“セクハラ事件”に一定の理解を示す人が相当数いたことは驚きだ
“セクハラ事件”に一定の理解を示す人が相当数いたことは驚きだ

 今回は「演じざるをえない人」というテーマで、アレコレ考えてみる。

 今日はどんな問題が起きているのだろうか?
 またもや「マジか??」といった信じがたい対応を、頭のいい人たちは繰り広げているのだろうか?

 ええそうです。先週、フツーでは考えられないような対応と反応が繰り返された、財務省の福田淳一前事務次官の“セクハラ事件”である。
 この件に関しては山のような意見が語り尽くされているので、もはやネタにするのも憚(はばか)られる。と同時に、本件に女である私が意見をちょっとでも述べた途端、「感情的」「フェミニスト」「女もセクハラする」と戦闘態勢に入る人たちが想像以上に多く、少々うんざりしている。

 だが、これまで散々セクハラ問題を取り上げてきた身としては、書かざるをえない。

 といっても福田氏のセクハラ行為や、責任の取り方うんぬんに今さら言及するつもりはない。
 被害者の女性記者に対する“美しい言葉”を利用した対応および意見について、だ。

 「人権」という美しい言葉に乗じた、麻生太郎財務大臣及び財務省の「被害者出てこい!」発言。

 「不徳のいたすところ」という謙虚な言葉に乗じた、テレビ朝日の「(週刊誌に音声データを渡したのは)報道機関として不適切な行為」発言。

 「全体をみれば」というもっともらしい言葉を使い、「同社がどういう調査をしたか知らないが、会話の全体をみればセクハラに該当しないことは分かるはずだ」とした福田氏の発言。

 どれもこれも、わが国の“お偉い人”たちが自らの醜い感情を隠すために放った“正論”で、私の脳内の突っ込み隊は大騒ぎだった。だが、世間は意外にもそうではなかった。
 例えば、私が先週水曜日にコメンテーターで出演したテレビ番組で、「財務省の対応について、『問題なし』「問題あり』『わからない』のどれか?」と視聴者に投票してもらったところ、次のような結果になった(この時点では、まだテレ朝の会見は行なわれていない)。

  • 「問題なし」1023票
  • 「問題あり」1770票
  • 「わからない」309票

 問題ありが一番多いとはいえ、問題なしの意見も多いことに正直驚いた。

 しかも、私が番組内で、
 「福田さんの人権を守ることに異論はない。でも、それは、音声データの分析、編集の有無を検証すればいいし、録音された日付と場所に行っていないことは、当人の行動や携帯記録、お店の人たちへの聞き取りで潔白を証明できる」
と発言したことに対しても、
 「それを財務省がやってるんでしょ? 訴えた人が出てこないことには正確なことはわからない」
 という、私の知能では理解不能なTwitterをもらい困惑した。

○当たり前に囚われる存在(=ジジイ)が、会社の残念度合いを上げる。痛快でありながら、「自然とそうなる」階層組織の闇に恐怖すら感じました。「ウソをつく」「無責任」「頑迷」でありながら自覚がない、悪気もない存在をどう処していくのか、考えさせられます。

(一般企業勤務 40代)

○現場、人間に対するリスペクト、その可能性を信じている著者の一貫した想い、愛情が伝わってきました。本書で書かれていた「合言葉」と「道具」、「仕事の意義、価値の伝道師」が教育担当を務める私の行動指針であることを教えていただき、改めて自分のスタンスが確認でき、勇気をいただきました。

(早期退職後再就職 56歳)

本書は、

自分は責任感が強い!
自分は女子力は高い!
自分は会社や上司に一切不満がない!

