安倍晋三首相が中国を訪問した。

 様々なメディアのそれぞれの立場の書き手やコメンテーターが、何度も繰り返し強調している通り、日本の首相が中国を訪問するのは、実に7年ぶりのことだ。これは、安倍さん自身が、現政権では一度も中国に足を踏み入れていなかったことを意味している。してみると、今回の訪中は、私たちが思っている以上に重大な転機であったのかもしれない。

 産経新聞は、
《安倍晋三首相は平成24年12月の首相再登板以降の約6年間で延べ149カ国・地域を訪れたが、中国に2国間の枠組みで赴くのは今回が初めてだ。---略---》(こちら)  という書き方で今回の訪中の意義を強調している。

 今回は、中国の話をする。
 というよりも、ありていに言えば、中国についての面白い本を読んだので、その本の感想を書きたいということだ。

 冒頭で安倍訪中の話題を振ったのは、前振りみたいなものだと思ってもらって良い。
 いずれにせよ、今回の訪中に関して多言するつもりはない。

 個人的には、なにはともあれ、先方に足を運んだことだけでも大手柄だったと思っている。というのも、中国に関しては、とにかく、こちらから顔を出すことが何よりも大切だと、前々からそう思っていたからだ。

 彼の地でどんな話をして何を約束するのかといったようなことも、もちろん重要だが、それ以前に、とにかく行って顔つなぎをしてくることに意味がある。まずは、自身の訪中という困難な決断を果たした安倍さんに敬意を表したいと思う。

 ところが、世間の評価は意外なほど冷淡だ。少なくとも私の目にはそう見える。
 ここで言う「冷淡」というのは、「評価が低い」というのとは少し違う。扱いが小さいというのか、思いのほか大きな話題になっていないことを指している。

 実際、ニュース枠のトップ項目の中では、安田純平さんの帰国の話題の方がずっと扱いが大きかった。
 不思議だ。

 どうして安倍訪中は軽視されているのだろうか。

 私自身は、「対中国包囲網」であるとか「地球儀俯瞰外交」みたいな言葉を使って、しきりに中国への警戒心や対抗心を煽ってきたように見える安倍さんが、ここへ来て一転自ら協調路線に踏み出したことには、大きな歴史的転換点としての意味があると思っている。であるからして、今回のニュースについては、さぞや各方面で侃々諤々の議論が展開されるに違いないと考えていた。

 ところ意外や意外、主要メディアの扱いは、いずれもさして大きくない。蜂の巣をつついたような騒ぎになるはずだったネット界隈も静まり返っている。
 なんとも不気味な静けさだ。

 日中関係の専門家や外交に詳しい人たちは、今回の首脳会談の成果を、現時点で軽々に判断してはいけない、というふうに考えているのかもしれない。それはそれで、おおいにありそうなことだ。実際、会ったということ以上の具体的な話は、何もはじまっていないわけだから。

 でも、それにしても、一般の人たちの反応の乏しさは、これはいったいどうしたことなのだろうか。

 以下、私の勝手な推理を書いておく。

 安倍さんの政治姿勢を評価しない一派の多くは、安倍政権のこれまでの対中強硬策に強く反対していた人々でもある。とすれば、彼らはこの度の訪中を評価しても良さそうなものなのだが、そこはそれで、反安倍の人たちは、心情的に安倍さんを素直に褒めることはしたくないのだろう。

 一方、安倍さんのシンパを自認する人たちは、同時に中国との安易な友好路線を拒絶している面々でもある。
 とすれば、今回の安倍さんの訪中は彼らにとって裏切りに近い態度であるはずで、当然、反発せねばならないところなのだが、ここにおいてもやはりそこはそれで、安倍支持者は、たとえ安倍さんが自分たちの意に沿わぬ動き方をしたのであっても、それを即座に指弾するようなリアクションは避けたいのであろう。

 てなわけで、アンチとシンパの双方が微妙に口ごもっている中で、メディアや専門家もとりあえず様子見をしているというのがおそらく現状ではあるわけで、してみると、この訪中の評価は、なお半年ほど先行きを見ないと定まらないのだろう。

 ということで、この件はおしまいにする。

 

