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「カリスマ」を支え続けた功労者が遺したもの

2020/11/30

 10月11日午後、私が勤める佐久総合病院の松島松翠(しょうすい)名誉院長が、92歳の天寿をまっとうされた。世間的には佐久病院といえば、終戦直前に赴任した若月俊一名誉総長(1910-2006)が「農民とともに」のスローガンを掲げて地域に密着した医療を展開し、住民の支持を受けて地方では稀有な大病院に育てたことで知られている。

 確かにその通りではあるが、若月先生の理念を実体化したのは松島先生だった。本田技研工業を創業した本田宗一郎氏に藤沢武夫氏という名参謀がいたように、佐久病院も若月先生のカリスマを支える松島先生がいて発展を遂げることができたのだ。

 松島先生は、若月先生の指示を単にそのまま受けるのでなく、現実に落とし込んで、少しずつ実現させていった。松島先生は温厚な性格で知られるが、時に若月先生に直言し、言い返すこともあった。そして周囲や部下をかばったりもした……。このあたり、必ずしも一般には伝わっていない。

 松島先生は1928年生まれで、東京大学医学部卒業後の1954年、佐久病院に就職した。当初は外科医で、後に健康管理部門に転じた。1960年に健康管理部長に就任。住民と一緒になって健康づくりを進める旧南佐久郡八千穂村(現、佐久穂町)での「全村健康管理」や、長野県内全域で巡回健診を行う「集団健康スクリーニング」などを積極的に進める。文字通り「予防は治療にまさる」を牽引し、農村での病気の予防、早期発見、早期治療の仕組みを確立した。

 いつも笑顔の松島先生は、行政の保健師たちと仲良しだった。彼女たちの(彼女たちを経由して住民から届く)提言、さらには苦言や批判を素直に聞き入れて病院づくりに反映する度量があり、この点が際だっていた。1978年から15年間、南佐久郡八千穂村(当時)で衛生指導員を務めた若月賞受賞者・高見沢佳秀さん(79)は、松島先生が亡くなったことを受けた信濃毎日新聞の取材に対し「上から押しつけず、同じ目線で住民の話を聞いてくれた」とコメントしている(10月16日朝刊)。

 亡くなる直前、松島先生は「季刊佐久病院41号」(2020年秋号)に載せる「漫画になった吉野源三郎」という原稿の加筆、修正をされていた。以前、一度、執筆した原稿だったが、その中で『君たちはどう生きるか』の著者・吉野源三郎について触れながら佐久病院の「社会科学的認識」の弱まりを指摘し、克服しなくてはならないと説いていた。社会科学的認識とは、地域の実情や歴史、人と人との関係、経済状況の変化など、医療を取り巻く様々な要因をしっかり把握しておくこと、といえようか。松島先生らしい原稿なので、一部、引用しておきたい。

「現在の働き方改革からすれば、異論を唱える人がいるかもしれないが、『社会科学的認識』を深めていくには、まず地域をよく知ることだと私は思う。病院の中に閉じこもっているだけでは、地域は分からない。地域へ出て地域がどのような社会的問題点を抱えているのか見極めることだ。そのなかで、地域の人たちと心が通じ合う仲間になることがすべての始まりである」

著者プロフィール

色平哲郎(JA長野厚生連・佐久総合病院 地域医療部 地域ケア科医長)●いろひら てつろう氏。東大理科1類を中退し世界を放浪後、京大医学部入学。1998年から2008年まで南相木村国保直営診療所長。08年から現職。

連載の紹介

色平哲郎の「医のふるさと」
今の医療はどこかおかしい。そもそも医療とは何か? 医者とは何? 世界を放浪後、故若月俊一氏に憧れ佐久総合病院の門を叩き、地域医療を実践する異色の医者が、信州の奥山から「医の原点」を問いかけます。

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