という人には役に立たない本です。

 テレ朝の発言については「労働者である以前に人間である」ということに尽きる。女性記者の言動を責めるのはおかしいし、なぜ、事務次官を辞めてから公表したのかもひっかかる。

 そして、何よりも驚いたのは、テレビのコメンテーターたちの中に、今回の事件発覚から最後の「全体発言」に至るまで、福田氏の発言に一定の理解を示す人が相当数いたことだ。

 彼らは、
 「でも、福田さんって、部下からの信頼も厚い、親分肌の人みたいですね」
 「仕事だけじゃなく、遊びも上手い人みたいだからね」
 などと繰り返した。

 事件がほぼ黒となってからは、「福田さんは悪いけど」と前置きをしながらも……

「ハニートラップみたいのありますからね…」
 「『やめてくださ~い』と『やめてください!』じゃ、まったく違うし」
 「ジャーナリストなら、自局の上司を説得しなきゃ」
 「色仕掛けで、情報取ろうとする姿勢がセクハラを生んでいる」
 etc……。

「大年増の厚化粧」のときとまったく同じ

 ふむ。
 これっていったいなんなのだろう?
 被害者の女性が今回取った行動は、ここまで言われてしまうほど問題あるものだったのだろうか?メディアは福田氏や財務省の発言の「世間とのズレ」を指摘してたけど、スタジオで繰り広げられたコメントも不愉快だった。

 そう。あのときの“空気”と同じ。
 小池旋風が吹き荒れた2016年の東京都知事選での、「大年増の厚化粧」(by 石原慎太郎氏)のときとまったく同じだ。

 自他ともに認める“権力者”である石原元都知事が、増田寛也候補を応援する決起集会で
 「大年増の厚化粧がいるんだな。これが困ったもんで、あの人は嘘つきだと思いますね」
 と、攻撃したのを爆笑した壇上の男たち。ニヤニヤした対立候補の増田氏。

 「あの発言は、正直うま味があったのではないですか?」「あの発言は、ありがたかったのではないですか?」と、繰り返し小池氏に詰め寄ったメディアの記者。

 さらには、アノ池上彰氏でさえ、
 「(選挙戦では)厚化粧と呼んだ人がいましたが、『しめた』と思ったんじゃないですか」
 と、小池さんに選挙速報後に迫った。

 もし、小池氏が「香水をプンプン臭わせているジジイがいるんですよ。これが困ったもんで、あの人は嘘つきだと思いますよ」と言ったら、男性たちは同じような質問を石原氏にしたのだろうか?

 結局のところ「見下している」のだと思う。

 申し訳ないけど、私にはそう思えた。だって、年を重ねると疲れてもないのに「疲れてる?」と聞かれるから、どうしたって人前に出るときの化粧は念入りになる。男性が加齢臭に敏感になるのと一緒だ。

 奇しくも社会学者の古市憲寿氏が、4月19日放送の「とくダネ!」(フジテレビ系)で、こう発言した。

 「そもそも何がセクハラを生んだかということから考えるべきだと思います。
 今、政治家や省庁幹部にテレビ局が取材しようとした時に、取材経験はそんなにないかもしれないけど、若くてかわいい女性記者を送り込もう、みたいなことが正直たぶんあると思うんですよ。そこで政治家と仲良くなってもらって、話をいろいろ聞き出すという、メディアの手法自体がセクハラを生みやすかった」

 一見正論を言っているようだが、私にはこの発言もまったく理解不能だった。

 若くてかわいい女性記者を送り込む……?
 いったいいつの時代のコメントなのだろう。

どこまで女の人をバカにしているのか?

 確かに一般企業に比べると、メディアの現場は男尊女卑の傾向はあるかもしれない。
 だが、「若くてかわいい女性記者を送り込めばネタが取れる」と、マジで考えている上司がいたとしたら、残念ながらその人は無能だ。

 そんな下世話な考えでネタが取れるほど、相手はアホじゃないし、世の中は甘くない。色仕掛けに対しベラベラしゃべる人間のネタに、いったいどれほどの信憑性と価値があるというのだ。そのことは現場の人たちが一番分かっているはずだ。

