年々夏休みが短くなっている気がするのは、夏休みが短縮化しているからではなくて、おそらく私の時間感覚が老化したせいだ。なにしろ、ちょっとあくびをしている間に1週間が過ぎてしまう。そういうカラダになったということだ。

 思い出してみれば、中学生の頃は、「再来週の日曜日」すら、容易にはやってこなかった。「高校生になったら」ぐらいな近未来になると、地平線の彼方に霞んで見えたものだ。

 それが、50歳を過ぎてみると、5年程度の月日は、子供時代の5週間ほどの感覚で過ぎるようになる。

 てなわけで、2週間ぶりに眺める世界は、たいして変わっていない。
 見る人が見れば色々と違って見えるところもあるのだろうが、私の目には、2つの腐った玉ねぎみたいに同じに見える。

 ミサイルは、幸いなことにまだ飛んできていない。

 そういう意味では、世界は変わっていないわけだが、ミサイルが飛んでくる前提でものを考える人たちが増えたことで、おそらく、世界は少しずつ変わりはじめている。どういうことなのかというと、ミサイルは、実際にわれわれの頭上に落下することによってではなく、「いつか自分たちの頭上に落ちてくるかもしれない」と人々に思わせることによって世界を変えるツールだということで、あれは、実に、武器である以上に、われわれのアタマの中身を書き換えるアート作品なのである。

 

 私が夏休みをとっている間に、新しい防衛大臣が赴任して、その、前任者よりはいくぶんもののわかった人間に見える新任の防衛大臣は、早速、北朝鮮を出発したミサイルがグアムに向けたコースを外れて誤って日本に落ちてきた場合を想定して、地上配備型迎撃ミサイル「PAC3」を中国・四国地方の計4カ所の陸上自衛隊の駐屯地に展開する破壊措置命令を出した。なんでも、金正恩書記長が「警告」している、米領グアム島周辺の海域を狙って発射されるミサイルが、島根、広島、愛媛、高知の各県の上空を通過するであろう想定に対応した措置なのだそうだ(こちら)。

 

 一方、小野寺五典防衛大臣と同じく8月の内閣改造によって新たに赴任した佐藤正久外務副大臣は、北朝鮮発のミサイルが、わが国の上空を通過するかもしれない問題に触れて 「北朝鮮から日本の上空を飛び越えてグアムの方へ(ミサイルが)行く。そういう時、日本の自衛隊は本当に撃ち落とさなくていいのか。日米同盟の真価が問われている。リスクを共有しない同盟はない」と述べている(こちら)。

 佐藤外務副大臣が「撃ち落とす」と言っているのは、小野寺防衛大臣が言っていた「誤って日本に落ちてきた場合」の想定とはまた別の話で、より踏み込んだ対応を物語るものだ。

 彼は、「同盟国を狙っているミサイルは、撃ち落とすべきだ」という意味のことを言っている。

 領空とはいえ、はるか上空の宇宙空間をミサイルが通過することを、わが国が集団的自衛権を発動する要件の一つである「存立危機事態」と認定して良いのかどうかは、議論の分かれる問題だと思う。

 が、とりあえず、細かい議論を省いて、上空を通過するミサイルの飛んで行く先が、わが国の防衛にとって欠くことのできない存在である米軍の基地である以上、その場所への攻撃は、すなわちわが国にとっての存立危機事態と見なさなければならない、という説明をそのまま鵜呑みにすると、われわれは、同盟国が攻撃されると自動的にその戦争に巻き込まれる国に住んでいることになる。

 これはこれで、やっかいな事態だ。
 どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

 夏休みの間、アメリカでは、バージニア州にあるシャーロッツビルという人口5万人ほどの街で、白人至上主義のグループとそれに反対する人々との間で衝突が起き、3人(1人の市民と2人の警官)が死亡する事件があった。

 事件の背景や経緯については、ほかの記事に譲るとして、私は、白人至上主義の団体が、このたびの行動を起こすきっかけが「銅像」の撤去だった点に注目している。

 銅像は、いつも人々を惑わせる。
 そういう意味で、面白い素材だ。

 実は、冒頭にミサイルの話を持ってきたのも、日朝間に横たわる「ミサイル」の存在が、シャーロッツビルにおける「銅像」の立ち位置に似ていると思ったからだ。

 どういうことなのかというと、「ミサイル」が、その「到達の可能性」や「撃ち込まれた場合の被害の大きさ」という現実的な脅威とは別に、むしろミサイルという言葉がもたらすイメージの力によって、われわれを惑わせ、脅かし、狂奔させ、興奮させているのと同じく、「銅像」は、その背後に背負っているその人物の「来歴」や「功績」や「歴史」という「イメージ」の力で、人々の心に影響を与え続けている存在で、その意味で、両者は、人々のイマジネーションに向けて発射された弾丸なのである。

