アメリカのニュース雑誌、「タイム(TIME)」が毎年発表している「パーソン・オブ・ザ・イヤー」が先日発表され、今年(2017年)の「顔」には、”Silence Breakers”(沈黙を破った女性たち)が選ばれた(参考記事はこちら)。

 ちょっとわかりにくいニュースだ。
 どういうことなのだろう。

 リンク先の記事を読むと、例年、「今年の顔」には、その年に活躍したり話題になったりした特定の個人が選ばれているこの賞に、今年は、不特定かつ複数の「人々」が選ばれたということであるようだ。

 なるほど。
 概要はわかったが、なんだか釈然としない。

 今回のようなケースは異例でもあれば、異質でもある。いくぶん異様ですらある。 

 異例だからなのか、異様だからなのか、それとも日本の読者にとってわかりにくい記事だからなのか、例年は、各メディアに好意的に紹介されることの多いこの「タイム」誌の「今年の顔」のニュースが、今年は、これまでのところ、さほど熱心に紹介されていない。

 おそらく、わかりやすい「絵」としての「顔」を持たない「今年の顔」は、ニュースデスクとしても扱いに困るということだったのだろう。

 私個人は、このニュースを通して、二つの意外な印象を持った。
 一つ目の驚きは、伝えられているようなあからさまなセクハラが、いまのいままで明らかにされていなかった事実に対してのもので、もうひとつは、告発が始まってから「me too」(←私も)と言いつつ名乗り出た告発者の数が思いのほか多かったことへの驚きだ。

 いずれも、アメリカ社会が、私の予断よりもずっと閉鎖的かつ抑圧的だったことを物語っている。

 私がなんとなく抱いている印象では、アメリカは、セクハラ告発の先進国で、公民権運動以前の20世紀の半ば以前はいざしらず、少なくとも21世紀にはいって以降の現在の米国は、女性の社会進出が果たされ、彼女たちの権益がしっかりと守られている、平等で進歩的な社会だということになっていた。

 であるからして、私は、アメリカでは、無神経な男がうっかり女性のカラダに触れれば、その人間は即座に告発指弾され、謝罪・賠償を求められるのであろうと半ば自動的にそう決めてかかっていた。また、地位や権力を背景としたカタチで、相手に性的なサービスや屈従を迫る人間は、必ずや社会的生命を失うものなのであろうと思いこんでもいた。

 ところが、今回の一連のセクハラ告発事案に関する記事を一から読み直してみてあらためて驚いたのだが、最初に告発の対象となったハリウッドの大物プロデューサー(ハーベイ・ワインスタイン氏)は、何十年にもわたって、何十人ものさまざまな立場の女性に対して、極めて露骨な性的強要を繰り返していた。しかも、最初の告発が記事になるまでの間、まったく無事で、誰にも告発されず、とがめられず、平然の日常業務のように日々のセクハラを繰り返してきたことになっている。

 このことは、セクハラの直接の被害者となったあまたの女優さんやモデルさんたちが、様々な性的接触や下品な性的ほのめかしを甘受し、忍耐し、あるいはその場でははねつけることができたにしても告発についてはついに沈黙を守っていたばかりでなく、周囲にいたスタッフや同僚が、名だたる映画監督や俳優や脚本家を含めて、一様に見て見ぬふりをし続けていた事実を物語っている。なんとあきれた話ではないか。

 このほか、有名なオスカー俳優や、人気テレビシリーズの主演俳優が、それぞれの立場で、女性や少年たちのような立場の弱い相手に対して、かなり露骨な性的サービスを強要し、あるいはいやがらせを繰り返していたが、このたびの話題に関連して、順次告発されている。

 地位と権力とカネと名声のすべてを備え持っているかに見えるハリウッドのセレブ女優たちにしてからが、長きにわたって、屈辱に耐え、被害を言い出すことができずにいたこと、それらのセクハラ行為を見過ごしていた周囲の脚本家や映画監督や俳優たちの対応、オープンでフェアで自由だと私が子供の頃からそう思い込んでいたアメリカのイメージの源泉、憧れのハリウッドは、実になんというのか、権力ずくのジジイにひれ伏すチキン揃いの楼閣だったのだ。

 私の予断では、ハリウッド女優というのは、こっちが偶然視線を合わせただけで
「どこ見てんのよこのスケベが」
 ってな調子の罵声を浴びせてくるヒクイドリみたいな人たちで、なればこそ彼女たちの美貌には億単位の値札が付けられているのであろうと、少なくとも私はそう信じていた。

 それが、アブラぎったジジイの毛むくじゃらの手のひらをはねつけることすらできない世界だった、ということなのか?

 もっとも、ハリウッドは、「セクシー」という現象を商売のネタの一つにしている場所ではあるわけで、だとすれば、人がセクシーな存在であることそのものを商品化する装置であるハリウッドの制作過程の中に、セックスそれ自体を自己目的化してしまう人物が紛れ込むことは、そんなに意外なことではない。

 そういう意味で、ワインスタイン氏ならびに続々と告発されているハリウッド人種たちが、セックスに関連する不祥事で道を踏み外している現状は、洗練されたアートの形式として暴力をリング内に封じ込めることに成功したボクシングの世界に時々現れる不心得者が、はかったようにリング外の暴力で逮捕されるのとよく似たなりゆきなのかもしれない。

 それにつけても私にとって意外だったのは、”me too”というセリフとともに、告発の口火を切るアメリカ人がぞろぞろと現れたことだ。

 他人に追随したり、尻馬に乗ったり、真似をしたり、誰かの発議や行動を盾に、その後ろに隠れて行動したり発言したりすることは、アメリカの人間にとっては恥に属するやりざまなのであって、彼らは、あらゆる言動を、他人に先んじて、自らの独自の判断で、独立独歩の気概で、毅然としてあえて始めることを好む人々であるのだろうと、勝手に決めつけて尊敬していた私の気持ちは、だから、行き場を失っている。いや、というより、「アメリカも尻馬に乗らないと告発ができない社会だった」ということに驚いているのだろうか。

