今回は、単行本『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』の中から「面子(メンツ)」について触れた部分を、ウェブ用に編集してお送りします。中国人を理解する上で重要な概念の「面子」ですが、日本にも同じ単語があるために、正確に理解することがかえって難しい概念かもしれません。コメント欄でも触れていただいた方がいました。「スジと量」で、面子を読み解くとどうなるでしょうか。

 「中国人と言えば『面子(メンツ)』を大事にするそうだ。面子と『量』はどのように関係しているのか?」

 中国社会を知り、日本社会と比較するフレームとして「量」と「スジ」をご紹介してきたが、こんな疑問を抱いた方もいるだろう。「中国人が面子を重視する」ことはよく言われるし、まったくその通りで、彼らを理解するキーワードでもある。そして、その底にはやはり「量」の思考が存在する。だが、「量」の話をする前に、まず「面子」について詳しく説明しておこう。日本で言う「メンツ」とは意味がかなり異なるからである。

日本語の「面子」とは意味も重さも違う

 中国語でよく使われる言い回しに「面子が大きい 」という言い方がある。
 「あの人は本当に面子が大きいね」とか「私は彼ほど面子が大きくないから……」といった使い方をする。

 「面子が大きい」という言い方は日本語ではなじみがないが、要するにこれはその人の「問題解決能力が高い」ことを意味する。つまり「他の人にはできないことが、その人にはできる」ことである。

 例えば、普通ではなかなか入れないような幼稚園や学校に、その人に頼むと、(さまざまな方法で人を動かして)何とか入れてしまう。正面からのルートではとても会えないような著名人に、その人に頼めば面会できてしまう。そういったようなケースで、「あの人は面子が大きい」ということになる。もっと生臭い話でいえば、正式には競争入札によって受注企業が決まるはずなのに、「面子の大きい」人に頼めば有利に取り計らってもらえるとか、有利な条件で国の持つ土地の使用権を譲ってもらえるとか、そういったことも当然、含まれる。

 これは(日本人が好む)「スジ」的に言えば「なんといい加減な社会だ、不公平だ」ということになるのだが、よい悪いではなく、現状がそうなのだから止むを得ない。普通の人々に広く適用されているルールや常識的な相場観のようなものが存在するにもかかわらず、その人物が出てくると、その枠を飛び超えて、異例な取り計らいが実現してしまうような人が「面子の大きい人」である。

「誰よりも優れている」という、最大級の褒め言葉

 中国社会において、このような「面子の大きい人」は極めて便利で、かつ大きな利益をあげられる可能性を持つ。それは時として便利や利益というレベルを超え、自分や家族の安全すら確保してくれる人である可能性がある。

 だから普通の中国人にとって、「面子の大きい人」とは、非常に頼りになる、どうにかしてお近づきになりたい人である。というより、「面子の大きい」人が近くにいないと安全・快適な生活を実現するのは難しい。だから「あの人は面子が大きい」という表現は、中国社会では最大級の褒め言葉である。周囲から尊敬と羨望のまなざしで見られる人物を意味する。そして誰もが自分も何とか自分の面子を大きくしたいと考える。「面子が大きい」と世間から言われるような人になりたい、と思うのである。

 このように考えてくると、中国社会における面子の本質とは、その人が「他人には不可能なことができることが明らかになる」とか、その人が「他人より優れていることを周囲の人が認める」“状態”であることがわかる。

 周囲は「あの人は他の誰にもできないことができる。すごい人だ」と称賛する。本人は「自分は他の人にはできないことができる。自分は他人より優れている」と周囲から認められ、自尊心が満たされる。こういう状態が中国人にとっての、日本語で言う「面子が立っている」状態である。逆に「面子がない」「面子がつぶれる」状況とは、「自分は他人より優れていない」ことが公衆の面前で実証されてしまう事態を指す。

 ルールや組織といった「スジ」が頼りにならず、「面子の大きい」人や権力者の腹一つで状況がいかようにも変化するサバイバル社会で、中国の人々は自らの力を恃(たの)んで生きている。