 私が読んだ本というのは、『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』(田中信彦著:日経BP社刊)というタイトルの、この10月に出たばかりの書籍だ。「スジの日本、量の中国」というサブタイトルが示唆している通り、ものごとを「スジ」すなわち「理屈」や「筋道」、「原理」「建前」から読み解いて判断しようとする日本人と、「量」すなわち「効果」「現実的影響力」「実効性」を重視する中国人との間に起こる行き違いやトラブルを、豊富なエピソードを通じて考証した好著だ。

 これまで、中国の歴史や文化、ないしは政治的・経済的な交渉相手としての重要さについて書かれた書物はたくさんあったし、その中には必読の名著も数多い。ただ、「中国人」という生身の人間を題材にした書物で、これほど画期的な本はなかなか見つからないと思う。

 善悪や好き嫌いの基準は別にして、市井の一人ひとりの中国人の内心を誰はばかることなく明らかにした本書は、この先、日中両国がのっぴきならない隣国として交流するにあたって、必ず座右に置くべき書籍となるはずだと確信する。

 ……とはいえ、私は、本書を手に入れてしばらくの間、贈呈本や郵便物を積んでおくスペースに放置していた。いつものことだ。どういうものなのか、本は、読まれるべき時期まで熟成させておかないと、うまく読み進めることができない。中には熟成途中で腐ってしまう本もある。悲しいことだが。

 話を戻す。

 『スッキリ中国論』は、冒頭で触れた安倍さんの訪中を機会に、なにかの参考になればと思ってパラパラとめくってみた本のうちの一冊だった。で、これが、実に目からウロコの書籍だった。それでこの原稿を書いている。

 もっとも、本文中の記事のうちのいくつかは、ウェブ上に記事としてアップされた時点ですでに読んでいるものだった。

 書いてある内容についても、すべてがこちらの予断に無い新鮮な知見だったわけではない。前々からなんとなくそう思っていたことが言語化されていたという感じの記述もあれば、ほかの誰かから聞いていたのと似たエピソードもある。

 ただ、こうして一冊の書籍という形でひとまとめに読了してみると、個々のエピソードを知ったときとは、まったく別の印象が立ち上がってくる。

 なんというのか、バラバラに見えていた挿話がひとつにつながって、巨大な物語が動き出す驚きを味わうことができる。自分の中で、長い間打ち捨てられていたいくつかの小さな疑問が、「そういうことか」と、いきなり生命を得て動き出した感じと言えば良いのか、とにかく、上質のミステリーの謎解き部分を読んだ時の爽快感を久しぶりに思い出した。

 私の世代の者は、もともと中国と縁が深い。

 というのも少年期から青年期がそのまま高度成長期で、さらにバブル期が働き盛りとぴったりカブっていた世代であるわたくしども1950~60年代生まれの人間は、中国出張を命じられることの多いビジネスマンでもあれば、取引の相手として中国人とやりとりせねばならない個人事業主でもあったからだ。

 じっさい、自分の同世代には、「中国通」が少なくない。

 直接の知り合いの中にも、中国人と結婚することになったケースを含めて、中国に5年駐在した記者や、中国各地を訪問して工場の移転候補地を探して歩いた経歴を持つ男や、一年のうちの2カ月ほどを中国各地で過ごす生活をこの10年ほど繰り返している嘱託社員などなど、中国と深いつながりを持っている人々がいる。

 それらの「中国通」たる彼らから、これまで、幾度となく聞かされてきた不可思議なエピソードや謎の体験談に、このたび、はじめて納得のいく解答をもたらしてくれたのが、本書ということになる。

 何年か前に、あるメディアが用意してくれた枠組みで中国から来て30年になるという大学教授の女性に話をうかがう機会があった。

 その時に彼女が言っていた話で印象的だったのは、
 「日本人の中国観は良い意味でも悪い意味でも誇張されている」
 「しかも、その中国観は驚くほど一貫していない」
 「理由は、日本人の中国観が、多くの場合、その日本人が交流している特定の中国人に影響されているからで、しかも、その当の中国人は、立場の上下や貧富の別によってまるで別の人格になり得る人々だからだ」

 ということだった。
 つまり、どういうカウンターパートと付き合っているのかによって、日本人の中国人観はまったく違うものになるということらしい。

 上司が中国人である場合と部下が中国人である場合は話が逆になるし、貧しい中国人と付き合うことと富裕層の中国人との交流も別世界の経験になる。

 であるから、ボスとしてふるまう時の中国人と部下として仕える中国人を同じ基準で考えるのは間違いだということでもあれば、中国人の金銭感覚は、貧乏な中国人と金持ちの中国人の両方を知ったうえでないと把握できないということにもなる。

