《安倍晋三首相は、自民党総裁選への出馬を表明する舞台に鹿児島県を選んだ。首相の地元の山口との「薩長同盟」が明治維新の契機となったことにちなんだとみられる。出馬表明に先立つ26日午後、鹿児島県鹿屋市の会合で講演した首相は「しっかり薩摩藩、長州藩で力を合わせて新たな時代を切り開いていきたい」と力を込めた。-略-》(ソースはこちら

 以上は、時事通信が8月26日付で配信したニュースだ。

 この出馬表明の様子は、同じ日のNHKニュースでも生中継され、安倍さんは、その中で
「『平成』の、その先の時代に向けて、新たな国造りを進めていく、その先頭に立つ決意だ」と、3選を目指して立候補する考えをカメラ目線で開陳している(こちら)。

 さらに安倍首相は、自身のツイッター上にも同様の趣旨の投稿をしている。
 ここでは、

《「我が胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」筑前の志士、平野国臣の短歌です。
大きな歴史の転換点を迎える中、日本の明日を切り拓いて参ります。》

 という文言に、桜島を背景に決意表明の演説をする動画が添えられている(こちら)。

 このツイートが配信されるや、タイムラインには、首相が引用した平野国臣の短歌へのツッコミが殺到した。

 まあ、当然だろう。
 私も、ひと目見るなり
 「ん? なんだこれは」
 と思った。

 もっとも平野国臣の来歴を踏まえて、引用に疑問を抱いたわけではない。
 告白すれば私は、日本史には詳しくない。詳しくないどころか、昔からの苦手科目で、実のところ、平野国臣という名前を見たのも、今回がはじめてだったりする。

 なにしろ高校2年生の時に、日本史の定期試験で0点を取ったことがある。
 担当の教諭は、 「自分は25年日本史の教師をやっているが、この科目で0点の答案を採点したのははじめてだ」
 と言って、私のクラスの担任に相談したのだそうだ。内心、意図的な誤答かと疑っておられたらしい。

 担任に真意を問われた、私は
 「他意はありません。真面目な0点です」
 と説明した。

 真面目な0点というのも奇妙な言い方だが、私は反抗していたわけではなかった。ボイコットの意図を持っていたのでもない。
 とはいえ、日本史のような科目での0点が意図的な解答拒否を疑われ得る事態であることは理解した。

 でもまあ、0点はあんまりだった。
 10点ぐらいは取っておくべきだった。

 さらによろしくないのは、高校を出た後の積み上げが乏しいことだ。
 受験科目に選ばなかった教科の学力は、だいたいにおいてそういうものではあるのだが、結局、私の日本史の学力は、中学生段階のところから一歩も前に進んでいない。

 なので、大河ドラマは見ない。歴史小説もほとんど読まない。関心を抱くに足る教養を欠いているからだ。
 それゆえ、雑学さえ身につかない。実に困ったことだ。

 話がズレているついでに、せっかくなので私が大河ドラマを視聴しない理由を明らかにしておく。

 私は、出演者全員がわめいているタイプのドラマを好まない。
 で、NHKの歴史大河ドラマはそれにあたる。

 サムライが出ることが多いからなのか、あるいは舞台あがりの演出家がかかわっているからなのか、あの枠のドラマは、出演者の全員が腹から声を出すめぐり合わせになっている。たぶん、舞台ではああいう発声をしないと後ろの客席まで声が届かないのだろうし、ああいう声が出せること自体は、俳優としての優れた資質でもあれば、訓練の賜物でもあるのだろう。

 でも、それを見せられる私からすると、脚本や筋立てがどうであれ、同じ部屋の中にいる人間が10メートル離れた相手と対話しているみたいな発声でセリフを読み上げているドラマは、もうそれだけで御免こうむりたいという気分になってしまうのだ。

 だから、子供の頃は、大河ドラマの流れている時間は、テレビのある居間から避難していた。
 それほど私は大人の男の大きな声が苦手なのだ。
 いきおい、武士もきらいになった。
 ブラウン管の中のサムライは、いつもリキんで大声をあげていたからだ。

 民放がやっていたちょんまげ時代劇は時々視聴した。
 夕方にやっていた再放送は、学生時代から失業時代を通してほとんど毎日だらだら見ていたと言って良い。
 というのも、民放の時代劇の中の町人たちは普通の声でしゃべっていたからだ。

 しかしながら、江戸市井モノの捕物帖や、黄門様の全国漫遊譚は、歴史の知識にはあまり貢献しない。
 そんなわけなので、私の日本史知識はいまだに文明以前の停滞の中にある。

 断片的な知識はそこそこに蓄積した気がしているのだが、なにしろ体系としての歴史の流れの骨組みの部分を把握していないしので、せっかくの知識がまるで身になっていない。この点は自覚している。手遅れだとも思っている。

