10月の7日、ボクシングWBAバンタム級チャンピオンの井上尚弥(いのうえ・なおや)選手が、この階級での初の防衛戦に勝利して、連勝記録を17に伸ばした。
ほんの70秒ほどの短いファイトだった。
この間、井上選手が放った打撃は、たぶん、2つだけだ。
それで、勝負は決してしまった。
井上選手が繰り出した左右のワンツーを顔面に受けたファン・カルロス・パヤノ選手(ドミニカ共和国)は、まっすぐに後ろに倒れて、そのままテンカウントの間、起き上がることができなかった。
いつも不思議に思うのは、ボクシングを見ていると、自問自答をはじめてしまうことだ。
今回の試合の70秒ほどの動画を、私は、たぶん5回ほど再生して見直したのだが、その間、自分のスケジュールのこなし方であるとか、執筆する対象との向き合い方であるとか、あるいはこれまでの人生の中で他人とかかわってきた態度が適切であったのかどうかといった、さまざまなことがらについて、あれこれと高速で思考していた。
どうして人はボクシングを見る時、内省的になるのだろう。
今回は、そのあたりの不思議さについて考えてみようと思っている。
あらためて振り返ってみるに、私はこれまでボクシングを正面から主題とした原稿を書いた記憶がない。
話のついでにひいきのボクサーの名前を出すことはあったし、モハメド・アリが亡くなった時には、彼について記憶していることをいくつかの媒体に書いた。
しかし、ボクシングそのものについては、ついぞ書いていない。
不思議だ。
というのも、ボクシングは、私にとって、これまでの生涯の中で最も真剣に取り組んできた対象だからだ。
小学生だった時代から、ずっとボクシングを見て来た自覚がある。
当時から、テレビで放送された世界戦はほとんど見逃していない。生で見られない場合は、必ず録画して視聴している。録画装置を持っていなかったアリとフォアマンの試合は、高校の授業を休んで観戦した。
WOWOWと契約しているのも、その動機の大部分は、海外のボクシング中継を視聴するためだ。
ほかにも雑誌を購入し、ビデオやレーザーディスクを収集し、関連書籍を読み、ものごころがついて以来のこの50年ほどの間、私は常に最新のボクシング事情に追随してきた。
にもかかわらず、ライターとしての私は、ボクシングについては、ほとんどまったく原稿を書かない。
なぜだろうか。
ロボット工学の世界では、「不気味の谷」という言葉がたびたび使われる。
これは、人に似せて作ったロボットが不気味に感じられる傾向を言い表したフレーズだ。
具体的には、ロボットが人間への類似度を高める過程で、大幅に好感度が下がるポイントを「谷」と呼んでいる。
たとえば、人との類似の度合いが小さいぬいぐるみのような作風のロボットは、われわれにとって、不気味には感じられない。
また、実際の人間と区別がつかないほど精巧に作られているロボットの場合も、それほど不気味には見えない。
ところが、かなりの部分で人間と似ているものの、明らかに生きた人間とは違う特徴を備えているレベルの、「中途半端に似ている」「血の通った感じのしない」「死体のような」「人間からなにかを喪失させた残骸であるみたいに見える」ロボットは、われわれにとって「恐ろしい」「不気味な」「嫌悪感を催させる」対象になる。
これは人形やCGでも同じで、変に人間味のあるマネキン人形や、ポリゴンの精度が中途半端なゲームのキャラクターは、顧客に好かれないのみならず、特に敏感な人々に恐怖感を与える。
理由はよくわからないが、起きている現象は、とにかく、中途半端にリアルなものは、人々に不気味さを感じさせるということだ。
で、思うのだが、原稿を書く人間である私は、「謙虚の谷」とでも呼ぶべきやっかいな現象に苦しめられている気がするのだ。
どういうことなのかというと、あるテーマについて、ある程度以上詳しくなってしまうと、俄然筆が進まなくなる傾向のことだ。
私の場合、ボクシングがたぶんそれに当たる。
ボクシングに限らず、特定の競技の戦術や技術について一定の見識を抱くようになり、内外の主要選手の名前を暗記し、競技の歴史や競技団体の来歴に関してもひと通りの知識を蓄えるようになると、かえってうかつな断言はできなくなることは、実際によくある話だ。
理由は、自分の持っている知識や見識が、いかにも浅薄であることに自分で気づいてしまうからだ。
たしかに、私は一般のテレビ視聴者に比べれば、ボクシングをたくさん見ている。知識のレベルも鑑識眼も、それ相応に高い水準だとは思う。
とはいえ、その私のテレビ由来の知識や情報は、たとえば競技経験を積んだ選手がその肉体のうちに保持し得ている身体感覚から見れば、まさしく児戯に等しいものだ。毎月のようにリングサイドに通って生の試合を見続けているマニアの観戦眼と比べてみても、ほぼ無価値だろう。
てなわけで、ことボクシングについては、私はもう何十年も前から
「なまじに詳しいだけに、きいたふうなことがいえない」
状況に陥っている次第だ。
サッカーについて、ここのところあまり原稿を書かなくなったのも、たぶん似たような事情に関連している。
サッカーは私にとって、40歳近くになってから参入した、新しい競技だ。
だから、観戦しはじめた当初は、あらゆることが新鮮で、驚きに満ちていたものだった。
で、私は、競技観戦初心者がはじめて知るさまざまな驚きや発見をいちいち得意がって原稿に書いているおめでたい書き手だった。
ああいうことは、今になって振り返ってみればだが、知らないからできたことでもあったわけで、多少とも事情がわかってくると、うかつな断言はだんだん振り回しにくくなる。
かくして、私は、トルシエが監督だった時代みたいに、大いばりで日本サッカーを断罪できなくなっている。
見識が低くなったからではない。
自分の見識の低さを自覚できる程度の見識を得るに至ったからだ。
とはいえ、素人の管見にまるで価値がないわけでもない。
日韓ワールドカップ当時に、私が各所に書き飛ばしていたドヤ顔の勘違いは、猥雑な祭りとしてのW杯の空気を撹拌するために、それなりの役割を果たしていたのだと思っている。
