スタジアムでサッカーを見る楽しさの半分以上は、サッカーそのものとは別のところにある。

 観戦の醍醐味について述べるなら、ディフェンスラインの駆け引きや、サイドチェンジのパスの軌跡が、スタジアムの座席からでないと真価の見えにくい技巧である一方で、ドリブル突破の際の細かいステップワークや密集の中での選手同士のボディコンタクトの詳細は、テレビ画面を通してでないと把握できない。それゆえ、競技としてのサッカーの全貌をあますところなく堪能するためには、スタジアムでゲームをひと通り見た後に、帰宅後、あらためて録画を確認する必要がある。

 ただ、競技としてのサッカーを観戦することとは別に、スタジアムには、「共同性」の魔法がある。

 別の言い方で言えば、大勢の人間と同じ場所で同じ偶発事件を注視する共同体験の一回性が、半ば群棲動物であるわれわれを陶酔させるということだ。

 同じプレーに歓声をあげ、得点に跳び上がり、パスミスや反則のホイッスルに同じタイミングで嘆息を投げかけるうちに、スタジアムに集った数万人の観衆の間には、いつしか一体感が醸成される。無論、一体感の対偶には相手チームへの敵意が燃え上がっているわけだが、害意であれ仲間意識であれ、集団的な感情である点において遠いものではないわけで、いずれにせよ、同じスタジアムの中で同じ空気を吸っている観客は、徒党であることを楽しんでいる。

 常日頃、集団への同調に苦情を申し述べることの多い私のような人間でさえこのありさまなのだからして、群集心理がもたらす興奮はそれだけ格別な誘惑だということなのだろう。

 群集心理はSNSがもたらす愉悦の主成分でもある。
 何かを応援する時、あるいは誰かを野次る時、われわれは群衆のマナーを身につける。
 そして、群衆となったわれわれは、自分たちが愚かな人間として振る舞うこと自体を楽しむようになる。

 それが、良いとか悪いとかいったことについて話をしたいのではない。
 私は、集団的な娯楽が多かれ少なかれ愚民化の過程を含んでいることを指摘しているだけだ。

 本来は、ひとつの場所に大勢の人間が集まることで、はじめて群衆化への前提条件が整うわけなのだが、そもそもが架空の「場所」であるインターネットでは、人々はあらかじめ集まっている。

 とすると、既に集まっている人間たちが群衆化するためには、ひとつの話題なり目的なりを共有すればそれで足りることになる。

 はるか昔の話だが、学校の近くに下宿している学生のアパートに集まってテレビを見るような時、共同視聴の対象は、出来の悪い番組であるほど面白かったことを覚えている。

 というのも、5人とか8人みたいな人数で1つのテレビの前に群がっている行き場のない学生が粗末なブラウン管の中に期待していたのは、心踊る物語や卓抜な演技ではなくて、どちらかといえば寄ってたかっておもちゃにできる間抜けな「ツッコミどころ」だったからだ。

 であるから、たとえば、稚拙な演技と陳腐な演出と月並みな台詞が盛大に散りばめられている、そしてそれ故に大人気となったドラマである「スチュワーデス物語」あたりは、退屈した学生にとって最適なコンテンツだった。なんとなれば、われわれは、ドラマの内容でなく、自分たちが発する罵声と嘲笑を娯楽として楽しんでいたからだ。

 ほぼ同じことが、現代のSNSでも起こっている。

 実際、ツイッターの同じハッシュタグに集うアカウントは、暑苦しい学生下宿の四畳半部屋に群れ集まっていた宙ぶらりんの若者たちと同様、思うさまに嘲弄できる手頃な攻撃対象を探し求めている。

 そんなわけなので、ツイッターのタイムラインで私たちが遭遇する話題のうちの半分以上は、子供のいじめと区別がつかない。
 今回は、まずその話をする。SNSで発生するリンチの話だ。

