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「医学教育」再考論(前編)
医学部で教えるべきは、現場の不条理さ

2011/09/28
小鷹昌明

 大学病院勤務医の重要な職務のひとつは、医学教育である。特に講義方法の標準化については、どの大学でも試行錯誤を繰り返しているのではないだろうか。“眠らせない授業”を標榜する私としても、その実践のための課題は尽きない。

 講義の方法が講師によってバラバラである理由について最初に少し言い訳させてもらうならば、医学生の講義を担う臨床医というのは、これまで診療だけをこなしていた勤務医が、いきなり講師になるということがある。「大学の講義はどこでもそうだ」と言われればそうかもしれないが、きちんとした研修もなく教育のイロハも教え込まれずに、生半可な知識と方法とで、見よう見まねでいきなり90分の授業をやるのである。

 「学生時代に受けた講義を思い出しながら、カンと度胸を頼りに、自身のセンスを信じて、すったもんだしながら行われている」と言ってもいい。であるからして、上手い講師と下手な講師がいるのは当たり前なのである。では、上手い講義とはどういうものなのであろうか? さらに、こんなことを言うとまた反感を買うかもしれないが、上手い講義を受けたほうが医学生は良い医師になるのであろうか?

「質の高い」講義とは何なのか?
 “質の高い講義”というものを、あえて一言で定義するならば、「医師としての実践に役立つ情報を、解りやすく丁寧に教える」こと。この定義は一見正しいように思える 。

 経験を積んだ医師は、若手医師に対してマンツーマンの指導を繰り返してきているだろうし、学会などでのプレゼンにも慣れているかもしれない。しかし、100人単位の素人を一度に相手にし、しかも意欲とモチベーションとを持続させようとする双方向的な授業において、マンツーマン指導やプレゼンの経験がどこまで応用できるかは定かでない。当たり前だが、学会や講演に集まる専門家などとは違い、学生は必ずしも講義を聴きたくて集まってきているわけではない。

 医学教育のための講義は講演ではない。誤解を恐れずに言えば、質の高い講義には、多数を一度に“洗脳”するための別のノウハウが必要なのである。

 医師国家試験の合格が、医学生にとって最低限クリアしなければならない課題であることに異論はない。医学部に通う学生は、医師になるという明確な目標がある。だから、「迷いもなければ不安もない」と思われるかもしれないが、裏を返せば、「近い将来、早いか遅いかの違いはあるにせよ、否が応でも医師にならざるを得ない」と思っている。

 繰り返すが、医学部に入ったからには、医師になることは特別なことではない。周りは類を同じくするものばかりである。ところが、世の中には目指すべき大学や企業、お役所などに入ったことで、「人生の目標が達成できた」と、精神的に満足してしまう人間がいる。医学部を卒業し、医師になっただけなのに、こういう人は、そこで高い満足感をおぼえ、チャレンジ精神は枯渇してしまう。それでいて、自分は目標を達成したという思い込みがあるためにプライドが高い。だから、大学、特に医学部では、そういう感情に流されつつある学生を、ほんの少し軌道修正させてあげなければならない。

 多くの医師を見ていて感じることだが、「成績が良いから医学部へ来た」という、強い動機なき進学の方が、実はそれほど深刻な問題にならない。 そういう人たちは医師という仕事にあまり先入観がないので、真っさらな気持ちで、入学後に刷り込まれた慈悲の精神や信頼される喜びといった価値観がそのまま定着して、良心的な医師になる場合が多い。

著者プロフィール

小鷹昌明(南相馬市立総合病院神経内科)●おだかまさあき氏。1993年卒後、某大学神経内科に所属し、病棟医長、医局長、准教授を歴任。一念発起して2012年4月から現職。「今、医療者は何を考え、どうすべきか」をテーマに、現場から情報発信を続ける。

連載の紹介

小鷹昌明の「医師人生・四“反省”期」
医学部入学から四半世紀になろうとしている小鷹氏。自分の医師人生を四“反省”期として振り返ります。医療・医学、社会問題・社会現象、人間関係・生き方、自らのこだわりといった4つのテーマについて、様々な角度から語ります。

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