 かつてテレビの出演者に対しても似たようなことを言う人たちがいた。「アイツは“女”を使って番組を取っている」と。

 もし、ホントにそんなことでネタが取れたり、番組を取れるなら、女たちはもっと狡猾に女を使うぞ。その方が楽。そんなことで仕事がもらえるのなら、私だってこんなに必死に仕事に向き合わずに“女”だけを磨く。エステに行き、化粧を厚塗りし、打ち合せはすべて夜のバーにし、猫なで声ですり寄っていく……。

 なんだかとってもバカにされた気がしてしまうのですよ。こんなことを言われるとね。
 残念というか、ガッカリというか。
 あ~、これが男女差別ということなんだなぁと痛感させられてしまうのである。

 そうなのだ。今回の事件で私が感じた違和感は、色仕掛けという言葉に代表される、

男性=自立、独裁的
女性=従順、やさしい

 といった世間に蔓延(まんえん)するジェンダー・ステレオタイプだ。そして、こういうことを書くと、今度は「感情的」と。「なんでそんなに感情的になる?」と。いかなる文章にも、私は感情を込めているのに……。いったいどうしたらいいのか。自分でも情けなくなってしまうのである。

 人が持つ価値観には「意識できるもの」と「無意識のもの」がある。親の考え、子供の時によく見たテレビや雑誌で描かれていたこと、周りの人がよく言っていたことなど、社会に長年存在した価値観は「無意識のもの」で、ジェンダーの土台となる。
 ジェンダー・ステレオタイプは、いわば“社会のまなざし”であり、社会が作り出した無意識の圧力だ。

 興味深い実験がある。

 被験者の大人たちに(男女含む)に、生後3カ月の子どもとおもちゃのある部屋で3分間関わってもらうもので、3つの異なる条件を与え、大人たちの行動を比較した(以下)。

  • 第1グループ:子どもは女児であると伝える
  • 第2グループ:子どもは男児であると伝える
  • 第3グループ:子どものジェンダーは伝えない

 その結果、

  • 第1グループ:人形を用いて関わろうとした
  • 第2グループ:プラスティックの輪を用いて関わろうとした
  • 第3グループ:女性の被験者は自分なりにジェンダーを判断し、それにしたがって関わっていたが、男性の被験者は関わりを持とうとしなかった

 つまり、大人たちは赤ちゃんが女か男かによって、赤ちゃんが好むであろうおもちゃで関わりを持とうとしたのだ。

 そして、こういった親たちの行動と共に、子どもは成長する。

 3歳と5歳の子どもに、生後12カ月の赤ちゃんが遊んでいるビデオを見せるという実験で、ひとつのグループには「右側の赤ちゃんは女の子、左側の赤ちゃんは男の子」と告げ、もうひとつのグループには「右側は男の子、左側は女の子」と逆パターンを告げたところ……

 なんとどちらのグループも「女の子」と告げられた赤ちゃんには、「弱い、遅い、無口、やさしい」と感想を述べ、「男の子」とされた赤ちゃんには「強い、すばやい、騒々しい、元気」といった感想を述べたのである(「生まれる―つくられる男と女」細辻恵子著より)。

社会的役割を演じることで成熟していく

 社会的動物である人間には、社会的役割を演じつつ自己を確立するというプロセスが組み込まれている。発達心理学用語ではこれを「社会化」と呼ぶ。

 社会化の過程では、先の実験のようなジェンダー・ステレオタイプを植え付けられ、自らもそれに沿った言動を学んでいくので、社会化はジェンダー化の過程でもある。子どもが男性と女性の区別を知り、ジェンダー・ステレオタイプが刷り込まれていくのは2歳頃に始まり、5歳頃には「ジェンダー・ステレオタイプ」越しに他人を見る。

 フランスの哲学者ルネ・デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉は有名だが、米国の社会学者チャールズ・ホートン・クーリー博士は、「我々思うゆえに我あり」という名言を残した。

 クーリー博士いわく、
「我々は自分の容姿や身のこなし方、さらには、目的や行為や性格や友達その他についての何らかの考えを、他人の心の中に想像し、その考えのいかんによって様々な影響を受ける」と。

