東日本大震災が発生から7年が経過した。石原慎太郎氏は当時、東京都知事として東京消防庁ハイパーレスキュー隊の派遣を指示したり、震災がれきの受け入れをいち早く表明したりするなど、被災地の復旧に大きく貢献した。一方で、いわゆる「天罰発言」で批判も浴びた。当時の自分の言動を、石原氏本人は今、どう総括するのか。自宅を訪ねた。

(聞き手 坂田亮太郎)

震災の直後、石原都知事は東京消防庁のハイパーレスキュー隊を現場に派遣しました。

石原:きっかけは、当時の菅直人総理の補佐官を務めていた阿久津(幸彦氏、現立憲民主党衆院議員)くんからの電話だった。彼は、私が代議士をしていた時代に公設秘書を長く務めていたこともある。その彼から、「福島第一原発の原子炉を冷却するために、一刻も早く注水しなければならない。(東京都の)警視庁には強力な放水機能を持つ車両があるから、動員してほしい」と要請があった。

<span class="fontBold">石原慎太郎(いしはら・しんたろう)氏</span><br /> 1932年兵庫県神戸市生まれ。52年一橋大学入学、在学中に「太陽の季節」で芥川賞を受賞。68年参議院全国区に出馬しトップ当選。72年参議院議員を辞職。衆議院選挙に旧東京2区から無所属で出馬して当選。76年環境庁長官に就任。87年竹下内閣で運輸大臣に就任。95年議員勤続25年の表彰を受けたその日に辞職を表明。同年、芥川賞選考委員になる。<br /> 99年東京都知事選挙に出馬し初当選。2003年史上最高の得票率で再選。07年三選。11年四選。12年に都知事を辞職。<br /> 12年「日本維新の会」代表に就任し、衆議院議員とし17年ぶりに国政に復帰。14年「次世代の党」最高顧問に就任。14年政治家を引退(写真:村田 和聡)
石原慎太郎(いしはら・しんたろう)氏
1932年兵庫県神戸市生まれ。52年一橋大学入学、在学中に「太陽の季節」で芥川賞を受賞。68年参議院全国区に出馬しトップ当選。72年参議院議員を辞職。衆議院選挙に旧東京2区から無所属で出馬して当選。76年環境庁長官に就任。87年竹下内閣で運輸大臣に就任。95年議員勤続25年の表彰を受けたその日に辞職を表明。同年、芥川賞選考委員になる。
99年東京都知事選挙に出馬し初当選。2003年史上最高の得票率で再選。07年三選。11年四選。12年に都知事を辞職。
12年「日本維新の会」代表に就任し、衆議院議員とし17年ぶりに国政に復帰。14年「次世代の党」最高顧問に就任。14年政治家を引退(写真:村田 和聡)

 それを聞いて怪訝に思ったね。確かに、警視庁は強力な放水機能を持つ放水車を持っている。でもそれは、暴徒を蹴散らすために水を水平に飛ばすようになっている。そのような車両が、原子炉を冷却するような任務に向いているのか、甚だ疑わしい。それで「冷静に判断してほしい」とたしなめたんだ。

 それを聞いて官邸も考えたんでしょう。その後、高層ビルの火災の際に使うような、高いところに放水できる能力を持つ消防車を動員してほしい、と再度要請された。

 そう言われて、私は重い決断をしなければならなかった。

 当時、現地の状況は全く分からない状況だった。壊滅した原子炉から、どれほど多量の放射能が漏れているかも分からない。そんな危険な現場に、レスキュー隊を派遣したら、死者がでるかもしれない。若い隊員が被爆したら、その人の子孫にまで影響が出てしまうかもしれない。しかし、自分が行くわけにもいかない。過酷な現場できちんと任務を遂行するためには、訓練された隊員に任せるしかない。とにかく、戦地に赴く兵隊さんを送り出すような心境だった。

苦渋の決断だった、と。

石原:原発事故は東京だけの問題じゃない。日本全体の問題だった。東京は日本の「要」であるし、東京にしかない能力も備えている。

 実は、私のところに様々な情報が入ってきていた。アメリカ政府が東京の大使館員に関東から退避するよう命令を出していたことも(報道が出る前から)耳に入っていた。福島第一原発は、容易ならぬ事態に陥っていた。だからこそ都知事として、私が逃げ出すわけにはいかないと覚悟を決めた。

