この火曜日(3月27日)におこなわれた、佐川宣寿・前国税庁長官の証人喚問は、いろいろな意味で興味深いコンテンツだった。

 私は、ほかのところの原稿を書きながらだが、参院でのテレビ中継を、アタマから最後まで視聴した。午後にはいってからの衆議院での喚問は、仕事に身がはいった結果、きちんと追い切れていないのだが、それでもデスクの前のテレビをつけっぱなしにしておくことだけはしておいた。

 全体を通しての感想は、最初に述べた通り、テレビ放送のコンテンツとして秀逸だったということだ。

 面白くなかったら、私のような飽きっぽい人間がこんなに長時間付き合うはずもなかったわけで、つまるところ、あれは近来稀な見世物だったということだ。

 もっとも、あの喚問が真相の究明に資するのかどうかはわからない。
 というよりも、NHKが公開している書き起こし(こちら)を見る限り、今回の国会でのやりとりから新たに明らかになった事実はほとんどない。その意味では、証人喚問は無意味なパフォーマンスだったのだろう。

 ただ、私は少なくともあの番組を楽しんで視聴した。
 これは重要なポイントだ。

 説明がむずかしいのだが、つまり、あの喚問は、真相究明のための証言として評価する限りにおいてはグダグダの田舎芝居に過ぎなかったわけなのが、その一方で、エンターテインメント目的の軽演劇として、また、あるタイプのプロパガンダ資料として、さらには、われわれの社会に底流する不条理を視覚化した極めて批評的なドキュメンタリー映像として評価してみると、実に示唆するところの多い不規則ノイズ満載の制作物だったということだ。

 尋問を通して明らかになった「事実」は、なるほどゼロだった。

 しかしながら、あの日、国会を舞台に撮影された映像から視聴者が感じ取った「心象」や、受けとめた「気分」や、呼び覚まされた「感情」の総量はバカにならない。われわれは、あのナマ動画から実に多大な「感想」を得ている。

 そして、おそらく、これから先の政局を動かすのは、「事実」ではなく「感想」なのだ。そのことを思えば、あの喚問が実施されテレビ放映されたことの意味は、与野党双方にとって、また、わが国の政治の近未来にとって、重大だったと申し上げなければならない。

 政局は、これからしばらく、「何かが明らかになる」ことによってではなく、「何ひとつ明らかになっていない」ことへの苛立ちや諦念がもたらす複雑な波及効果によって動くことになることだろう。

 われわれは、巨大な手間と労力と時間を傾けながら憲政史上前例のない不毛な対話を同時視聴した。で、この間に蓄積した壮大な徒労感は、この先、さまざまな局面で噴出せずにはおかない。どうなるのかはわからないが、何かが起こるであろうことは確かだ。

 ツイッターのタイムラインを眺めていて印象深かったのは、佐川氏の受け答えへの評価が、きっぱりと両極端に分かれていたことだ。

 この事実は、対話の内容そのものにはほとんどまったく意味がなかったあの日の国会での対話を、視聴者の側が、それぞれ、自分の予断に沿って「解釈」していたことを示唆している。

 政権のやり方に反対している立場の人々は、あの日のやりとりから、佐川氏が何かを隠そうとしていること、政権側が特定のシナリオに沿って事実の隠蔽ないしは歪曲をはかろうとしていること、そして彼らが隠そうとしている事実の背後には総理夫妻の「関与」と、その記録を組織的に改竄するための「陰謀」が立ちはだかっているはずだという「印象」を得て、自分たちがずっと以前から抱いていた予断への確信をいよいよ深めつつある。

 その彼らの反対側には、まったく逆の受けとめ方をしている人たちがいる。政権を支持する立場の人々は、野党側による揚げ足取りが結局のところ徒労に終わりつつあることは誰の目にも明らかだと考えている。彼らは、アベノセイダーズが瑣末な矛盾点を針小棒大にあげつらい、さも世紀の大疑獄であるかのように印象付けようとしているパヨク芝居の滑稽さは、いよいよ疾病の領域に突入してきたなといった感じの認識を共有していたりする。

 両派とも、あの不毛かつ不快なグダグダのやりとりから、自分たちがあらかじめ抱いていた見方の正しさを証明する印象を読み取っていたことになる。結局、あの種の抽象的な言葉の行ったり来たりは、受け手の側の耳の傾けようでどんなふうにでも聞こえるということだ。

 そんなわけなので、当稿では、森友事件の「真相」を云々する議論には深入りしない。

 「真相」に関して自分なりの予断を抱いている人々は、その「真相」を容易には手離そうとしないはずだし、そもそも「事件」が存在しない以上「真相」なんてものははじめから存在するはずがないというふうに考えている人々は、何が出て来ようが、「真相」に目を向けようとはしないのであって、結局のところ、この議論の結末は、何年か後に、様々な利害関係が風化して、党派的な人々が死滅してからでないと落着しない気がしているからだ。