 話を元に戻す。
 歴史にはとんと暗い私にしてからが、安倍さんがあの歌を引いたことの不適切さはなんとなく感知できた。

 平野国臣がどんな人物であるのかを知らなくても、ふつうに短歌を鑑賞する感覚を持っていれば、あの場面であの歌を引いた感覚には、やはり違和感を感じずにおれない。

 以前、安倍首相は、新宿御苑での観桜会で、
 「給料の 上がりし春は 八重桜」
 という俳句を披露したことがある。
 私は、この句を聞いた時点で、首相の言語的センスを見限っている。

 いや、ああいう場面で人々を感心させる俳句を、さらりとひねってみせることのできる人間がそんなに多くないことはわかっている。そんな人間は一部の天才に限られる。
 ほとんどの日本人は、とっさに俳句を求められたら、

 「給料の 上がりし春は 八重桜」

 程度の、何の工夫もない、下世話(←だって仮にも宰相たるものが給料なんかを晴れがましい場の主題に持って来ますか?)かつ不細工(←「春」と「八重桜」は季重なりですよね)な句を捻り出す始末になる。そういうものだ。

 ただ、それならそれで詠まなければ良い。
 事実、ほとんどの日本人はそうしている。
 わざわざ自作の俳句を披露するような出過ぎたまねをあえてせずにおけば、恥をかくことはない。他人にどうこう言われることもない。

 私が安倍さんの国語センスを見限ったのは、この点だ。
 つまり、
 「この程度の俳句をうっかり披露したら、きっと袋叩きに遭うぞ」
 という感覚すら持っていないところが、つまりは、この人の至らなさなのだ。

 ずっと以前、宇野宗佑という政治家が首相になったばかりの頃(この人は首相になってすぐにやめてしまったので、その在任期間のほとんどすべては「首相になったばかりの頃」で占められていた)何かの機会にピアノの演奏を披露したことがあった。

 私は、テレビ越しにそれを聴いて
「へえ、なかなか達者なものだな」
 と思ったのだが、専門家の見方は違っていた。

 ある知人が、
 「よくもまあ、こんなひどいピアノをわざわざ人前で弾けたものだ」
 と論評していたのをよくおぼえている。

 「でも、まるで弾けないよりはいいじゃないですか」
 と私は彼に言ったものだった。というのも、私の耳で聴いても、宇野さんのピアノがたいした腕前でないことは判定できたものの、でも、それはそれとして、弾きたいのなら好きに弾けばいいじゃないかと、私にはそう思えたからだ。

 「それは違うよオダジマくん」
 と、彼は言った。
 「楽器を弾くということは、その楽器の名誉を引き受けることだ」
 「そういうもんなんですか?」
 「でなくても、どんな楽器であれ、ある程度練習してその楽器のことがわかってくれば、自分が人前で演奏して良い腕前であるのかどうかは、おのずとわかってくる」
 「というと?」
 「だからさ。楽器を弾く人間にとって一番重要なのは、他人が聴いてウマいとかヘタだとかいうことじゃなくて、自分が自分の演奏を正当に評価できているのかどうかだっていうことだよ。そういう意味で、宇野さんのあの得意満面な演奏は、自分の技倆を自覚できていないという意味で、どうにも最悪なわけ」

 つまり、楽器を弾く人間は、なによりもまず自分の力量を評価できなければダメで、言い換えれば、音楽に携わる者にとってなによりも大切なのは、技術の巧拙それ自体よりも、自己評価の確かさだということらしいのだ。なるほど。

 これを、安倍さんの俳句になぞらえて言えば、俳句の出来不出来は、まあ仕方がない。
 素人が拙い俳句を作ったことそのものは、少しも恥ではない。
 ただ、自分の俳句の拙劣さを自覚できていなかった点については、弁護の余地がない。
 それは、日本語話者としても致命的な失点になる、と、そういうことになる。

 今回の引用についても色々と言われている。

  • 自分の情熱を受け容れない薩摩藩への失望を「煙はうすし」と形容した平野国臣の真意を思えば、この歌を引用したことは、当地の人間に対して失礼だ。
  • 「志士」(命を投げ出して国家・民族のために尽くそうという高い志をもつ人)という言葉を、首相が使ってしまうことの不適切さを理解していない。

 といった感じの声が主流だったわけなのだが、それ以外にも、そもそもこういう場所で「薩長」という枠組みを持ち出したことの無神経さを指摘する声がいくつかあがっている。

 私も、
《しかし、いまこの時に「薩長」なんていうホコリだらけの古道具を歴史の物置の中から持ち出してきた意図は何なのだろう。》(こちら

 というツイートで、疑問を投げかけている。
 ついでに

《薩長イズムとは?