 シャーロッツビルには、南北戦争において南軍の司令官をつとめたロバート・エドワード・リーという人物の銅像が建てられている。

 このリー将軍の銅像の撤去が、市議会によって決議されたことが、今回の衝突の発端となった。

 リー将軍の死後、銅像が建立されたのは、南軍の司令官としての功績を称える意味だったはずだ。あるいは、彼自身が地元の人間に尊敬されていたことを示すものでもあったのだろう。
 ちなみに、リー将軍個人は、奴隷制には反対の考えを持つ人物だったといわれている。

 しかし、銅像の意味は、それを見上げる人間のアタマの中身次第で、いかようにでも変容する。
 南北戦争時代と違って、多くの人種が共存するリベラルな大学町となっている現在のシャーロッツビルにおいて、多数派の住民は、南北戦争時代の英雄を称えるモニュメントを町の中心に飾っておくことに、あまり良い感情を持っていない。

 住民の人種構成も、人間観も、政治意識も、銅像が建立された当時のものとは違っている。
 であるから、リー将軍は、19世紀の人間であったということを差し引いても、もはやあまり尊敬されていない。

 一方、白人至上主義者にとって、リー将軍は、バージニアが白人の天国だった時代を象徴する英雄であり、彼らが取り戻そうとしている過去を体現していた人物でもある。

 とすれば、白人至上主義を標榜するグループの人間にとって、銅像の撤去は、時代が、自分たちの望まない方向に動いて行くことを可視化させる出来事であるはずで、なんとしても阻止せねばならない堕落への第一歩だということになる。

 で、彼らは、インターネットを通じて全米各地のネオナチや、オルト・ライト(オルタナ右翼)に支援を呼びかけ、この支援の呼びかけが、シャーロッツビルという小さな町に、全米から武装した民兵集団を含む多数の白人至上主義シンパが集結する結果を招いたわけだ。

 銅像そのものは、金属の塊にすぎない。
 が、その金属の塊が放射する意味は、時代によって、見る人によって、あるいは、それが建っている場所によって、様々に変化する。

 何百年たっても変わらぬたたずまいで立ち続ける銅像もあれば、年月を経るともに、建立された当時とは正反対の意味を獲得するに至る銅像もある。が、銅像は多くの場合、政治利用されることになる。

 レーニン像や毛沢東の銅像は言うにおよばず、爆弾三勇士の像や慰安婦の少女像にしても、結局のところ、それら人の形をかたどった金属製の偶像は、既にこの世にいない人間を現世の人間が政治的に利用するための道具として、鳩の糞の標的としての末路をたどることになっている。

 イスラム教をはじめとするいくつかの宗教が偶像崇拝をかたく戒めているのは、理由のないことではなくて、それらの宗教を主導する人たちは、偶像を崇拝する人間が、死者を利用する人間の思うままに操られてきた歴史を、よく知っていたのだと思う。

 実際、偶像は、あらゆる国の歴史の中で、人々を惑わし、ミスリードし、相争わせ、死に至らしめてきた。

 1人の人間の人格の中から、政治的あるいは宗教的な業績だけを抽出して銅像の形に整形することが、不自然な仕事であるのは言うまでもないことだが、国家なり集団なりの思い込みや理想を、1人の人間に仮託してその人間の姿を銅像として後世に伝えようとすることも、大変に気持ちの悪いことだ。

 であるからして、私は、なんであれ、銅像の類は好きになれない。

 銅像という形で物理的に実体化するまでもなく、言葉だけでも、死者を偶像化することはできる。
 たとえば、「英霊」という言葉がある。
 個人的に、この言葉は死んだ人間を利用せんとする人々が案出した言葉だと思っている。
 異論はあるだろうが、私は、この言葉を振り回す人間を、あまり信用しないことにしている。

 もっとも、この私の感情にも、若干の振れ幅はある。
 個人的な話をすれば、私の伯父の一人に、この言葉をよく使う人がいた。
 私は、その人が持ち出すその種の話をいつも迷惑な気持ちで聞いていた。

 いまにして思えばだが、当時の私のその話の聞きかたが、間違っていた可能性を感じている。
 私は、もう少し真剣に耳を傾けるべきだったのかもしれない。

 いずれにせよ、実際に戦地に行って復員した人間である伯父が、命を落とした自分の戦友たちに対して抱いていた気持ちは、私のような平和の中で育った人間が安易に批評して良いものではない。

 とはいえ、生き残った人間のサバイバーズ・ギルトや、残された遺族の感傷はともかく、公の立場にある人間が、「英霊」という言葉を使うことは、強く戒められなければならない。
 特攻の死者についても同様だ。
 彼らを「軍神」としてまつりあげるタイプの言説は、どんな場面であっても、退けられなければならない。

