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 田町と品川の間に設置されることになる山手線の新駅の名称が「高輪ゲートウェイ」に決まった。

 はしごをはずされた印象を抱いた人が多いはずだ。
 私もその一人だ。
 拍子抜けしたというのか、毒気を抜かれたというのか、正直な話、どう反応して良いものなのか、困惑している。

 件の新駅については、今年の6月から駅名が一般公募されていたのだそうだ。

 結果は、1位が「高輪」で8398件、2位が「芝浦」の4265件、3位の「芝浜」が3497件、以下10位まで「新品川」&「泉岳寺」(2422)、「新高輪」(1275)、「港南」(1224)、「高輪泉岳寺」(1009)、「JR泉岳寺」(749)、「品田」(635)となっている。

 で、結果的に選ばれることになった「高輪ゲートウェイ」には36件の応募が寄せられたのだという。ちなみにこの応募件数は、順位としては130位に相当する。

 個人的には、1位から10位までのどの名前でも特段に問題はなかったと思っている。
 細かいことを言えばそれぞれ一長一短はある。ツッコミどころも相応にある。そういう意味では、万人を満足させる駅名は無いといえば無い。

 ただ、山手線の駅のような公共的な施設の名称は、多くの人々が許容できるものであればOKなわけで、その意味からして、少なくとも公募件数のベスト3に上がってきている駅名を選んでおけば大過はなかったはずだ。

 にもかかわらずJR東日本(以下JR東)は、「高輪ゲートウェイ」を選んだ。

 ……と、たったいま「選んだ」という動詞を使ってはみたものの、実は、私自身、彼らがこの名前を「選んだ」のだとは思っていない。
 選ぶも何も、彼らの目にははじめからほかの選択肢は見えていなかったのだろうと考えている。

 というのも、公募という手順を経た以上、あえてランキング130位の名前を選ばなければならない必然性はなかったはずだからだ。
 逆に言えば、新名称を選択する立場にある人々がはじめから100位以下の不人気名称を選ぶような選考基準を共有していたのだとすれば、そもそも公募を実施する必要がなかったということでもある。

 もっといえば、私は、「高輪ゲートウェイ」という珍奇な(というよりも、あらかじめ特定の意図を持った人間でなければ発案することが不可能であるような)名前を応募した人間が36人もいたこと自体、「仕込み」だったのではなかろうかと疑っている。

 では、どうしてJR東の偉い人たちは、はじめから結果を尊重するつもりもないのに、わざわざ公募という手段に打って出たのであろうか。

 ここから先は私の憶測だが、おそらく、駅名を決定する権限と責任を持っている人々は、その一方で新駅の名称を、自分たちの責任において名付けることから逃避したかったのだと思う。

 だから、彼らは「公募」に逃げた。
 こうしておけば、自分たちが一方的に上から決めたのではなくて、「広くご利用客の皆様のご意見をうかがったうえで総合的な見地から判断して」新名称を決定するに至ったという外形を整えることができるからだ。

 もっとも、逃避であれ責任回避であれ、公募の結果を尊重するのであればそれはそれで間違ってはいない。
 自分たちだけの決定権ですべてを決めてかかる責任の重さを自覚して、広く公論を求める選択肢を選んだのはひとつの見識だし、立派な態度でさえあると思う。

 ところが、彼らは、責任から逃避した一方で、権限は手放さなかった。
 すなわち、公募を介して広く一般の意見に耳を傾けるがごときポーズをとってはみせたものの、その実、公募の結果はまるで尊重せずに、命名権に関しては自分たちの権限を100%押し通して、はじめから決まっていたヒモ付きの名前を持ち出してきたわけだ。

 結果として、彼らは、オープンな議論を求めているかのごとき態度を装ったがゆえに、かえって決定過程が極めてクローズドであることを内外にアピールしてしまった。しかも、一見民主的に見える決定過程を演出した結果、彼らは、自分たちの一押しにしている新駅名が、独断専横の結晶であることをあまねく露呈してしまってもいる。

 実に致命的な顛末だと思う。

 もっとも、私は、「高輪ゲートウェイ」という名前を撤回してほしいと思っているわけではない。
 腹を立てているのでもない。
 名前そのものについては、正直なところ、どうでも良いとさえ思っている。

 ただ、「公募」という手順なり手法を舐めてかかった人々に対して一言釘を刺しておきたいと思ったまでだ。

 名前は決まってしまった。

 新駅の名称は、いずれ「高輪ゲートウェイ(笑)」みたいな形でのんべんだらりと定着していくことだろう。でなければ「高輪ゲートウェイ?」みたいな尻上がりの発音で人々の口の端にのぼることになるはずだ。いずれにせよ、この名前を発案した人々は、沿線住民や乗降客が自分たちが決定したこの駅名を、皮肉をこめたアクセントで吐き捨てているのを聞かされる度に、永遠に居心地の悪い気持ちを味わい続けることになる。それはそれで、起こってしまった事態にふさわしい結末なのだと思う。誰も、命名責任から逃れることはできない。さらに彼らは、公募をないがしろにした責任からも永遠に逃れられないだろう。