 ここでは、「事件」の「真相」とは切り離して、佐川宣寿氏のパフォーマンスを(もちろん、自分の予断による)印象ベースで評価してみるつもりでいる。彼の言葉の意味や内容の評価ではない。論理的な帰結の話をしたいのでもない。

 言葉の内容はゼロだった。この点ははっきりしている。そして、彼の言葉が無内容だった理由については、繰り返しになるが、政権不支持側の人々は、森友事件の当事者ならびに政権の中枢に連なる人間たちが事実を隠蔽せんとしていたからだと言い張っているし、政権支持側の人々は、佐川氏の答弁が無内容になったのは、そもそも野党側の質問自体が事実とは無縁な空疎な演説であったことの反映であるというふうに決めつけている。

 しかし私が問題にしようと考えているのは、あのどうにも無内容で薄っぺらな定型句の繰り返しが、聴き手であるわれわれにどんな印象をもたらしているのかという点だ。

 まず触れておかなければならないのは、「敬語」の問題だ。
 佐川氏があの日のやり取りの中で何度も繰り返していた

 「その点につきましては、さきほどから何度も繰り返し申し上げておりますとおり、まさに刑事訴追のおそれがあるということでございますので、私の方からの答弁は差し控えさせていただきたいというふうに思っておるのでございます」

 式の言い回しからわたくしども平均的な日本人が受けとめるのは、

 「過剰な敬語を使う人間のうさんくささ」
 「厳重な丁寧語の壁の向こう側に隠蔽されているもののけたくその悪さ」
 「させていただく敬語の気持ちの悪さ」
 「敬語の鎧で自らを防衛せんとしている人間の内実の脆弱さ」

 といったほどのことだ。
 ついでに申せば「お答え」「お示し」「ご理解をしてございます」あたりの耳慣れない言い回しを聞かされるに至っては、  
 「バカにしてんのか?」
と、気色ばむ向きも少なくないはずだ。

 「木で鼻をくくったような」
 という定型句が示唆するところそのままのあの種の答弁は、最終的には、国会という議論の場の存在意義をまるごと疑わしめることになる。その意味で非常に破壊的な言葉でもある。

 この世界は「売り言葉に買い言葉」式の単純な呼応関係だけでできあがっているわけではない。反対側には「ざあますにべらんめえ」という感じの反作用があって、少なくとも私のような場末生まれの人間は、過剰な敬語を浴びせられるとかえって粗雑な返答で報いたくなる傾きを持っている。ともあれ、佐川氏の敬語の過剰さは、敬語という用語法そのものへの嫌悪感を掻き立てかねない水準に到達していた。このことは強調しておきたい。

 敬語は、基本的には対面する他者への敬意を表現する用語法だ。
 が、そうした敬意を運ぶ船としての一面とは別に、敬語は、個人が社会から身を守るための防御壁としての機能や、本音を隠蔽するカーテンの役割を担ってもいる。

 キャリア官僚のような立場の人間が振り回すケースでは
 「あなたと私は対等の人間ではない」
ということを先方に思い知らせるための攻撃的なツールにもなる。

 いや、佐川前長官が、国民にケンカを売っていたと言いたいのではない。

 私は、敬語を使っている側の人間が、攻撃的な意図でそれを用いていなくても、敬語を聞かされる側の人間が、その言葉の堅固な様子から、「冷たさ」や「隔絶の意思の表明」や「人として触れ合うことの拒絶」や「形式の中に閉じこもろうとする決意」を感じ取るのは大いにあり得ることだというお話をしている。その意味で、少なくとも私個人は、あの日の佐川前国税局長官の過剰な敬語の背後に、彼が必死で防衛しようとしているものの正体を忖度せずにはいられなかった。

 「どうしてこの人は、これほどまでにロボットライクに振る舞っているのだろうか」
 「人間らしい言葉を使うと、自分の中の何かが決壊して本音が漏れ出てしまうかもしれないから、それでこの人はスタートレックに出てくるバルカン人のスポック氏みたいなしゃべり方を続行しているのであろうか」
 「要するにこの人は、あらかじめ準備したシナリオから絶対に外に出ないことを自らに言い聞かせるために、この異様に格式張った日本語でしゃべることを自らに課しているのだな」

 思うに、彼は、自分の言葉から「トーン」や「表情」や、「ニュアンス」を消し去ることを意図していたわけで、だからこそ、ああいうふうな人工言語で語る必要を感じていたはずなのだ。