 社会的動物である人間は、常に他者との関係性で社会的役割を演じている。
 真に健康な人間とは、一方において個を確立するとともに、それが他者との分離を促進することなく、逆につながりを強化する。
 「個」としての自己を生かすことと、「他者」との関係性の中で自己を生かすことを統合的に探索するプロセスを経ることで、私たちは成熟した人間になっていくのだ。

 他者との関係性の中で自己を生かすとは、社会的役割を“らしく”演じること。「演じる=悪」というイメージを持つ人がいるが、人間が健康的に社会の一員として生きるには、演じざるをえないのである。

 新人らしく、学生らしく、上司らしく、部下らしく、先生らしく、リーダーらしく、父親らしく、母親らしく、年長者らしく……。それぞれの役割を“らしく”振る舞うためのスキルや能力を演じながら高めていくことで、自分の内面になかった感情や考え方、道徳的価値観などを育み、「自分は○○だ」と自分の居場所を社会の中に見いだしていく。

 そこに性差は存在しない。人が人である以上、誰もが多かれ少なかれ「演じている」のだ。

 男性たちが「色仕掛け」と呼ぶことは、ただ単に「女らしく」振る舞っただけじゃないのか?
 もちろん仕事の場では「仕事人らしく」振る舞うことが優先されるので、「女らしさ」がそれを上回らないように気をつけなければならないこともあるだろう。

 だが、今回の被害者の女性の言動は、果たしてそういったものだったのだろうか?

米国では「#Me Too」を合い言葉にピュリツァー賞

 福田氏がテレ朝の会見後も、セクハラを否定したことについて、夕方のニュースに出演していた某男性コメンテーターは、こうコメントした。

 「僕ね、気持ちがわかるんですよ」と。
 「僕もね○○にいるときに予算担当でね。みんなペコペコ頭さげてくるから、だんだんと自分がものすごい偉い人になったような気になった。すると何をやっても許されるって思っちゃうんですよ。だからね、そういう立場になった人は仕方がないんです」と。

 ……。「仕方がない」は言い過ぎだと思いますよ。
 肩書きは、他者の目を惑わす幻である。「社会的地位=自己の価値」と勘違いした人は、まるで子どものように自己中心的な感情だけの幼稚な人間に成り下がる。だからこそ、自己=自分を律する「個」を磨き続けなければならないんじゃないのか?それがリーダーに求められる資質なんじゃないのか? 

 日本でセクハラ事件が盛り上がっている頃、米国では「#Me Too」を合い言葉に、社会のセクハラに対する見方を一変させたニューヨーク・タイムズ紙とニューヨーカー誌が、ピュリツァー賞を取った。

 「裕福で権力を持つ性的搾取者を暴き出し、抑圧や残虐性、口止めに対する責任を追及し、女性への性的虐待を償わせる衝撃的な報道だった」(by カネディー事務局長)

 いろいろと意見はあると思う。でも、「セクハラを生み出す構造や環境」だけではなく、「私」たち自身が(男女に関係なく)、セクハラと正面から向き合う必要があると思う。

 もちろん、私、自身も……。

『他人をバカにしたがる男たち』
発売から半年経っても、まだまだ売れ続けています! しぶとい人気の「ジジイの壁」

他人をバカにしたがる男たち』(日経プレミアシリーズ)

《今週のイチ推し(アサヒ芸能)》江上剛氏

 本書は日本の希望となる「ジジイ」になるにはどうすればよいか、を多くの事例を交えながら指南してくれる。組織の「ジジイ」化に悩む人は本書を読めば、目からうろこが落ちること請け合いだ。

 特に〈女をバカにする男たち〉の章は本書の白眉ではないか。「組織内で女性が活躍できないのは、男性がエンビー型嫉妬に囚われているから」と説く。これは男対女に限ったことではない。社内いじめ、ヘイトスピーチ、格差社会や貧困問題なども、多くの人がエンビー型嫉妬のワナに落ちてるからではないかと考え込んでしまった。

 気軽に読めるが、学術書並みに深い内容を秘めている。

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