北朝鮮によるあきれた振る舞いが相次いでいる。

 まず、8月29日の早朝、弾道ミサイルを発射した(こちら)。

 事態を受けて、菅義偉官房長官は同日の午前、記者会見し「午前5時58分ごろ、北朝鮮西岸より、1発の弾道ミサイルが北東方向に向けて発射された。弾道ミサイルは6時6分ごろ、北海道・襟裳岬上空を通過し、6時12分ごろ、襟裳岬の東1180キロの太平洋上に落下したと推定される」と発表した。

 で、ミサイル発射の衝撃もさめやらぬ5日後の9月3日、彼らは、通算で6回目となる核実験を敢行した(こちら)。

 この実験について、朝鮮中央テレビは、3日午後3時(日本時間同3時30分)から重大報道として発表。約6分間の放映のなかで「ICBM搭載用の水爆実験に完全に成功した」と強調した。

 小野寺防衛大臣は、当初、爆発の規模が「70キロトンに達する」との分析を示したうえで、「過去の実験に比べてはるかに大きなものだと認識している。水爆実験だということも否定できない」と述べていた。が、その後、6日の午前に、爆発の規模を160キロトンと上方修正する推定値を発表している。

 仮に、この数字が正確なのだとすると、その威力は広島に投下された原爆の10.7倍、長崎の7.6倍になる(こちら)。

 一連のミサイル発射と核実験は、国際社会の協調を冒涜する卑劣極まりない暴挙であり、周辺国のみならず世界の平和と秩序を脅かす蛮行だ。

 それ以上に、この数年来エスカレートし続けている金正恩氏による軍事的挑発は、北朝鮮という国家が、もはや通常の意味で言う「国際社会」や「外交交渉」の枠組みから逸脱した存在になってしまったことを物語っている。

 今回は、深刻さを加える北朝鮮の凶行を、わたくしども一般国民がどんなふうに受けとめるべきなのかについて考えてみようか、と思っている。

 まず大切なのは、この3年ほど、執拗に繰り返されている北朝鮮の挑発が、実に神経にさわるということだ。

 単純な話、アタマに来る。
 ここのところが北朝鮮問題の最も基本的なポイントだ。
 要するに、彼らはマジでムカつく不愉快な連中なのだ。

 「そんなことは、感情の問題に過ぎない」

 という人もあるだろう。あるタイプの専門家は、そういう言い方をしたがる。
 しかし、感情の問題だからこそ対処がむずかしいのであって、国際社会を構成するメンバーの誰もが冷静で理性的で紳士的であるのなら、そもそもミサイルは飛んで来ないはずなのだ。

 自分が理知的であったり理性的であったりすることを自認している人たちは、感情を軽んじたがる。

 「忘れたらいいじゃないか」
 「そんなこと気にしなければ良い」
 「○○と考えればOKです」
 「○○は○○というふうに理解するほうが建設的です」

 てな調子で、彼らは、「気持ちの持ちようは、本人の意思の持ち方次第で自在に変えられる」みたいな前提で話をする。

 が、人間はそういうふうにはできていない。
 私が知る限り、少なくとも日本人の多数派は、アタマに来た時には、怒りの感情に影響を受けたモノの考え方をする。

 怒りゆえにふさぎ込んでしまう人もいれば、怒りに酔ってしまう人たちもいる。
 あるいは、怒りを抑圧することでひどいストレスを抱えることになる人もいる。
 適切に気分転換を図ることができる人間は、むしろ少数派だ。
 いずれにしても、感情の問題を、行動に直結させずに済ますことは、簡単ではない。

 ミサイルが飛んできた当日、私は、朝日新聞のコメント取材に答えて
 「過剰に反応するのは相手の思うツボだ」
 という主旨の話をした(こちら)。

 で、案の定というのか、この記事を読んで怒った人がたくさんいたようだった。
 そのうちの一部の人たちは、私のメールアドレスやツイッターアカウントに向けて、反論を書いてきた。