 そこでは常に「自分は大丈夫だ。やっていけるのだ」という自信、言ってみればある種の自己暗示のようなものが不可欠である。根拠は少々薄弱でも、「自分は他人より優れている。大丈夫、勝てる」と自らに常に言い聞かせているようなところがある。

 これは想像だが、おそらく日本の社会でも自営業の皆さんやプロスポーツ選手、芸能人、職人さんなど、自分の腕一本で世の中を渡っている人たちは似たようなマインドを持っているのではないかと思う(私も自営業だ)。「自分のようなものはダメかもしれない」などと思っていたら、とても競争に挑んでいくことができない。

「量」の思考法が強いる、他人との比較

 さて、この面子と「量」の思考はどのような関係にあるのか。
 「量」で考える基本思想について、この連載の冒頭でこう述べた。

「(中国人は)『あるべきか、どうか』の議論以前に、『現実にあるのか、ないのか』『どれだけあるのか』という『量』を重視する傾向が強い」

 量とは、大きさや重さ、多さ、高さを測る言葉だが、それは「強さ」と言い換えることもできる。大きいものは強い。そして、「量」を判断の基本に置くということは「現実に、目の前の相手より、自分は強いのか、弱いのか」を、常に意識しながら生きていく、ということでもある。ここで面子と「量」がつながる。

 別の言い方をしよう。

 中国人は、誰かと向き合った時、人の「個性の差」よりも、相手との「力関係」を意識する傾向が強い。例えば、日本社会では「貧しいけれども立派な人」「貧乏だけど希有(けう)な趣味人」といった概念はごく普通に成り立ち得る。人には個性があるもので、みんな違う。その「違い」を認識することが人間関係の前提になっている。

 しかし中国社会では、事の当否は別として、お金持ちか否か、権力・権限を持つ人かどうか、社会的な影響力を持つ(自分の意見を通せる)人物かどうか、そういった、その人物の「大きさ」「力の強さ」を重視する傾向が強い。つまり周囲との関係を「違い」ではなく「上下」「強弱」で、言ってしまえば「闘ったら勝つか負けるか」の価値観で理解する傾向が強いということだ。面子は、その強弱、勝ち負けそのものを指す概念と言っていい。いわば「量の勝負」=面子、なのである。

 だから、中国社会の面子は非常に重い意味をもつ。

 日本人にとっては「面子が立たない」という言葉は、ちょっと無礼なことをされたくらいの感覚で、そこに「上下」「勝負」の要素はあまりない。だが、中国人にとっての「面子」は、自分という人間が人格を肯定されるか否定されるか、くらいの意味をもつ。ここを軽く見てはいけない。「面子を立てるなんて簡単だ、失礼がなければいいんだろう」程度の気持ちでいると、相手のプライドを深いところで傷つけてしまいかねない。

 「量で比較する」ことが発想や行動を強く支配するゆえに、「面子」が絡むと対人関係が「勝ち負け」になってしまう。これは中国社会のモチベーションの源泉であると同時に大きな問題でもある。

 大小、上下、高低、強弱、言い方はさまざまあるが、詰まるところ評価の軸が事実上、1本しかない。そこで勝てればいいが、負けることは耐えがたく、許されない。やや極端に言うと、社会的な評価方法にバラエティが乏しく、誰もがステレオタイプの基準で相手を判断しようとする。皆が「相手に見くびられたら商売にならない」と思っていて、かく言う私も中国で暮らしている間に、そういう考え方にかなり強い影響を受けていることを自覚するようになった。

国民全員独立自営、全ては人と人の相対取引

 日本でも自営業の皆さんやスポーツ選手、職人さんの世界の発想はこれに近いものがあるかもしれないと書いたが、要は中国人は全14億の国民が、全て独立自営で生きている、くらいに思った方がいい。本人が実際には企業や政府機関などの組織に所属していようが、現実には全部、個人間の相対(あいたい)取引=人vs人の勝負、なのである。