 一部に、「軍事作戦としての特攻の評価がどうだということは別にして、特攻による死を無駄死にと呼ぶことは、死者を冒涜する意味で賛成できない」という意見があることは承知している。

 しかし、特攻による死を無駄死にと評価している人々は、「死者」そのものを侮辱しているわけではない。
 特攻で死んでいった若者の人生を否定しているのでもない。
 私自身も、特攻に従事して亡くなった兵隊の死は、無駄死にだったと考えている者だが、その私が「無駄」だったと言っているのは「死」であって、彼らの「命」ではない。

 理屈をもてあそんでいるように見えるかもしれないが、大切なところなので続ける。
 死者の尊厳を守ることと死者を賛美することは違う。
 ある状況における死を無駄死にと呼ぶことと、それによって亡くなった死者を冒涜することも同じではない。

 であるから、特攻に対して「無駄死に」という言葉を使うことを、そのまま「死者への冒涜」にすり替えてしまうタイプの議論には注意しなければならない。なぜならそれは、生き残った側の人間が決して辱めてはいけない存在である死者を盾として利用している立論だからだ。

 死が尊いのだという話は、簡単に、生は尊くないという話に転じる。
 言葉の遊びみたいに聞こえるかもしれないが、これは本当のことだ。

 どんな形であれ、死に向かう人間や、結果として死を選んだ人間を美化することは、生命そのものの価値を軽んずる結果をもたらす。
 死を称揚するのであれば、生を卑下しないと理屈があわない。

 つまり、人間の生命を尊重するのであれば、安易に死を美化することは許されるべきではないということだ。
 ところが、それをやらかす人が、為政者の中にも少なくない。

 1週間ほど前、作家の西村京太郎さんの

《「日本人は特攻と玉砕に酔う」
恐ろしい事に、いまだに、酔ったり美化したりしてる人がいるんだよなあ》(こちら

 という言葉を紹介したテレビ番組を引用したツイートが発信されると、そのツイートを紹介した上で

《特攻と玉砕は大事な人たちを守るための勇敢な行為の結果だよ。美しいよ。
 保身のために抵抗もせず逃亡するのは醜い。醜い行為を推奨する国は尊敬されない。日本人は尊敬されたいのだ。憲法前文に明記されている。》(こちら

 という言葉を書き込んだツイートが発信されて話題を呼んだ。
 そのツイートは、私のタイムラインにも流れてきた。
 ひとことで言って「論外」だと思うのだが、一応反論しておく。

 特攻で命を落とした若者が本人の自覚として「大事な人たちを守るために」自分の命を捧げたことが事実であるのだとしても、戦後の時代は「彼らが命を落としたことによって」もたらされたものではない。

 むしろ、戦後の私たちの世界は、彼らが守ろうとした体制(国体、大日本帝国、大東亜共栄圏などなど)が跡形もなく敗れ去ったからこそ生まれたものだ。

 そういう意味で、特攻のために命を捧げた若者たちの気持ちと、彼らが実際に命を落とした特攻という作戦の愚劣さは、区別して考えなければならない。

 なにより、ほかならぬ国民に対して死を求めるという命令のあり方が、国家として完全に狂っている。

 死者の尊厳が尊重されるべきなのだとしても、死者の尊厳のために特攻で死んだ若者の死を「意義ある死」だったと定義する態度は、特攻という愚劣な作戦に意義を与え、国によって死を命令された人間の人生を美化するという本末転倒の結果をもたらす。

 本当に特攻で亡くなった死者の生命の尊厳を尊重するのであれば、「あなたたちの尊い生命は、特攻のような愚劣な作戦によって失われるべきではなかった」と言うべきだ。なんとなれば、「尊厳は、死そのものにではなく、彼らが生きていた間の生命にこそ宿っていたはずのものだから」だ。

 トランプ大統領の足場は、ミサイルの到達とは無関係なところで、おおいに危うくなっている。
 彼はミサイルを待望しはじめているかもしれない。

 というのも、ひとたび戦争が始まってしまえば、すべての細かい問題はリセットされるからで、してみると、多重債務に苦しむ失業者が全財産を1枚の馬券につぎ込むみたいな調子で、彼が無謀な選択肢を選ぶ可能性は、むしろ高まっているのであろう。

 私だって、こんな生活を続けるぐらいならいっそ英霊になって、と、40年若かったら、そう考えたかもしれない。
 うまいオチが思いつかないので、色々な人の冥福を祈っておくことにする。

 あなたたちが死んだおかげで私たちが生きているわけではないが、私はあなたたちの死を悼んでいる。合掌。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

コメント欄のお勧めで『国際政治』(モーゲンソー著)を読み始めました。難航中。
とはいえ、国民を無駄死にさせる国家が栄えるわけがないことは分かります。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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