 怒っている人たちは、自分の怒りを否定されると、さらに怒りを増幅させる。

 「怒ってはいけない」
 「怒りにコントロールされてはいけない」
 「怒りを相対化しないといけない」
 「怒りとは別に、理性で思考すべきだ」

 というようなことを言われると、怒っている人間は、

 「君は知能が低いんだね」
 「バカはすぐに怒る」
 「導火線の短い人間は野蛮人だぞ」

 と決めつけられたみたいに感じる。
 そんなわけで、怒っている人をさらに怒らせる言葉は、つまるところ

 「落ち着いてください」

 だったりする。

 自分の怒りを制御するのは大変に難しいことだが、他人の怒りに対処するのも簡単なことではない。いずれにせよ、怒りは、処理しやすい感情でもなければ、簡単に消せる感情でもない。それどころか、怒りに身を任せることは、気分をすっきりさせる経験だったりする。
 だから、あるタイプの人々は、怒りに嗜癖する。

 ここのところがまた、やっかいなところで、結局のところ、北朝鮮による不愉快な挑発がもたらす、最も対処しにくい副作用(むしろ、こっちの方が主作用なのかもしれないが)は、我々の中に滾る怒りの感情だということになる。

 怒りにとらわれた人間は、正しい判断ができなくなる。
 というよりも、彼らは、正しい判断を拒否する。
 自分の怒りをより純粋に燃え上がらせる方向でしか、ものを考えなくなるのだ。

 特に集団的な怒りに同調した人々は、明らかに非合理な行動を選択する。
 というのも、怒りに嗜癖した人々は、自分の怒りを否定されることを何よりも憎むからだ。

 と、怒りそのものが、彼らの行動原理になる。
 となると、その怒りには、誰も対応できなくなってしまう。

 いつも怒っていたある男の顔を思い出す。
 その男が、何年かに一度のタイミングで私と会う度に繰り返す話は、毎度決まっている。
 彼が私に訴えるのは、自分の家の庭先に、近所の犬が糞尿を残していく問題についての話だ。

 なんでも、緑道のある公園への抜け道になっている彼の家の玄関前の私道は、早朝、犬を散歩させる人たちが多数通るのだそうで、その折、少なからぬ数の犬たちが、私道と彼の家の庭を結ぶ一角に彼の母親が植えたハナミズキの木の根方で用を足していくというのだ。

 さすがに、糞をそのまま放置していく飼い主はそんなに多くない。が、それでも、何日かに一度は始末をせねばならない。尿については、どうしようもない。というのも、犬というあの邪悪な生き物は、アスファルトよりも土の上で用を足すことを好むらしいからだ。

 「北朝鮮のミサイルだと思ってあきらめろよ」

 と、私は口に出してはそう言わないが、なんとなくそんなことを思いながら話を聴いている。だって仕方がないじゃないか、と。

 いまどき、都内に犬がクソを残していくだけの庭を構えた一戸建てを持ってるなんて、いいご身分じゃないか、と、そんなふうにさえ感じている。
 しかし彼は自分が恵まれているとは決して考えない。いつも猛烈に怒っている。

 時には
 「ぶっ殺してやる」
 などという言葉を使う。
 私は、その彼の怒りが、彼の人格を蝕んでいるような気がして、むしろその点を心配している。

 ほかのことに関しては、どちらかといえば温厚な人間であるその男が、犬の話となると、人が違ったみたいに凶暴なものの言い方をするようになるからだ。

 「相手は犬じゃないか」
 と言っても無駄だ。
 「狂犬の相手をする時に、こっちが紳士である必要はないだろ?」
 ぐらいな言葉が返ってくる。
 それは、まあ、そうかもしれない。

 でも、狂犬に立ち向かう時に、こっちが狂犬にならないと勝負にならないのだとしたら、狂犬でない人間は、一人も生き残ることができなくなってしまうのではないか?