 いじめが良いとか悪いとか、リンチは残酷だからやめましょうとか、そういう話をするつもりはない。

 個人的な見解を述べれば、私は、ツイッター上で特定の誰かの言動をあげつらって笑いものにしている人たちには、さほど悪気はないのだと思っている。

 悪気がないということの具体的な意味は、彼らが、悪口を言っている対象を憎んでいるわけではないということだ。意外かもしれないが、彼らは、先方が傷つくことを願っているのでもない。リンチ参加者は、ごく単純に自分たちの残酷さを楽しんでいるに過ぎない。

 気持ちの上では、昭和の学生が、集団でテレビ画面に映っている女優さんの演技を大笑いしながら罵っていた時の心理と変わらない。

 集団テレビ視聴に際して、わたくしども20世紀の意識低い学生は、誰が最も的確に残酷な批評を浴びせることができるのかを競っていた。が、だからといって、私たちは、テレビの中の女優さんを憎んでいたのでもなければ、彼女が自信を失って引退することを期待していたわけでもない。われわれは、ただ「罵倒」というゲームを楽しんでいただけだ。

 現在のSNSでも事情は変わらない。

 ひとつだけ違うのは、ネット上の罵倒が、テレビ画面への罵詈雑言と違って、本人に届くことだ。
 つい先日も、ネット上に転載された雑誌の記事が炎上している場面に遭遇した。

 書き手は、元新聞記者だったアフロヘアの女性で、この人は、別件でも何回か炎上している。

 ちなみにこの記事(こちら)は有料記事で、契約外の人間は読めない。なので、以下、概要を紹介しておく。

 記事の書き手の女性は、ある日、とある行政機関の仲介で講演の仕事をする。現地におもむくと、担当の人間が、「付箋のいっぱいついた」自分の著書を持って現れる。礼を言おうと思ってよく見ると、図書館で借りた本だった。彼女はひどく傷ついた……と、大筋はこんな話だ。

 炎上したのは、

《それが何であれ、仕事には相応の苦労が伴います。そして、それに敬意を表してお金を払ってくれる人がいて初めてその人は仕事を続けることができる。あなたが懸命に作ったものを当然のようにタダで持っていく人がいたらどう思いますか。自分にはそんなにも価値がないのかと傷つきませんか。》

 という部分の書き方が強い調子だったことと、記事の末尾が

《お金とは、自分の欲望を満たすための手段。これまでずっと当たり前にそう思ってきた。だから同じものならちょっとでも安く、あわよくばタダで手に入ればラッキーと思ってきました。
 でも世の中はつながっているのです。得をした自分の反対側には確実に損をしている人がいる。そして気づけば自分がいつの間にかその損をする側に回っていた。これを因果応報という。ここから抜け出すにはまず自分のお金の使い方を考えねばなりません。》

 と、やや説教くさい言葉で結ばれているからだと思う。

 で、ツイッター上には

 「普段から節電だのモノを持たない生活だのをアピールして、それで本まで書いていながら、他人が節約するといきなりこの態度かよ」
 「それ以前に、文章を書くことで身を立てている人間が、図書館の役割に対してここまで意識が低いのは論外だと思うわけだが」

 といった感じの批判の声が集中した次第だ。

 主たる批判はこの2点に集約されていたものの、これ以外に、引用をはばかる残酷な罵倒や中傷が山ほど浴びせられている。で、じきに、罵倒そのものが主役化する。まあ、いつもの展開だ。

 私としては、当事者の女性が個人的に何度かお会いしたことのある人でもあるので、投げつけられている言葉の激越さには、当初から心を痛めていた。とはいえ、その一方で、炎上する理由にも色々と思い当たるところがあるので、全体として、複雑な気分で事態を眺めていたという感じだろうか。