任務を終えて東京に戻ってきた隊員に対して、石原さんが「日本国民を代表して感謝する」と深々と頭を下げたシーンが印象に残っています。

石原都知事(当時)は放水作業を行ったレスキュー隊員全員に対して「国運を左右する戦いに生命を賭して頑張っていただいた。大惨事になる可能性が軽減され、国民を代表してお礼申し上げたい」と語った。

石原:戦争や大規模災害などが起きた時、トップに立つ人間は部下を危険な場所に送り込まなければならない。極論を言えば、「お国のために、お前、死んできてくれ」と言わなくちゃいけないんだから……。

言葉が詰まって……、見ているこちらが泣きそうになりました。

石原:……。

当時のお気持ちは?

石原:……。

 公務員というのは、日頃からいろいろと文句を言われたりすることがある。でも、警察官とか消防官とか命を賭して戦ってくれる人、日本国を守ってくれている人に対して、最低限の尊厳がきちんと守られていないんじゃないか、と思いますよ。

 それは公務員だけじゃなくて、自衛隊の隊員に対してもそう。民間人だって、国のために命を賭けて働いてくれている人はいる。

 例えば湾岸戦争の頃、ホルムズ海峡に機雷が仕掛けられて我が国のシーレーンが重大な危機に面していた。そんな物騒なときでも、中東から油を運んできてくれた船員さんたちがいる。彼らが命からがらの思いで油を運んでくれたからこそ、日本は生き延びることができた。

 私は当時、運輸大臣を務めていたので、国会でこう言う話をした。戦争のころ、「今日も学校に行けるのはお国のために戦った兵隊さんのおかげです」という歌があったでしょう。同じように、「今日も電気が灯るのもお国のために戦っている船員さんのおかげです」と。

 それで竹下(登氏、元首相)さんに、「船員たちを呼んで、総理大臣であるあなたが慰労した方がいい」と進言したんだ。そしたら竹下さんはすぐに動いてくれて、官邸に海運会社の人たちを呼んで、その労を労った。竹下さんも喜んでくれて、「誰も思い付かないことを言ってくれてありがとう」と感謝されたよ。

隊員に「処分する」と恫喝した海江田氏

現場で汗を流している人間からすれば、自分がやっていることをトップがきちんと評価してくれているかどうか、それは気持ちの上でとても大事なことです。その意味では、当時の菅直人内閣は問題が多いと言わざるを得ません。

石原:今、思い返しても腹が立つ。

 そもそも官邸の要請で、東京消防庁から消防車と特殊部隊を現地に送り込んだ。ところが派遣した部隊から連絡があって、政府から指定された場所に待っていたけど、全然迎えがやってこない。それで一旦、東京に引き返した。

 それで阿久津くんに「隊員は皆、家族と水盃(みずさかづき)まで交わして出掛けていったのだから、きちんとした体制を整えてくれ」と要請したんだ。そしたら「すみませんでした、手違いでした」というから、翌日、出直した。

 今度は現地の案内係と連絡が取れて、特殊部隊は現場に到着することはできた。しかし、周囲には瓦礫がたくさんあって、なかなか放水できない。ベテランの隊員たちが四苦八苦して、なんとかホースを繋いでいるところに、現地の指揮官に官邸から「早く放水を開始しないと、処分するぞ」と警告が出された。

 こんな理不尽なことがあるか。自分たちは現地に行かず、お前らの手違いで人を待たせておいて、命がけの覚悟で現地に赴いた隊員に「命令を聞かなければ処分する」などと高圧的に命令するなど言語道断だ。

 頭に来たから、菅総理に会わせろと官邸に連絡した。そしたら総理は忙しいと断ってきたので、「それなら俺は官邸に行って勝手に抗議の記者会見を開く」と言ったら、側近が慌てて、今度は総理に会わせるという。それで菅総理に直接、「現場で命を賭けている隊員を処分するとは、そういう失礼なものの言い方はだめだ。発言した人間にちゃんと責任を取らせろ」と言った。そしたら、結局、海江田(万里氏、当時経済産業大臣)が後で謝ったんだそうだ。