 半月ほど前、海外メディアの翻訳記事だったと思うのだが、その中で、書き手が、トランプ大統領について「何をするかわからない人物」である点が、北朝鮮のような相手と交渉するうえでは、有利なカードとなるという分析をしている部分を読んで、ちょっとなるほどと思った。

 一理ある見方だと思う。

 つまり、金正恩のような「何をするかわからない人物」「自暴自棄になってタガの外れた行動に出るかもしれない相手」「通常の理性的な判断から外れた選択肢を選びかねない相手」と、対等なディールをするためには、「理性的」で「コスト&ベネフィット的」で、「ギブ・アンド・テイク」的な態度を見せているだけではダメで、こっち側も「交渉が決裂したら何をやらかすか見当のつかない」交渉相手であることを相手に思い知らせておかなければならないということだ。

 理屈としてはわからないでもない。
 軍事や外交の世界でなくても、われわれが暮らしている社会の中にも、
 「オレは、キレたら何をするかわからんでぇ」
 ぐらいなアピールで交渉を有利に持ち込むことで世間を渡っている人たちがいる。

 この種のメッセージは、目の前の椅子を叩き壊すとか、制御を失った音量と声質で喚き散らすといったマナーを通じて相手に伝えられる。

 これをやられると、マトモな人間は、ほとんど生理的な次元で交渉する気力を失う。そうやって、賃貸料や賠償金や売掛金を踏み倒すことで生き残っている人たちがいる、ということだ。
 具体的には、いわゆる「ヤクザ」と呼ばれている人たちだ。

 20年ほど前、その種の借り主との交渉を担当したことのある人物から話を聴いたことがある。
 大変に面白い話だった。

 ただ、この種の話を聴く上で注意せねばならないのは、このテの「お話」には、常に「武勇伝」の要素が混入している点だ。

 別の言い方をすれば、ヤクザと交渉した話をする人間は、結果として自分がヤクザと同じ土俵で戦える人間である旨をアピールしているわけで、最終的に、この種の話はマッチョな度胸自慢みたいなところに着地してしまいがちなものなのだ。

 対北朝鮮の話で、手ぬるい話やお花畑なご意見を披露すると、

 「譲歩すればつけこまれるだけだ」
 「ガツンと言ってやらないといけない」
 「思い知らせてやるしかない」
 「ビビったら負けだ」

 式の声が殺到するのも、腐れマッチョの作用だ。
 誰であれ、文字の世界では無敵のマッチョになれる。その文字でできた筋肉が、ネット言論の一部を形成している。

 北朝鮮関連について話していると、少なからぬ割合の男たちが、いじめられて泣いて帰って来た小学二年生に「やられたらやり返せ。ここでナメられたら一生いじめられっ子やでぇ」みたいなアドバイスをするスパルタンなオヤジじみた人間に変貌する。

 まあ、話が子供のケンカなら、あるいはその場できっちりと報復しておくことが、色々な方面への目配りとして、また、本人の自尊心を防衛する意味で、適切な態度でありうるのかもしれない。私自身は、その方法は勧めないが、そういう考え方をする人たちがいることは理解する。

 でも、隣国が繰り出してくる核実験に対して、マッチョな言葉を振り回すのは意味が違う。
 マッチョな態度で応じるということになると、さらに別次元の話になる。

 相手と同じ狂犬として同じステージに立って牙をむき出してみせることが、仮に男らしい態度であるのだとしても、それは必ずしも賢明な振る舞い方ではない。

 安倍晋三首相ならびに菅官房長官は、この一週間ほど、北朝鮮に対して「圧力」という言葉を強い口調で繰り返すことで、国民の怒りに対応しつつ、マッチョなリーダー像をアピールしているように見える。