 朝日新聞の関係者の発言は、ちょっとしたひっかかりがあるだけで、とても良く燃える。

 「つまりそのお返事が○○新聞の公式見解だと受け止めてかまわないわけですよね?」
 「記事では○○と言っておいて、プライベートでは△△なわけか。ダブスタだな」

 といった調子で発言のブレや公私の言葉の使い分けをツッコまれるだけでなく

 「なにしろメディア貴族さまだからなあ」
 「大衆を啓蒙する気満々で恐れイリヤだな」
 「っていうか、早期退職金って、○千万円らしいぞ」
 「どうして隠れもしない富裕層が白々しく庶民ヅラするかなあ」

 的な、マスコミ言論自体への反感をまぶしたヤッカミまじりのツッコミも大量に投下される。
 これは、宿命みたいなものだ。

 今回の、彼女の書き方は、あまりにも無防備だった。
 もっとも、世の中に向かって何かを訴える人間には、ある種の無防備さが求められるという考え方もある。

 彼女のような全方位的に無防備な人間が繰り出す、ツッコミどころ満載の主張は、そこから始まる議論を活性化させる点で、まるで無意味ではないのかもしれない。

 というよりも、節電にしても脱原発にしてもミニマルなライフスタイルにしても、それらが、「無防備」な姿勢を貫いた先にしか結実しない困難な課題であることを思えば、彼女の問題提起の仕方は、あれはあれでスジの通ったものなのだろう。

 ともあれ、あっけらかんと思うところを言い放つ人間がいないと、議論がはじまらないことはたしかで、そういう意味では、彼女のような人材は貴重だ。

 図書館の話にいこう。
 図書館については、昔から、文筆家の間でも意見が分かれている。

 特に、図書館が貸出予約の多い書籍を複数(2冊以上)購入して所蔵する(複本)傾向が一般化してからは、図書館への風当たりが強まっている。
 2001年には、日本ペンクラブ著作者の権利への理解を求める声明で、

 「幅広い分野の書籍を提供する公共図書館の役割を阻害」と批判、これに図書館側は「図書収集の実態への誤解」「資料費に占めるベストセラー本の割合はわずか1%」と反発。03年には日本推理作家協会と、大手出版社11社が、「作家が希望した本は発売後6カ月間の貸し出し猶予」を日本図書館協会に要望し、これを図書館側が拒否。(コトバンクー知恵蔵より

 という展開で今日に至っている。

 最近でも、2015年の10月に、新潮社の社長が「売れるべき本が売れない要因の一つは図書館の貸し出しにある」と発言したことが記事化され、業界内でひとしきり話題になったことがある。

 おそらく、50万部以上売れるようなベストセラーに限っていえば、新潮社の社長の言う「逸失利益」(本来なら売れるはずの書籍が買われずに図書館の本で済まされてしまうこと)が生じている可能性は高い。

 漏れ聞いたところでは、村上春樹さんの作品あたりになると、各図書館が各作品ごとに何十冊という複本を揃えているという。それでも、モノによっては予約待ちが何カ月にもなるのだそうで、そこで読まれている分を、逸失利益として計算すれば、それこそ何十万部という数の売り上げ見込みがみすみす失われていることは、たしかにありそうな話だ。

 とはいえ、わが国で一年間に出版される約8万点の出版物のうち、10万部以上売れる書籍―― 一説には、約300冊と言われているそうだが、だとすると、0.5%にも満たない。

 ということは、これは、例外中の例外だ。
 交通事故に近い確率…いや、それよりもずっと低い。私だって自転車で自損事故を起こしたしな。

 してみると、私のような基本的に安全運転の著者にとって、図書館で読んでもらえることは、普通に考えてありがたいこと以外のナニモノでもない。

 2012年の2月、私は、図書館について、
《図書館は書籍売上のピークを下げるかもしれないが、裾野を嵩上げしている。だから私個人は図書館に悪い感情は持っていない。》(こちら