 そこではまずお互いが「自分のほうが強い」とツッパリ合い、双方が値踏みし合う。その段階では笑顔も見せず、決して譲らない。しかし中国人は、会話や態度の端々から、素早く「(腕っぷしではなく、先の『面子の大きさ』を比較して)どちらが強いか」を察知する。「こいつとケンカして勝てるのか、勝ったとして得なのか」をお互いが瞬時に判断し、どちらか、もしくは双方がほぼ同時に矛を収める。その感覚は非常に鋭敏である。というのは、本当は相手の方が「強い」のに、読み誤って下手に突っ張ったら、とんでもないことになるからだ。

 非常に疲れる話ではあるが、これはある意味、非常に割り切ったサバイバルのための知恵でもある。世界のどの社会でも、弱者を保護するタテマエやそのための仕組みは存在しているが、突き詰めて言えば「強いほうが強い」のが現実だ。そして、負けるのは嫌だといっても、誰もが世界一強くなれるわけはない。常にケンカし続ける訳にもいかない。

 だから結局のところは、強者と弱者の間に一定の均衡が生まれて妥協が成立する。弱者は自分が弱者であることを暗黙に認めるが、一定の尊厳は与えられる。強者は利益を得るが、(相手が自分のことを尊重する限り)弱者に一定の配慮をして、叩き潰すことはしない。相手に利用価値があれば、優遇さえもする。そして何事も「誰が最高権力者なのか」という問題が決着しないと話が始まらないが、一度力関係を認めてしまえば、後は話が早い。

「まるで『ドラゴンボール』の世界ですね」

 この話を担当編集者にしたところ、「なんだか、『ドラゴンボール』(作・鳥山明)の世界みたいですね」と言われた。

 私はこのマンガを知らないのでピンと来ないのだが、超常能力を持つキャラクターたちがバトルする世界で、「スカウター」と呼ばれる、相手の“戦闘力”を数値化して表示するガジェットが存在する。闘う前に相手と自分とどちらが強いのかがわかるのだという。中国人は確かにそんな感じで、相手の様子を見て“戦闘力”を素早く読み取る。

 「ドラゴンボール」はマンガだから、戦闘力が文字通り「桁違い」の相手にも無謀なバトルを挑むし、時には勝てたりもするようだが、もしもドラゴンボールの世界の住人が中国人だけなら、闘いが始まる前に妥協が成立してしまうかもしれない。

 それはともかく、「量=大きさ=強さ」であって、「強い=面子が大きい」。面子が大きいことは、14億総自営業モード、人と人の相対取引が基本の世の中で、自分の権利を守って幸福に生きていくために非常に大事なのである。

 そんなことだから、中国人の自己アピールは多くの場合、非常に強烈なものになる。

 過去のあらゆる経験や知識、学歴・職歴、友人・知人などさまざまな材料を持ち出して自分をアピールする。そのため、もちろん個人差はあるが、多くの場合、中国人の自己評価は異様に高い。背景は別項に譲る(単行本106ページ、「『仕組み』が苦手な中国、得意な日本」参照)が、基本的に「自己評価」が全ての世界なので、ナルシシスト的傾向が強くなる。自分に甘く、他人に厳しい。

 俗な例で言えば、身の丈に合わないほどの豪邸に住んだり、高級車に乗ったり、派手な時計をしたり、ブランド品を身につけたりすることを好む人が多いのも、同じ構造に基づく。

 そうやって「自分は他の人より優れている(強い)」ことを周囲に常にアピールし、他者からの評価や称賛に執着する。そして、その努力が実って、周囲から「あなたは他の人とは違う。すごい人だ」という認知が得られると、もううれしくてたまらない。俄然、生きる気力が出てくる。もっと称賛を得たい、もっと能力を認められたい、もっと褒められたいと気合を入れて動き始める。