 この話を聞いたときに、少しだけ謎が解けた気がした。
 というのも、それまで、私が中国人について聞かされる話は、どれもこれも白髪三千丈のバカ話にしか聞こえなかったからだ。

 「要するに彼らは◯◯だからね」
 という断言の、◯◯の部分には、様々な言葉が代入される。
 「ケチ」「いいかげん」「自分本位」「忘れっぽい」「やくざ」などなどだ。

 かといって、その種の断言を振り回している人間が、必ずしも中国人を憎んでいるわけでもないところがまた面白いところで、中国通の人々は、中国人を散々にケナし倒しながら、それでいて彼らに深い愛情を抱いていたりする。そこのところが、私にはいまひとつよくわからなかったわけなのだが、とにかく、大学教授氏の話をうかがって、われわれが聞かされる「中国人話」の素っ頓狂さの理由の一部が理解できたということだ。

 つまり、

 「中国人は、われわれの想像を超えて振れ幅の大きい人たちで、しかもその振れ幅は、個々人の持ち前の人格そのものよりは、相互の立ち位置や関係性を反映している」

 ということだ。
 とはいえ、そう説明されてもわからない部分はわからない。

 「まあ、実際に中国で3年暮らさないとわからないんじゃないかな」

 と、中国通は、そういうことを言う。
 私にはそういう時間はない。

 ということは、オレには、あの国の人たちのアタマの中身は一生涯理解できないのだろうか、と思っていた矢先に読んだのが、『スッキリ中国論』だ。

 この本を読んで、そのあたりのモヤモヤのかなり大きな部分がスッキリと晴れ渡る感覚を抱いた。

 たとえば本書で紹介されているエピソードにこんな話がある。

《2018年1月、成田空港で日本のLCC(ローコスト航空会社)の上海行きの便が到着地の悪天候で出発できず、乗客が成田空港で夜通し足止めされるという事態が発生した。航空会社の対応に一部の乗客が反発、係員と小競り合いになり、1人が警察に逮捕された。そこで乗客たちは集団で中国国歌「義勇軍行進曲」を歌って抗議した。》
(スッキリ中国論 P098より)

 この奇妙な事件の小さな記事は、私も当時何かで見かけて不可解に思ったことを覚えている。

 「どうしてここで義勇軍行進曲が出てくるんだ?」

 と思ったからだ。私の抱いていた印象では、中国人は、海外で国歌を歌う人々ではなかった。であるから、成田での彼らの国歌斉唱は、どうにも場違いでもあれば筋違いにも思えて、つまるところ薄気味が悪かった。

 で、この小さな事件は、私の中では不気味な謎のまま忘れられようとしていたのだが、本書での説明を得てはじめて得心した。

 本文にはこうある。

《空港で国歌を歌った中国の人々が言いたかったのは、「われわれ中国国民の安全で快適な旅行を保証するのは中国の統治者の責任である。その中には航空会社や外国の政府に圧力をかけて必要な措置を提供させることも含む。それをただちに実行せよ」ということである。クレームの相手は中国政府なのだ。》

 なんとも、日本で暮らしている当たり前の日本人であるわれわれには到底了解不能な思考回路ではないか。
 こういうことは、実際に中国人と日常的にやりとりしている人間でなければわからない。

 この国歌のエピソードだけではない、本書では、中国の人々の自我のあり方や、社会と個人の関係についての考え方、あるいは、為政者への期待や秩序感覚といった、ひとつひとつ順序立てて説明されなければ到底理解のおよばない話が、実例つきで紹介されている。

 さまざまな意味で、勉強になる本だと思う。
 安倍さんにもぜひ読んでほしい。

 あるいは、今回の訪中で伝えられている言動を見るに、すでに読んでおられるのかもしれない。
 いずれにせよ、今回、安倍さんがとりあえず習近平氏の面子を立てておく選択肢を選んだことは事実で、してみると、首相の周辺には、優秀なアドバイザーがいるのだろう。

 不愉快な助言をもたらすアドバイザーを大切にしてほしい。
 これは私からの助言だ。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

『スッキリ中国論』の「スジ」と「量」については
こちらでくわしく触れられています。

 なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
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 と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
 なぜ人は、何かに依存するのか? 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて

 日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
 現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!

(本の紹介はこちらから)

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