 「じゃあ、19日の集合場所は高輪ゲータレードな」
 「ゲータレードってなんだよ」
 「直訳するとワニ汁。意訳してワニジュース」
 「ココロは?」
 「ごめん。言ってみたかっただけ」
 「とすると品川はブロードウェイって感じか?」
 「いや、ブロードウェイは中野。品川は折り返し点という意味でミッドウェイかな」
 「で、蒲田がガダルカナルで大森あたりがインパールか?」
 「五反田はゲッタウェイだな」
 「五反田で地団駄踏んだんだ式のライムに乗っかりきれない点で永遠のアウェイでもある」
 「でもって、恵比寿がゴーイングマイウェイで渋谷はウェイウェイと」

 駅名は乗客のものだ。
 いずれ、人々が自分の呼びやすい名前を見つけ出すまでの間「ゲートウェイ」は、「ゲロウェ」だとか「ゲーウェ」といったあたりの勝手口周辺をさまようことになるはずだ。

 高輪や品川周辺で再開発やら不動産ブームやらをたくらんでいるデベロッパーの先生方が具体的にどんなつもりでゲートウェイ構想を吹き散らかしているのかはわたくしどもの考慮の外だ。が、彼らが何を目論んでいようと、この先「ゲートウェイ」なる単語が、半笑いの嘲弄とともに都民に玩弄される近未来は、すでに決定してしまっている。その意味で、高輪の未来はうすら明るいと思う。

 ひとつ気になるのは、今回のネーミングをめぐるSNS上の大喜利の中で、

 「ま、名前の出来不出来はともかくとして、現にこうやってバズってるわけだからJR東としては大成功なんじゃないか?」

 という感じの一歩引いた見方が一定の支持を集めている点だ。

 思うに、今回の名称決定に関して公募がないがしろにされたことは、その結果に対してこの種の「ギョーカイっぽい」ものの見方が蔓延していることと無縁ではない。

 わかりにくい言い方だったかもしれない。
 私が言いたいのはこういうことだ。

 つまり、公募に応じてくれた人々の声を単なる踏み台として利用して恥じない人々の「大衆観」と、炎上気味のネーミングを掲げて注目度を獲得したことを「成功」ととらえる人々が抱いている「大衆観」は、どちらも、大衆を「愚民」と決めつけているという点で共通している。

 彼らは、「大衆」を「受動的な」な、「どんなに利用しても決して使い減りのしない」「まるで傷つくことのない」「愚か」で「学習能力のない」「メディアの持っていき方次第でどうにでも操作可能な」「水槽の中のメダカみたいに」「個体識別が不可能なほど互いに似通っている」「まるで個性のない」「愚か」な人々だと考えている。

 そして、その愚民蔑視の思想を推し進めた結果が、

 「ほら、あの公募とかいうヤツをカマしておけば、一応みなさまのご意見はうかがいました的なイクスキューズになるんじゃね?」
 「いいね山田くん。牛乳からチーズを生み出すのが酵母なら米を酒に変えるのも酵母なわけで、ひとつ公募の力を借りてわれわれの決定過程をプロクシ化しておこうじゃないか」

 てな調子で安易な公募案件を大量生産しており、同じ愚民観が、今度はその公募の結果を「愚民の自業自得」という「他人事」として、揶揄冷笑のあげくに受容せしめている。このクローズドサーキットにはまるで破綻がない。つまり、自分以外の大衆を愚民だと思っている大衆は、自分の陥っている苦境を上から嘲笑する分裂を獲得しつつ、永遠に抵抗不能だったりするのである。

 愚民思想とは、大衆を愚民視する思想を指す言葉だが、同時に実態としては愚民自身が陥りがちな境地でもある。ということはつまり、愚民とは、愚民を冷笑している当の本人を指す言葉なのであって、結局のところわれわれは、「大衆」を蔑視することによって、どこまでも愚民化している。なんということだろう。

 この種の「大衆を舐めた」態度がどこから生まれたのかをさかのぼって考える度に、いつも私は「広告」に行き着く。

 勘違いしてもらっては困るのだが、私は、「広告」業界や「広告」の存在が人々を愚民思想に駆り立てていると決めつけたいのではない。広告に携わる人間が人々を愚民視していると思っているのでもない。

 ただ、あるタイプの人々が「広告的」であると考えているものの見方には、明らかな大衆蔑視の思想が含まれていて、その彼らが持ち出してくる凶悪な「広告的言辞」が、21世紀の世相を毒しているということは、この際申し上げておかねばならないと思っている。