 「同調的な日本人と独立自尊のアメリカ人」という、私が決め事のように自分の中に秘めていたストーリー自体が、結局のところ、私が自分をごまかすために採用していたまやかしだった可能性はある。

 どこの国の人間であれ、チキンはチキンだし自由人は自由人だという、それだけの話でもある。

 トランプ大統領に関してもセクハラ告発のニュースが流れてきている(こちら)。

 この動きがトランプ大統領の足元を揺さぶることになるのかどうかはまだよくわからない。

 ある専門家は、
 「トランプはいまセクハラどころじゃない」
 という言い方で、この問題を論評している。

 つまり、トランプ氏にとってセクハラがどれほど深刻な問題になるのかはともかくとして、いま現在の状況について言うなら、セクハラなんかよりもずっと深刻な危機に直面している、ということらしい。
 心腹の大患を前に、疥癬を気に病んでも仕方がないってなことなのだろう。

 アメリカ社会が、これほどまでにセクハラが蔓延し、なおかつ隠蔽され、さらに、告発すら他人の尻馬に乗ってでないと言い出しにくい社会であったことに、このたび、私が失望感を抱いたことは事実だが、その一方で、いったん告発がはじまると行くところまで行く感じの極端な振れ幅には、やはり魅力を感じる。

 告発記事の演出がなんだか大げさでハリウッドくさいことも含めて、この国は、どっちにしても芝居がかっているのだなあと、あらためて感じ入った次第だ。

 ひるがえってわが国の現状をかえりみるに、おそらく、うちの国の映画制作現場や政治の裏舞台は、アメリカの同じ分野がそうであるほどあからさまにパワハラやセクハラが横行しがちな場所ではない…ような気がする。

 どちらの現場も、私は現実に見たわけでもないし取材したわけでもないのだからして、断定的なことは言えないわけなのだが、両国民の国民性から類推するに、竹を割ったような彼の国のセクハラに比べて、わが朝のセクハラが、より穏当で、隠微かつ曖昧でもあれば陰湿微妙な力加減で展開されるのであろうことは、おそらく間違いのないところだろう。

 でもって、その繊細微妙な日本のセクハラは、米国のセクハラ以上に告発されにくい。

 それは、うちの国の男性社会がより強固だからというよりは、わが国の女性の立場がより脆弱だからで、なんというのか、ネチネチした男がウジウジした心持ちで粛々と展開するのがわれわれのセクハラで、被害者もまた思い悩んだりしつつもなかなか告発には至らない、のではなかろうか。

 もちろんエビデンスはない。
 私がそう思っているというだけだ。

 最後に、何回か前の当欄(こちら)で触れた伊藤詩織さんへのレイプ疑惑に関する話題をもう一度蒸し返しておく。

 私自身は、この事件は「セクハラ」という言葉の範囲におさまる話ではないと考えている。

 それゆえ、アメリカでのセクハラ報道の徹底ぶりに比べて、わが国におけるこの事件の扱いの瑣末さに不満を感じてもいる。

 今回のテキストは、もともとは、その私の不満に基づくものだ。
 アメリカでいま巻き起こっているセクハラ騒動は、たしかに、奇妙な騒ぎだと思う。
 が、私たちの国のメディアは、その奇妙な騒動の手前にさえ到達していない。

 結果としてバランスを欠いた記事になってしまうのであれ、奇妙な形式の告発に結びつくのであれ、恣意的な基準に陥る危険性は否めないのであれ、とにかく記者が自分自身の直感で「おかしい」と感じたことを、署名入りで率直に記事にする点において、私はアメリカのメディアの健全さを感じる。

 日本のメディアは、いまなお記者個人の個性を発揮できていないように感じる。
 私のような感想文を書くだけのコラムニストとは別に、自分の名前と足で取材できるジャーナリストの皆さんの奮起に期待したいと思っている。

 伊藤詩織さんがその著書の中で主張している通りに、山口敬之氏が、昏睡状態にあった彼女に性行為を強要したのかどうかは、私にはわからない。

 私は、この件について、断定できる立場の人間ではない。
 法律の建前からすれば、当件については、推定無罪が適用されなければならないとも考えている。

 とはいえ、両者の間に性行為があったことを両者がともに認めていることは事実であり、その一方の当事者である伊藤詩織さんの側は、当該の性行為が合意に基づくものではなかった旨を主張していることも事実だ。

 一方、山口氏は、雑誌の記事などを読む限り、合意の有無について明言していない。

 週刊新潮が掲載した記事によれば、ホテルに向かうタクシーの運転手や二人が宿泊したホテルの従業員の証言から、その日、伊藤詩織さんが「意に反して」「引きずられるようにして」部屋に入ったことが語られている。

 逮捕状が一度は出され、その逮捕状の執行が直前になって取り消されたことも、当事者の証言によって明らかになっている。

 どういう事情があって、逮捕状が執行停止になったのはわからない。

 が、どんな背景があったのであれ、妻子ある立場のはるかに年齢が上の人間である山口氏が、就職相談に訪れた若い女性と性行為に及んだ時点で、少なくともジャーナリストとしての倫理的な責任は免れ得ないところだろう。

 今回もオチはありません。
 事件が落着するべきところに落着することをお祈りする気持ちをお伝えすることで、オチに変えたい所存です。

(文・イラスト/小田嶋 隆)
男性が、女性が感じるハラスメントへの不安を実感するには
女装して夜の街を歩いてみるしかないのでは、と担当編集は個人的には思います。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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