 中国で暮らしていてつくづく思うのは、中国人とは実に褒められるのが好きな人たちだということだ。もちろんどこの国でも褒められて悪い気のする人はいないが、中国人の「褒められたい願望」の強さはすごい。オフィスなどで若い人をちょっと褒めると、実にうれしそうな顔をする。そして「ボスに褒められた」ことを周囲や家庭で大宣伝する。翌日にはまた褒めてもらおうと思って、「私はこんなことをした」「お客様にこんなことで感謝された」と知らせに来る。うるさいほどである。

 逆に「自分は他人より優れていない」ことが明らかになってしまう状況に陥ると、途端にモラルが下がって、どうにも生きる気力がなくなる。そのコントラストが著しい。わかりやすいといえばわかりやすいが、起伏が激しいので時に疲れる。そこでうまくケアする人がいないと、自分が世間に認められないのは「社会が悪いからだ」とか「周囲の人間に人を見る目がないからだ」といった形で、現状を他人のせいにし始める。「自分が悪いのかもしれない」という発想が出てきにくい。これは面子の意識が強すぎることの悪弊といえる。

中国人の「面子を立てる」ためには

 このように、やや誇張して言うと、中国人という人々は周囲からの称賛というエネルギーを注ぎ込み続けないと、燃料切れで動きが止まってしまうような人たちである。これは詰まるところ、面子の意識がそうさせるのである。

 面子は中国人が生きていく上でのエネルギー源のようなものだから、維持するために尋常でない努力をする。自分自身を「面子が大きい」、日本人が言う「面子が立っている」状態に保っておくことに執心するのと同時に、他人の面子に対しても細心に気を配る。

 私は月に1~2回程度のペースで上海と日本を往復している。その際、日本から上海に戻る時のスーツケースはさまざまな品物で常に満杯である。中身の大半は中国人の友人たちへの土産物や頼まれ物だ。なぜ毎回、大量の品物を抱えていくかと言えば、それは面子の論理とかかわる。

 中国社会で他人に何か贈り物を持っていく、頼まれたことを引き受けることは、それは「私はあなたをこんなに重視していますよ」というメッセージである。単なる「おすそ分け」や「おつきあい」ではない。極めて戦略的な行為である。先に中国人は「褒められたい」「認められたい」という願望が強いと書いた。他人が自分にものをくれる、他人が自分のために動いてくれるということは、すなわちそれだけ尊重されていることを意味する。まして海外からとなれば、評価はさらに高いと考えられる。

 私も中国社会で生きているので、戦略は中国人に学ばねばならない。大切な友人、好きな友人ほど高価で、見栄えのするものを持っていく。当然ながら最も高価なものを渡すのは妻に対してである。まさに「これ見よがし」であるが、面子とは詰まるところ「これ見よがし」なのだから仕方がない。

実録、「面子の連鎖」

 例えば、日本の老舗の高価なお菓子を中国の友人に渡すとする。

 その際には、いかに有名な店で、○○庁御用達とか、何百年の老舗とか、国際○○賞受賞とか、海外の有名スターも食べたとか、いかに高価なものであるか、さまざまなお話をつけて、ありがたみを増幅して渡す。友人は「田中先生はこんなに私のことを重視している」と喜び、「自分は特別である。私は他人より優れている」と確信を持つ。これが中国人の「面子が立っている」状態である。

 この友人はお菓子を自宅に持ち帰り、家族に「このお菓子は日本の○○庁御用達、何百年の歴史があり、国際 ○○賞……」と話して聞かせる。「世界トップ500の大企業経営者を相手にしている日本で最も有名なコンサルタントで、テレビにも頻繁に出演している田中先生が私のために日本から持ってきてくれたのだ」などと、ほとんど荒唐無稽な誇張が加わる。家族はそれを聞いて、まあ全て信じているわけではないが、とにかく「すごいねえ。こんなものが食べられるなんて」と喜び、かくも高名な先生から尊重されている父を称賛する。これで家族も含めて面子が立っている状態になる。