 そういう経緯もあり、その後の菅内閣の右往左往ぶりを見ると、無力だったと思うね。

震災当時は民主党(現民進党)政権だったわけですが、自民党政権だったらそこまでひどいことはなかったんでしょうか。

石原:もうちょっと、管理能力とかあったんじゃないかと思いますね。

誰かがリスクを負わないといけない

東日本大震災の後、瓦礫の処理でも東京都は大きな役割を果たしました。被災地からの瓦礫を受け入れることに対して、一部の都民からは反対の声も上がりました。それでも敢えて、東京都がいち早く受け入れを表明したのはなぜですか。

石原:それはやっぱり、誰かがリスクを負って処理しなきゃいけないから。東京だって空き地がないわけでもない。何も放射能で汚染された瓦礫を都内まで持ってきて燃やすというわけじゃない。きちんと(放射能を)測って、問題のない瓦礫を処理するスキームをきちんと整えてから行動している。東京都はそんなバカじゃない。

2011年11月5日の都知事定例記者会見の様子。「被災地からの瓦礫を受け入れないでほしいという要望が3000件以上、都庁に寄せられたことに対して石原都知事は反論した

石原:反対する人にはホント聞いてみたいよ、「ではどうするんですか?」とね。

 あれだけ広域の範囲が被災して、何千万トンという瓦礫やゴミが発生した。それを速やかに取り除かなければ、東北地方の復旧なんてできっこない。避難生活を送っている被災地の人たちに、ずっとゴミの中で暮らせって言うんですか。だったら、力がある東京都が動かんといかんでしょう。

 だから反対する人がいたら「黙れと言え」と部下に指示したんだ。東京都は瓦礫の処理を闇雲にやっているんじゃなくて、きちんと科学的にやっている。被災地のために、日本のために、ゴミ処理でも高い能力を持つ東京都が先頭に立つ。それは都知事である私の責任であるし、それこそが政治家の役目だよ。

 案の定、「石原は傲慢だ」と批判を浴びたが、一切構わずに仕事を進めた。結局、4年間で東京都は16万7891トンの災害廃棄物を処理した。副次的な効果もあった。災害が起きた際、自治体や民間事業者が協力して災害廃棄物を効率的に処理する仕組みが出来上がった。それは、(2013年に起きた)伊豆大島の土砂災害の処理でも生かされている。

批判を受けてもやるべきことをやるのが政治家だ、と。

石原:この際だから言わせてもらう。いつから日本人は、こんな利己的な国民になったのかね。

(写真:村田 和聡)
(写真:村田 和聡)

 震災の直後、被災地を日本全国で支え合おうという機運が高まり、「絆」なんて言葉が流行したよな。でも、たかだか瓦礫ひとつ処理するだけで、なぜ助け合うことができないんだ。「ウチには小さな子どもがいる」と何度も何度も反対の電話をかけてくる女性がいた。その人は、被災地にだって子どもがいる、という至極当然のことがなぜ分からないのか。

 ここまで来ると、他人のことを、目の前で困っている人の痛みを、おもんばかることができるかどうか、想像力の問題ですよ。皆が皆、自分のことばかり、自分さえ良ければそれでいいと考えている。そんな国は衰退に向かっているとしか言いようがない。「絆」なんて言葉が白々しく聞こえるよ。

我欲が政治の体たらくを招く一因

震災の直後に、いわゆる「天罰」と発言されたのも、自分さえ良ければいいという日本人が増えてきたことに対する警鐘ですか。

石原都知事が『津波をうまく利用して、我欲をうまく洗い流す必要がある。積年に溜まった日本人の心の垢を。これはやっぱり天罰だと思う』と発言したことに対し、不謹慎だと批判が起きた

石原:あれもメディアに随分とねじ曲げて報道された。私は「被災された方には非常に無残な言葉に聞こえるかもしれませんが…」と言葉を添えて言ったのに、「石原」「天罰」という部分だけがクローズアップされた。

 私はね、日本全体が弛緩してきたので1つの戒めだという意味で言ったんだ。私だけじゃないんですよ。関東大震災のときも新渡戸稲造とか、当時の代表的な知識人が、「これは天罰だ」と言っているんですよ。大正デモクラシーでみんなが浮かれて、ふわふわしているときに関東大震災が起きた。そういう意味で僕は言ったんですよ。