 とはいえ、現状のわが国が、北朝鮮のミサイルや核兵器に対して、有効な「圧力」を行使するだけの「実力」を持っているわけではない。

 原油の禁輸措置をちらつかせたところで、わが国が北朝鮮に原油を輸出しているわけでもない以上、その台詞はどうしても空虚さを帯びる。

 経済制裁も、もはやほとんどやれることはやり尽くしている。軍事的な圧力は、そもそも憲法上不可能だ。

 ということはつまり、総理や官房長官が言っている「圧力」は、エンジンの空吹かしとそんなに遠い動作ではないわけだ。

 アタマに血がのぼるのはわかる。
 唯一の被爆国である日本のアタマを飛び越えるカタチでミサイルを発射した数日後に、核実験をやらかしてみせた彼の国の無礼さと無神経さは、とてもではないが近代国家のマナーではない。

 ただ、アタマに来ることと、その感情を口に出すことは別の話だし、その「アタマに来た」という感情にまかせて行動することは、さらにまったく別次元の話になる。

 とすれば、われわれは、このどうしようもなくムカつく国に対して、どんなふうに報いるべきなのかを、とりあえず、勇ましいことを言っていい気持ちになることとは別の部分の脳みそを使って、真剣に思案しなければならない。

 こんな話をしていると必ず出てくるであろう
 「きちんとした軍備がないからこんなナメた真似をされるのだ」
 という指摘は、半分以上本当だと思う。

 ただ、だからといって、周辺国にナメられないだけの軍備を持つことが国家としての正しい選択であるのかどうかは、また別の問題だ。

 核兵器を持つという選択肢となると、さらにさらにもう二段階ぐらい別の次元の話になる。
 なにより、周辺国にナメられないだけの軍備をきっちりと揃えて、周囲を恫喝するためには、とてつもないコストと、別次元のリスクを引き受けなければならない。

 この原稿では、そのコストおよびリスクとベネフィットを引き受ける道を選ぶべきなのかどうかについての議論には踏み込まない。
 というよりも、その議論は、そもそも、憲法を改正してからでないとはじめることさえできない。

 「その議論をはじめるためにも、まず憲法改正が必要なのではないか」

 と、そう言いたい人がたくさんいることはわかっている。
 うがった見方をすれば、首相や官房長官が、「圧力」という言葉を繰り返していたり、「これまでにない重大で深刻な脅威」であると断じているのも、そのあたりの議論を活性化させるための下地づくりであるのかもしれない。

 政府が12道県でJアラートの警告音を発信する決断をしたのも、石破茂氏が、非核三原則の見直しを示唆する発言をしたのも、同じ流れの中でのことなのだろう。
 9月2日、すなわち北朝鮮が核実験を実施する前日に、私は、以下のような一連のツイートを書き込んだ。

《北朝鮮のミサイル発射は誰が言うまでもなく言語道断の非道であり、いくら非難しても足りない。しかし、北朝鮮が非道だからという理由で日本政府の対応がすべて「正しいこと」になるわけではない。相手が非道だからこそ、対応には細心さと思慮深さが求められる。あたりまえじゃないか。》(こちら

 おそらく、私のこの原稿を、北朝鮮を擁護する主張として読み取る人たちがたくさん現れると思う。
 それほど、一部の人々は、北朝鮮に腹を立てている。

 もちろん、彼らが腹を立てているのは全面的に北朝鮮のせいだ。
 でも、だとすると、北朝鮮は、隣国の人間の知能の働きを低下させるのに成功してしまったことになる。
 これは大変にまずい。

 できれば、バカなジョークで笑うかなにかして、知能を取り戻すことができれば良いのだが、どういうものなのか、いくら考えても、うまい洒落ひとつ思いつくことができない。
 ああ、そうか。私もアタマに来ているのだろうな。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

怒ることそのものじゃなく、怒りで知能を損なった状態で、
喋ったり書いたりするのがまずい…ああ!(と、腑に落ちた顔)

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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