 さらに友人の妻はお菓子を自分はほんの少ししか食べず、そのまま実家の母親に持っていく。母親は大切な人だからである。そこで友人の妻は「日本で最も有名なコンサル……、○○庁御用達の……」と口上を述べ、母親は素直に喜ぶ。ここで彼の妻の面子に加え、こんな立派な先生が友人にいる人徳のある亭主がいて、しかも自分は我慢してもお菓子を親のところに持ってくる孝行娘を持った母親とそのご主人の面子は大いに立つのである。

 話はまだ終わらない。この友人の妻の母親は、もらったお菓子をほとんど食べず、そのまま老人会の友人たちに持って行く。大事な仲間だからである。そこで母親は「私の娘の亭主の友人である日本で最も有名な……、○○庁御用達……」と語り、お菓子をふるまう。仲間は自分たちが尊重されたことに満足しつつ、「立派な娘婿と孝行娘を持って幸せだねえ」と羨ましがってみせ、友人の妻の母親を称賛する。これで友人たちに加え、友人の妻の母親の面子も大いに立つのである。

 このように中国人の間の「面子の連鎖」はどんどん巡っていく。自分も面子を立ててもらうが、それを使って周囲の人の面子も立てる。そうやって「面子の立て合い」をすることでコミュニティは円滑に回っていく。だから中国人は他人からものをもらった時、ご馳走してくれた時などに「なんだ、これ見よがしに、金持ち風吹かせやがって」などとは決して言わない。ものをくれるのは自分が尊重されている証しだと素直に喜ぶ。そして相手を称賛する。それがルールである。

面子はモチベーションと不満、両方の源泉

 このように中国社会では、面子はコミュニケーションの根幹をなしている。相手に自分のことを好きになってほしければ、まずその相手の面子を立てなければならない。それはつまり相手が「自分は特別な人間である」「自分は他人より優れている」と実感できるようにすることである。

 だから有能な中国人は、ある人に対して好感を持ったら、とにかく「あなたは能力がある」「私はあなたを高く評価している」と明確に伝える。そして相手の自尊心を満足させ、自分にも好意を持ってもらえるよう努力する……そんなことを「先払い」の話(単行本142ページ、「中国人は『先払い』、日本人は『後払い』参照)で紹介したが、そうすることによってたとえ外国人であっても中国人社会にスムーズに溶け込んでいけるし、子細に観察していれば、有能な中国人ほどそうやって相手を自分の「勢力範囲」に取り込んでいく。周囲に尊大な態度を取っている連中にロクな人物はいない(これは日本でも同じだ)。

 面子はこのようにポジティブな側面を持つ一方、厄介な面もある。常に「自分は他人より優れている」ことを証明しようと行動しているのだから、分業やチームプレーが得意なわけがない。全体の利益を考えるより、自分が評価されることを優先してしまう傾向が強いのは面子の最大の弊害だ。

 また、仮にある中国人が「自分は他人より優れている」と信じているとしても、現実にはそうではないケースは多いわけで、その人たちはいつか自尊心と現実の折り合いをつけなければならない。それはつらい作業である。中には折り合いをつけられない人も出てくる。

 面子は中国社会のモチベーションの源泉であると同時に、社会に充満する不満の源泉でもある。ものごとを「量の大小」「力の強弱」という評価軸で判断する傾向の強い中国社会の光と陰が「面子」に表れている。日本人的なお気軽な感覚で「面子」をとらえると、認識を誤る。

 中国の「面子」とは、「スカウター」を付けた14億人が、いつでもどこでも「量」を巡る真剣勝負をしている国だ、ということなのである。

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 本連載と、10年に及ぶ「wisdom」の連載の中から厳選・アップデートしたコラムを「スジと量」で一気通貫に編集。平気で列に割り込む、自慢話ばかりする、自己評価が異様に高い、といった「中国の人の振る舞いにイライラする」「あれはスジが通らない」という、あなたの「イラッ」とくる気持ちに胃薬のように効き、スッキリとする。ユニークな中国社会・文化論です。

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