 面白かったのは、共産党や民進党の議員さんからの辛辣で高圧的でともすると失礼にさえ聞こえる厳しい質問に対しては、あくまでも冷静に定型的に無表情を貫いて回答していた佐川さんが、唯一動揺したように見えたのが、優しい口調で投げかけられた無所属クラブの薬師寺みちよ議員の質問に触れた時だったことだ。

 佐川さんが動揺していたように見えたというのは、私がテレビ画面を見て感じた印象にすぎない。
 もしかすると、彼はまるで動揺していたわけではなくて、単に、質問を意外に感じて、目を見開くような表情をしたということに過ぎなかったのかもしれない。

 でも、私の目には、その時、佐川氏が一瞬涙ぐんでいるように見えた。そして、そんな自分をおさえこむべく、あえて目を見開くようにして薬師寺議員を見返すことで自分の中の感情に対処しているように見えた。

 まあ、この見方は、私が自分の側の思い込みを投影しているだけの話であるかもしれないので、断定はしない。ただ、この時の佐川さんの答え方のトーンが、多少それまでと違っていたことは確かだと思う。

 薬師寺議員は、こう尋ねている。

 「ありがとうございます。最後に私、これで参議院の最後でございます。今回のこの証人喚問は、日本全国の公務員の皆様方も注目してらっしゃいます」
 「まさに公務員の皆様方の信頼を失墜させるに値するものだということでございますので、しっかりとそのメッセージを発信していただきたいんですけれども、どのように今お考えになってらっしゃいますか」

 意外な方向からの問いかけである。
 これに対して、佐川氏は
 「今ご指摘をいただきましたように、これで全国の公務員の方の信頼をおとしめるということがあったとすれば、本当に申し訳ないことだと思っております。深くおわび申し上げます」

 と言って、深々とアタマを下げている。

 おそらくだが、佐川氏は、文書改竄の時期であるとか、国有地値引きの経緯であるとかいった、センシティブな事柄については、一切証言を拒絶するということではじめから方針を固めていた。

 その意味で、佐川氏にとっては、共産党や民進党の議員が矢継ぎ早に投げかけてきた厳しい質問は、辛辣かつ詰問調であるがゆえに、かえって対処しやすかったはずだ。

 というのも、想定済みの攻撃に対してはこちらも想定通りの回答を投げ返せば良いだけの話だからだ。

 ところが、薬師寺議員の教え諭すような口調の質問(←ツイッター上では、「みちよママ!」「ママ感すごい」という呼びかけが多数寄せられていた)には、思わず心が動いてしまった。

 しかも、質問は、この日の焦点となっていた事件の真相や首相夫妻の関与とは一歩離れたところにあるお話で、「全国の公務員に向けてメッセージを」という、なんだか叱られている小学生に語りかけるみたいな、奇妙な調子のお願いだった。

 これには、佐川氏も思わず、自らを顧みずにはおれなかった。

 「ああ、そうだ。いま、オレがやっているこの仕事を、日本中の公務員が見ている。きっと若い連中もオレを見ている。オレにも若い時代があり、その若かったオレには、若い時代の理想があった。公務員試験の勉強に励んでいた当時、オレは純粋に公に尽くすことを願っていた。ああそれなのにいまのオレは」

 と思ったものなのかどうか、とにかく、2時間ほどの参院での答弁の間、毛ほども乱れなかった佐川元長官の表情は、この時はじめて、なんだか少し苦しい何かを飲み込もうとしている人間の表情に見えたのである。

 敬語の鎧の隙間からちらりとでもなにか心情らしきものが覗かないか。そう期待して中継を見ていた視聴者には、グッとくるポイントだ。なんとドラマチックではないか。

 もちろん、私がここで並べ立てたお話は、テレビ画面を見ただけの私の個人的な印象にすぎない。
 もっとはっきり言ってしまえば私の作り話だ。真相は別のところにある。それはよくわかっている。

 でも、最初に言ったように、世界を動かしているのは、真相ではない。われわれの心を動かすのは印象であり憶測であり予断であり不安だ。

 いずれにせよ、真相と無縁ではないものの、同じものではあり得ない様々な感情が、多くの人々のものの考え方を支配している。
 そして、そのわれわれが事態の外形を眺めて抱く直感は、多くの場合、案外鋭いところを突いているものなのだと、私はそう考えている。  

(文・イラスト/小田嶋 隆)

敬語は理不尽なナニモノかへの鎧。
始末書を書く度に思います。

 小田嶋さんの新刊が久しぶりに出ます。本連載担当編集者も初耳の、抱腹絶倒かつ壮絶なエピソードが語られていて、嬉しいような、悔しいような。以下、版元ミシマ社さんからの紹介です。


 なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
 30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
 と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
 なぜ人は、何かに依存するのか? 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて

 日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
 現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!

(本の紹介はこちらから)

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