  1. すべての人間を敵と味方に分類する心的傾向
  2. 数をたのんで少数者を威圧する行動原理
  3. 身内びいきと利益誘導で仲間を誘引する人事管理手法》

 という皮肉を投げかけさせてもらった(こちら)。
 あらためて言っておくが、私は、薩長という用語や枠組みに、特段に反発を覚えているのではない。
 山口県や鹿児島県の県民の皆さんに含むところがあるのでもない。

 ただ、「薩長」が、歴史的にも政治的にも、無色透明な言葉ではないことは、少なくとも国政にたずさわる人間は自覚しているべきだと思うからこそ、皮肉を言わずにおれなかったということだ。

 「薩長」は、現職の政治家が無思慮に口に出してよい言葉ではない。なんとなれば、それは、いまだに歴史の怨念を呼び覚ます言葉でもあれば、現在に至ってなお党派的な結びつきを多分に残している物騒な概念でもあるからだ。

 そういう意味で、現職の総理大臣が総裁選に臨む演説の中で援用したことは、軽率と言われても仕方のない態度だった。少なくとも私はそう考えている。

 安倍首相ご本人の気持ちの中では、単に、鹿児島に来たから、リップサービスのつもりで「薩摩・長州」の連合を持ち出した、というだけの話なのかもしれない。

 そのこととは別に、昨年あたりから官邸筋がしきりにPRしている「明治維新150年」を念頭に
 「歴史の変わり目」
 「憲法の見直し」
 「明治日本の再評価」
 みたいなことをアピールする意図で、自民党支持者に受けそうな、歴史がかった言葉を並べてみた、ということなのかもしれない。

 でも、狙ってやっているのであれ、単なる無神経が言わせた言葉だったのであれ、こういう場面で「薩長」のような言葉がポロリと出てきてしまう神経の粗雑さに、私は恐ろしさを感じずにおれない。

 2018年は明治維新から数えて150周年にあたる。そしてその翌年の2019年は平成の最後の年であるとともに、新しい元号で迎える最初の年になる。でもって、そのまた翌年の2020年が東京オリンピック・パラリンピックの開催年に当たる。

 このなんとも、あわただしいこの数年のめぐり合わせは、憲法改正を国是とする政党の党首としては、決して逃すことのできないタイミングに見えているはずだ。

 だからこそ、安倍さんは、桜島をバックに明治維新、志士、薩長同盟、日本を取り戻すなどといった言葉の並ぶ演説動画を発信したのだと思う。

 明治からの150年を昭和20年の敗戦を以て2つに分けてみると、前半の70余年は、薩長同盟ならびに大日本帝国憲法が主導した体制が、大戦の敗北によって幕を閉じた時代になる。後半の70余年は、民主主義と日本国憲法によって導かれた、復興と成長と平和のエポックだったと位置づけることができる。

 私は、このタイミングで「薩長」が持ち出されていることに、不吉な号令の響きに似たものを感じ取っている。

 もう少し具体的な言い方をすると、明治150年のうちの前半部分の70数年を「取り戻し」て、再評価し、よみがえらせようとする意図が、これから先の3年ほどの政治のスケジュールの中に組み込まれつつあるということだ。

 このことは、またもう一度、声の大きい男たちが活躍するマッチョな時代がやってくるということでもある。

 相手がテレビドラマなら、スイッチを切るなりチャンネルを変えるなりすれば良い。最悪、自分がテレビのある部屋から外に出れば、あの腹式呼吸の発音から逃れることができる。

 でも、日本中の男たちがリアルな実生活の中でああいう声を出すようになったら、逃げ出す場所は、この島国の中には見つからないはずだ。
 そういう近未来はできれば御免こうむりたい。

 宇野さんのピアノがまずかったのは、ヘタだったからではない。
 自身の演奏への無自覚さが、音楽に携わる人々の誇りや自尊心を傷つけた。そこが問題だった。

 安倍さんの演説に関しても、私は、滑舌の良否やレトリックの巧拙を問題視しているのではない。
 ただ、自分の使っている言葉に自覚的であってほしいと申し上げているだけだ。

 「薩長」が、もし単なる思いつきで持ち出した言葉であったのなら、今からでも遅くはない。ぜひ撤回していただきたい。本気でおっしゃっているのだとしたら、私の方からは、絶句のほかに言葉がみつからない。 

(文・イラスト/小田嶋 隆)

子供時代、大河ドラマ「花神」と、夕方の再放送の「伝七捕物帳」の主人公が
同じ人であることに気づきショックを受けました。よよよいよい!

 小田嶋さんの新刊が久しぶりに出ます。本連載担当編集者も初耳の、抱腹絶倒かつ壮絶なエピソードが語られていて、嬉しいような、悔しいような。以下、版元ミシマ社さんからの紹介です。


 なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
 30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
 と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
 なぜ人は、何かに依存するのか? 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて

 日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
 現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!

(本の紹介はこちらから)

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