか?

これからの人生を朗らかに生き、働くためのバイブルです。生き方に迷う定年前後のビジネスパーソンだけでなく、ますます元気にこれからの人生を楽しみたいという方々にも、おすすめします。

≪主な内容≫
【 序章 】 人間 日野原重明
【第1章】 「シニア」は75歳から、74歳は「ジュニア」です
【第2章】 「よど号事件」で生き方が変わりました
【第3章】 日本の憲法と聖書には同じ精神が流れています
【第4章】 健康な人がどう老いていくか この問題が重要になると考えました
【第5章】 疲れたなどと言っている暇はないのです
【 対談 】 日野原重明先生×稲盛和夫さん 「医を仁術に終わらせてはならない」


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