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カデット特集●大震災で僕らは…

大震災で僕らは… Vol.2
被災地で医療支援に従事した医師たちの声
「いつもやる気のない私が燃えた!」「自分も胃腸炎に感染、下痢に…」

 東日本大震災の発生後、被災者の医療支援に従事した医師たちは、何を経験し、どう感じたのか? 活動の感想や反省点、記憶に残ったエピソードを尋ねたアンケートの回答の中から、コメントを幾つか紹介する。


 福島第一原子力発電所の事故後、病院から逃げ出した医師がいたのには驚いた。周辺の病院や診療所も倒壊し、多くの患者が、震災被害のなかった当院に来院。通常、1日60~80人の患者数が、震災直後は毎日100人を超えた。
 避難してきた慢性疾患患者の大半は1週間分しか内服薬を処方されておらず、血圧や血糖値が上昇している人も。薬の在庫不足で休診した診療所が多い中、当院は卸との関係が良好だったせいか、患者全員に30日分の薬を処方できた。日常の診療を続けただけなのに、患者から泣いて感謝され、いつもはやる気がない私も使命感に燃えた
(40歳代・男性、内科、福島県)
 震災から1カ月後に現地入りし、巡回診療に携わった。避難所で出会った、緑内障でほぼ目の見えない70歳代の女性は、震災前、日常生活動作(ADL)は自立のランクだったらしいが、避難後は周囲の様子が分からないため自由に歩けず、布団でほぼ寝たきりに。医療支援だけでは解決できない難しさを感じた。
 自分は阪神・淡路大震災で被災した経験があり、仮設住宅の高齢者の孤独死が問題になったことを思い出した。三陸はもともと高齢化率が高い地域だけに、今回の東日本大震災では、孤独死の防止に加え、要介護者の適切なケアが求められそうだ
(20歳代・女性、内科、京都府)
 DMATのメンバーとして、主に避難所を巡回し、被災者の診療に当たった。チームのリーダーを任され、普段行っていない内科、整形外科、小児科などの専門外の診療を、他のメンバーとともに実施。小児に関してはベテラン看護師に助言を求めたり、整形外科ではPTに診断を任せたりといった具合だった。
 周囲にはさぞ「頼りないリーダー」として映っているだろうな…と内心思っていたが、実際にはその逆。患者の前で分からないことがあれば、看護師やPTに「教えてください」と、笑顔でアドバイスを求める姿勢が周囲に安心感を与えたそうで、ホッとした。
 被災地の光景は後に夢に見るほどの衝撃だったが、通常の診療に戻ってからは、以前よりも心に余裕が生まれた。過酷な戦場を体験した兵士が平和な日常生活に戻れたときに感じる幸せに近いのかもしれない。
(30歳代・男性、精神科、長崎県)
 計画停電で検査機器もパソコンも動かず、被災者の受け入れができなかったのが心残り。停電が取りやめになった後、今度は内視鏡的逆行性胆管膵管造影(ERCP)に使う器材が不足し、胆嚢炎の患者を他院へ転送するしかなかった。物資さえあれば、治療を続けられる病院はたくさんあったのにと、つくづく思った。
(30歳代・男性、内科、茨城県)
 勤務先の病院から被災地に救援物資や義援金を送ったが、被災者に届いていない事実が判明した。病院の同僚は被災地へ支援に行ったが、現場ではリーダーシップのある人がいなかったり、いても「出る杭は打たれる」状況だったとか。医療支援を行おうとしても、被災者のニーズに応えられないのが現状では。
(40歳代・男性、整形外科、神奈川県)
 被災地で仮設の診療所を立ち上げ、外来や訪問診療を行った。だが、現地の患者はほぼ慢性期の状態で、疾患も花粉症や感冒、腰痛など、震災とは直接関係のないものばかり。これでは地域の開業医の診療を圧迫してしまう。本当にニーズがある地域を地元の医師会から聞き出して、診療拠点を置くべきだと思った。
(40歳代・男性、内科、埼玉県)
 勤務先の病院が被災地の関連病院を支援し、それなりの成果を上げた。震災後、不眠不休で勤務していた関連病院の常勤医を休ませるようにし、精神的な負担をかなり軽減できた。また、手術ができない被災地の病院に代わり、手術を予定していた患者を当院で受け入れたことも、被災者の支援につながったと思う。
(40歳代・男性、外科、宮城県)

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