石原:今だって、例えば「減税」をアピールすれば簡単に票が集まる風潮がある。国全体にどれだけ借金があるのか、まともな国民だったら皆が知っている。それでも、「減税します」という政治家がいると歓迎してしまう。私はね、そういう国民の我欲(自分だけの利益を得ようとする欲望)が、今の政治の体たらくを招いている一因だと思っている。

 だからこそ、たくさんの同胞が亡くなったこの大震災を期に、日本という国を立て直さなくちゃいけない。そうしなかったら犠牲者だって浮かばれない、と思って発言した。その気持ちは、今もまったく変わらない。

日本は地震から逃れられない宿命

「3・11」の後も、熊本地震など大きな地震が相次いでいます。

石原:日本列島というのは世界最大の火山脈の上にある。だから日本中に震源があるようなものだ。いつ大きな地震が来るのか分からない。日本列島の置かれた場所は、地震とは無縁ではいられない。日本はそういう宿命を負っている、 歴史的にね。だから日本という国は地震がいつでも起きるという前提で物事を考えなくちゃいけない。

 でも悪いことばかりではない。地震が頻繁に起きるからこそ、「もののあわれ」のような日本人独特なメンタリティーというか、情念を作ってきた。それが日本の芸術を生み、日本人にしかない感性を育んできた。「もののあはれ」なんていう概念を持っているのは、世界でも日本人くらいじゃないですか。

「人間は猿に戻るのか」

震災を機に、反原発の機運が高まりました。

石原:そもそも日本人は、放射能にビクビクし過ぎていると感じるね。まったく今は、原発反対の声が随分とかまびすしい。吉本隆明さんも言っていたけど、今は日本全体が放射能に恐れおののいている。

 そんな状況ではまともな議論ができっこない。頭を冷やしてから、冷静に判断すべきだと思う。「人間は猿に戻るのか」と自問自答しなければならない。

原子力技術は必要だ、と。

石原:人間が開発した技術だから、人間がそれを抑制できないわけはないと思うのでね。確かに原子力というのは非常に強力な技術だ。だけど、「人間が神の領域を侵した」とは、僕は思わない。自分で開発したことは自分で改良できる。そうでなかったら人間、将来信じられないじゃないですか。

 小泉(純一郎氏、元首相)さんみたいな男は、フィンランドの核廃棄物の最終処分場を見に行ってから、急に反原発になっちゃった。粗忽だと思うね。

テクノロジーは人類がきちんと制御できるということですか。

石原:僕は文明論を持っているからね。1人のインテリゲンチアとして、自分のインテリジェンスを信じなかったら発想もできないし、物事の判断もできないじゃないですか。

 人間の歴史を振り返ってみても、人間の進歩というのは、まずサルから人間は分化した。なぜ分化できたかと言ったら、サルが使えなかった火を人間が使い始めたから。火を使っているうちに石の中から銅を取り出せるようになり、やがて鉄器時代が来た。

 鉄を手にした人間は航海技術を飛躍的に進化させた。それとグーテンベルクの印刷術。それから磁石を使って大西洋、インド洋を渡って植民地を開拓する時代となった。結局、人間は新しい技術を手にすることで、新しい時代を切り拓いてきた。それが人類の歴史の原点でしょう。そこに、原子力も入ってくる。

 やっぱり政治家に必要なことは自らの歴史観だよ。それがなければ発想できない。

「小池劇場」で血祭りに上げられた

作家という言葉を操る仕事をする石原さんなら、メディアともっと、うまく付き合うこともできたんじゃないですか。

石原:そんな器用な人間じゃねえな、俺は。

 メディアには随分とひどい目に遭わされたよ。小池(百合子氏、現都知事)の人気が高まり、豊洲の問題で俺は、血祭りに上げられた。ワイドショーでは、「善」の小池に「悪」の石原という構図が最初から決まっていた。当時は、家の前に記者やカメラマンがたくさんいて、散歩に行くこともできなかった。あの時はストレスが溜まって、本当に参ったよ。

 産経(新聞)なんかも、小池に媚びたせいかどうか知らないけど、人気のあった「日本よ」というコラムを当面の間、休止してくれと言ってきた。君がそうなら結構だ、書かないと止めちゃった。今でも、訳が分からないな。