 具体例をあげれば、マンションポエムと呼ばれるものを大量生産している人々の仕事ぶりがそれにあたる。

 彼らは、
 「オレはこういうのが好きだ」
 と考えて、広告文案を案出しているのではない。
 「自分はこのコピーがシャレていると思います」
 と信じてコピーを書いているのでもない。
 どう言ったらいいのか、あの種の広告コピーを右から左に書き飛ばしている人たちは、
 「大衆ってこういうのが好きなんだよね」
 であったり
 「ほら、おまえらこういう感じの言葉にビビっと来るわけだろ?」
 といった感じの決めつけに乗っかる形で文案を練っている。

 もちろん、プロである以上、そうやってターゲットの好みから逆算して作品を制作する態度が間違っているというわけではない。
 実際、才能に恵まれたコピーライターは、ターゲットの嗜好を読み取るところから出発する作風で見事なコピーを生産することができるのだろうとも思っている。

 ただ、広告制作の現場で仕事をしている人間のすべてに創造的な才能が宿っているわけでもなければ、その彼らに許されているスケジュールの現実からして、常に現場の人間が創造的な姿勢で作業をしているわけでもない。

 とすれば、刷り上がってくるコピーは、「人を舐めた」文言に着地せざるを得ない。
 しかも、受け手のうちの何割かは、その「大衆を舐めた」広告文案こそが現代における最先端のセンスを体現するおシャレの結晶なのだと思いこんでしまう。

 かくして、「高輪ゲートウェイ」のような、恥ずかしい名前が降ってくる。
 これを考えた人間は、たぶんこの名前を最高に素敵でピッカピカにセンスの良いネーミングだと自信満々でそう信じているわけではない。

 「ほら、なんていうのか、きょうびこういうのがウケるわけでさ」

 みたいな顔で周囲をキョロキョロしながら持ち出したのだと思う。
 で、周囲のお仲間もまたお仲間で

 「おお、いいじゃないですか○○さん」

 てな感じで調子を合わせたのだろう。
 目に浮かぶようだ。

 さらに、「ネーミング」みたいなことについての最終的な決定責任をカブることになっている公共的な立場の人間は、常に公共的な恐怖にかられている。

 たとえば、地下鉄の駅名や公共の老人養護施設のネーミングを案出しなければならない立場の人間は、いつも「地元の綱引き」に悩まされている。

 であるからたとえば、営団南北線のような比較的新しい地下鉄路線の駅名は
 「赤羽岩淵」「王子神谷」「溜池山王」「白金高輪」
 といった調子の、二つの地域名を等分に冠した名称に落ち着きがちになる。

 理由は、一方の地域名を採用すると、外された側の地名を持つ地域に済む住民がクレームをつけてくる(と名称決定担当者たちが恐れている)からだ。

 仮に、いずれかの一方の名前に落着させたのだとしても、実際にやってくるクレームは、ぜいぜい10件程度であるのかもしれない。

 それでも、彼らは、具体的に腹を立てて文句をつけにくる少数の住民の激しい怒りを恐れる。

 そんなわけで、担当者は、王子の住民と神谷の住民の双方がやんわりと不満を感じながらも、どちらも取り立てて真っ赤な顔で怒鳴り込んできそうもない、どっちつかずの印象希薄な駅名である「王子神谷」を選ぶに至る。いや憶測だが。でもどうせそんなところなのだ。

 おそらく、山手線の新駅の名称を決定しなければならない立場に追い込まれた人々は、「何万人かが喜ぶ代わりに何千人かが怒ることになる特定の地域名を代表した名称を選ぶよりは、誰も喜ばないし誰もが不満に感じる一方で、誰もたいして腹を立てないであろうみっともないネーミング」として「高輪ゲートウェイ」を選んだのだろう。

 要するに事なかれ主義だ。
 上司が責任を取ってくれないことがはっきりしている状況下で何かを決定しなければならない中間権力者は、必ず事なかれ主義に陥る。これは日本陸軍の小隊長以来の伝統で、われわれにはどうやっても回避できない。

 この点については、私はあきらめている。
 私が残念に思っているのは、新しい駅名を提案した人々だけではなく、その名前をこれから使って行かなければならない立場の乗客や、将来にわたってその駅名を冠された町に通ったりその場所で暮らしていくことになる人たちが、揃いも揃って
 「大衆がバカなんだからしょうがないよね」
 てな調子のあきらめ顔で事態を受け容れつつあることだ。

 大衆という言葉とバカという言葉は、いずれもブーメランを内包している。
 大衆をバカにした人間は大衆よりもバカな場所に堕ちて行かなければならない。

 なので、結論としては、ここは一番、大衆を持ち上げる形で着地せねばならないところなのだが、残念なことに、どうしてもそういう気持ちになれない。

 こういうところが私の大衆的な部分なのだろう。
 困ったことだ。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

個人的に、3位に“芝浜”が来るのは応募者のセンスの証明だと思います。
一杯飲んだら夢にならないかしら……。

 なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
 30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
 と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
 なぜ人は、何かに依存するのか? 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて

 日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
 現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!

(本の紹介はこちらから)

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