《ついでにいえば、図書館は、図書館に収蔵されることによって購入を放棄されるタイプの著者にはマイナスだが、図書館で読んだ読者の多くが著書の購入者に変ずるタイプの著者には恩恵をもたらしている。だから私は図書館には感謝こそすれ、恨みはまったくない。》(こちら

 という2つのツイートを投稿している。

 2つめの書き込みは、半分ぐらい強がりみたいなものだが、本を書く商売をしている人間の多くは、基本的には同じ気持ちだと思う。

 もちろん本が売れてほしいとは思っている。でも、それ以上に、図書館であれ古本屋経由であれ、とりあえず読んでもらえればそれはありがたいことだし、その一方で、読んでもらえるのであれば、いつかはそれが売り上げにつながるはずだと信じていたりもする。

 われわれは、考えが甘いのだ。考えの甘くない人間が、本など書いてたまるもんかというのだ。

 であるからして、図書館で借りてきた本を書き手の前であからさまに広げてみせることが、マナーとして失礼であるのはともかくとして、図書館で本を借りて読むことそのものは、誰に対してであれ、決して恥じるべきことではない。

 私自身は、図書館に通いつめた期間を、自分の全人生の中でほんの半年ほどしか持っていない人間なのだが、現在になって振り返ってみれば、あの、本当に、どこにも身の置き場がなかった半年ほどの時期が、自分にとって最も書籍から得たものの大きかった時代だと思っている。

 ついでに言えば、あの時代に、もし図書館という場所がなかったら、私はどこに居場所を求めてよいのやらたいそう困ったはずで、もしかしたら、そのままこの世の中からいなくなっていたかもしれない。そういう意味でも、図書館には感謝している。

 で、2015年には、

《図書館について「そもそもタダで本を読もうという料簡が卑しい」てなことを言っちゃってる人がいるけど、それ「貧乏人は無知のまま死ね」ってことだぞ。ついでに言えば、図書館軽視は、読書という営為を高踏的な特権集団である「読書人」のサークル内に限定しようとする一種の貴族主義思想ですぞ。》(こちら

 というツイートを発信している。

 これも、きれいごとといえばたしかにきれいごとだ。
 が、書籍という商品は、関係者がきれいごとを信じることで流通している。
 このことを忘れてはならない。

 というよりも、人が本を読むという営為がそもそもきれいごとを含んでいるのであって、活字を読むことで知識を得るとか、自分が向上するとかいった幻想なり思い込みなり信仰心なりがなくなったら、書籍は滅亡するほかにどうしようもないものなのだ。

 いずれにせよ、著者と読者は、売り手を買い手、生産者と消費者という言葉だけで説明できる関係ではない。

 もし、著者が生産者で読者が消費者だとすると、昨今の消費者万能思想からして、著者の側が読者にアタマを下げなければならなくなる。

 「お買上げありがとうございます」

 と、読んでもらったことに感謝するのは不自然なことではないが、その感謝が「買ってもらったこと」に対してなのかどうか、いろいろ考え方はあるのだろうが、個人的には疑問だ。

 私は、そういうつもりで本を書いていない。
 個人的には、買っていながら読んでいない客よりも、買っていないながらもどうにかして読んだ読者の方を大切にしたいと考えている。

 だから、時々タイムラインやコメント欄に現れる
「お前の本を買っている顧客なのだから相応の敬意を払え」
みたいなもの言いをする人間には、真面目に対応しないことにしている。

 私の本を読んでいながら、私に対して“相応の敬意”を抱くことができないのだとしたら、彼または彼女は、間違った本を読んでしまったという意味で、「被害者」と呼ぶのが妥当だと思う。

 気の毒には思うが、賠償はできない。
 私も、被害者だからだ。
 ということで、お互い忘れるのが建設的だと思う。
 ああ、そうだ。今後、本を買う時には、図書館でざっと目を通してからにすると良いかもしれないぞ。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

読んでいない本を本棚に並べ、実は内心悦に入っている自分には
今回のお話は痛くて痛くてたまりませんでした…。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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