あっという間に「小池ブーム」も去りました。

石原:今の都の役人は、可哀想だ。「取り巻き」が知事の回りを固めていて、都の職員から見ればさながら「GHQ(占領軍)」のように映るだろうよ。

 現場を知っているのも、効果的な政策が何であるかも、全部知っているのが役人だ。その役人が知事とまともにコミュニケーションできない状況が続いている。それで「ああしろ、こうしろ」と指示だけが降ってくるんだから、たまったもんじゃない。

 政治は一種の独裁だよ。それでも、役人の言うことを聞いて、「君の言う通りだ。それで行こう」と判断することが政治家の器量だ。

(写真:村田 和聡)
(写真:村田 和聡)

 都知事を務めた14年間で、私もずいぶんといろいろなことをやった。ディーゼル車への排ガス規制、東京マラソンの実施、臨海副都心の再開発、そして大手銀行に対する外形標準課税など、どれも役人がアイディアを持っていたもの。都の財政にバランスシートの考え方を導入したのも、中地(宏氏、当時の日本公認会計士協会会長)さんに協力してもらった。周囲の知恵をうまく吸い上げて、それを形にするのが政治家の役目だ。

都知事時代を振り返ると…

石原:面白かったよ。やることやったしね。国会議員なんかよりも、よっぽど手応えがある。仮に閣僚になったって任期は1年か2年でしょう。すぐ辞めて、次に代わる。総理大臣だってそう。竹下さんが昔、しみじみと言っていたな。「歌手3年、総理2年の使い捨て」って。

 歌手は1曲当てると3年は食っていける。売れなくなってもキャバレーで歌えるから3年は食いつないでいける。それに比べて総理は3年どころか2年でくるくる代わる。竹下さんという人も一種の天才だったな。

今は毎日、執筆活動をされているのですか。

石原:そうですよ。

田中角栄氏を描いた『天才』(幻冬舎、2016年)はベストセラーになりました。

石原:角さんも本当に天才だったな。俺もいささか才能はあるけど、天才まではいかないから。

石原さんの業績も、もしかしたら死後にきちんと評価されるんじゃないですか。

石原:どうかな……。世の中って変なもので、ちゃんとした作家が政治家をやるのは好まないんですよ。政治家がちゃんとした小説を書くのも好まない。

 僕なんかもずいぶんいい本も書いたと自分で思うけどね。『遭難者』(新潮社、1992年)って、これは本当に自分の作品集の中で一番、粒のそろった作品集だけど、新聞などは全然、書評に取り上げてくれなかった。

 当時は小沢(一郎氏、自由党代表)や金丸(信氏、元副総理)さんの金権問題で自民党が指弾の対象になっていた。そんなときに、自民党の現職の国会議員がどんないい作品を書いたって、まともに評価してもらえない。そういう点で俺は、自分の文学に、申し訳ないと思うね。

お元気そうでよかったです。

石原:いや、元気じゃないの。もうじき死にます。もう俺、85歳だよ……。

いやいや、まだお元気ですよ。

石原:もう俺のことなんか、みんな忘れていく。この間、うちの大学の同窓会があって、仲の良かった男が娘を連れてきたんだ。その娘さんが、「石原さん、裕次郎さんって石原さんのお父さんですか」って聞かれて、笑っちゃった。

弟だよと(笑)。

石原:ああ……、本当に、時が過ぎていくんだな。だって若い連中は美空ひばりだって知らないだろう? 三島由紀夫なんて誰も覚えてないもんな……。

 文壇でもさ、川端康成とか小林秀雄さんみたいな人でも、存在感が薄れている。もうみんな本も読まなくなったしね。

本当にそうですね。売れるのは軽薄な本ばかりで……。

石原:ご苦労さまでした。

どうぞお元気で。

石原:もうじき死にます。

そんなことおっしゃらないでください。

石原:どうも、ありがとう。

(写真:村田 和聡)
(写真:村田 和聡)

3月11日で東日本大震災から7年を迎えます。被災地の復興が進む一方、関心や支援の熱が冷めたという話もあちこちから聞こえてきます。記憶の風化が進みつつある今だからこそ、大震災の発生したあの時、そして被災地の今について、考えてみる必要があるのではないでしょうか。

(「3.11から7年…」記事一覧はこちらから)

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