ともあれ、ド素人の時代を終えて、半可通になってしまうと、もう大胆な予測や身勝手な分析は、恥ずかしくてできなくなる。これは、なかなかやっかいなことだ。
ボクシングに関しては、私は、ずっと早い時期から半可通だった。
つまり、専門家でこそないものの、「やたらと詳しい素人」であった私は、読者から見れば「不気味の谷」に住んでいるライターだったということだ。今は、本人の立場からすれば、自分のニセモノさ加減がわかる程度の見識を備えてしまっている分、どうしても謙虚に黙らざるを得ない。
井上尚弥選手は、その圧倒的な強さと技術の高さにふさわしい知名度と人気を得ていない。
これは、多くのボクシングファンが異口同音に嘆いている事実でもある。
井上選手は、これまでに私が見てきた日本人選手の中で、掛け値なしのナンバーワンだ。
スピード、防御技術、ハンドスピード、フットワークの華麗さ、反射神経、当て勘、ブロックの固さ、攻撃の多彩さ、ステップインの見事さ……と、どの観点から見ても、比べ得るライバルを思い浮かべることさえできない。それほど卓越している。
なのに、いまひとつ知名度があがらない。
現役の日本人アスリートとしては、テニスの大坂なおみ選手や野球の大谷翔平選手あたりと並べても決して見劣りしない存在だと思うし、今後の伸び代を考えれば、あるいは空前絶後のボクサーとして歴史上の人物になる可能性さえ持っていると思う。
にもかかわらず、タイトルマッチの視聴率は、たとえば、しばらく前に斯界を賑わせていた亀田三兄弟の試合と比べて、その半分にも達していない。
いくらなんでも、この低評価はあり得ない。
井上尚弥選手は、いずれ、この先1年か2年のうちには、大谷翔平選手と同じく、日本では見ることのかなわない選手になるはずだ。
というよりも、既に次の試合あたりからは、日本の民放テレビ局が手を出せない、アメリカに本拠地を置くペイ・パー・ビュー(一試合の観戦ごとに料金を請求するテレビ放送)枠のボクサーになっているのかもしれない。
してみると、このレベルのアスリートは、海外発のニュースで知る方がふさわしいわけで、別の言い方をすれば、井上尚弥選手は、もはや日本のファンにはふさわしくないレベルの存在なのだろう。
現状でも、しかるべきテレビ局のスタッフが、例によって密着ドキュメント風の「煽りV(ブイ=ビデオ)」を作って、その動画にカブせられる感情過多の檄文調ポエムを、素のしゃべりからして既にシャウトしている専門のナレーターが喉にポリープを作りながら叫び散らすスタイルで売り込みにかかれば、おそらく、井上選手の物語を、視聴率30パーセント超えの扇情コンテンツに仕立て上げることはそんなに難しい話ではないはずだ。
が、井上選手本人の将来を考えるなら、本場アメリカのメインストリームの視聴者がスーパースター認定を下すまで、われら日本のボクシングファンは、おとなしく固唾を飲んでいた方が良い。というのも、「本物は海を渡ってやってくる」というのが、黒船以来のうちの国のお約束だからだ。
井上選手の試合を見ながら、私は、20年前に亡くなった自分の父親に、井上選手を見せてあげたかったと思っていた。
父は、ボクシングが大好きで、強いボクサーを見ている時は、本当にうれしそうな顔をする人だった。
その父が井上選手のこの1年ほどの試合を見たら、どんなに喜んだことだろう。
私は、井上選手の父親である井上真吾氏が2015年に書いた『努力は天才に勝る!』という本の書評を書いている。
その書評の一部を以下に引用する。
《-略- とはいえ、父、真吾氏は、世間が想像するようなスパルタの鬼コーチではない。彼は息子に練習を強要しない。技術を押し付けることもしない。どちらかといえば、父親自身のボクシングオタクとしての情熱に、息子たちが巻き込まれた形に見える。本書の読後感の気持ちの良さはそこにある。仕事の忙しさから志半ばでプロボクサーへの道を断念した父親が、いつしか二人の息子との練習に生きがいを見出して行く姿に、少しも押し付けがましさが無い。読んでいるこっちまで楽しくなる。つまり、天才とは、楽しく努力できる人間を指す言葉だったのであろう。》
もうひとつ思い出した。
ずっと昔、父と子と天才の物語を主題に、「コンプティーク」という雑誌に以下のような原稿を書いた。これは、元原稿が手元に残っていないので、記憶から再現する。
「天才は一人の人間の人生の中では完成しない。本物の天才が誕生するためには、二つの世代にまたがる時間が必要だ。以下に実例を示す。ベートーベンの親父は二流の音楽家だった。ピカソの親父は売れない絵描きだった。わかるだろうか。父親の失意と挫折があってこそ、息子の代に天才が結実するのである。ちなみに、オレの父親は半端な酒飲みだったけどな」
この半端なオチは、後に私自身が本物の飲んだくれになったことで、笑えないジョークになった。
私は何を言っているのだろう。
ボクシングはそれを愛する人間に支離滅裂な原稿を書かせる。
井上尚弥選手は本物のボクサーだ。
いずれ世界一のボクサーになることだろう。
私は、心から応援している。
みなさんもぜひ応援してください。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
笑えないジョークのオチは、こちらをどうぞ。
なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
なぜ人は、何かに依存するのか?
<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて
日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!
(本の紹介はこちらから)
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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。