国会中継を見るのはいつも骨が折れる。
実態に即した言い方をするなら、見ていてうんざりするということでもある。
あるいは、国会中継は、一般人の視聴に耐え得るコンテンツではない、と言ったほうが正確かもしれない。
実際、私は、これまで、生中継で流れている国会の答弁の様子を、30分間以上集中して視聴できたためしがない。
毎度、10分もたたないうちに忍耐が尽きて、テレビの電源スイッチを押してしまう。
画面がシュッと縮まって黒っぽい平面の中に消える瞬間(あ、ブラウン管時代の記憶です)、いまいましい蚊をたたきつぶした時に似た、かすかな達成感をおぼえる。国会中継に好ましいところがあるのだとすれば、そのポイントだけだ。
質問のヌルさに腹を立てることもあれば、回答する官僚や大臣の言葉の使い方のデタラメさにいらいらすることもある。どっちにしても、30分だとか1時間みたいな単位の時間を、平常心で視聴し続けることは、自分にはできない。
あの中継は、見ている側の知性や思考力を刺激しない。
ただただこちらの負の感情を増幅するばかりだ。
だから、国会中継を見ている時の私は、ふだんの私より3割がた激発しやすい人間になってしまっている。
というのも、互いに怒鳴り合う人間たちを観察している人間は、いつしか、怒鳴る言葉でしかものを考えることができなくなるものだからだ。
議員さんたちのアタマが心配だ。
あんなに怒鳴ってばかりいて、果たして論理的思考の習慣を失ってしまわないものだろうか。
私の見たところ、県立二番手校の野球部の補欠だって、ここ最近の議員たちに比べれば、もう少し落ち着いた声で野次を飛ばしている。議員の野次は、県予選レベルでも通用しない。それほどレベルが低い。
もっとも、国会中継の映像がもたらす感情的頽廃の責任を議員の先生方の側にばかり求めるのはフェアな態度とはいえない。むしろ、審議の内容に集中できずにいる自分の側の怠惰や傲慢を反省するのが、マトモな大人の態度だろう。
振り返ってみれば、私は、はるか50年前から、他人の話を聞くことが苦手な子供だった。
学校の授業も、だから常に苦痛だった。
進みの遅い授業に対しては
「わかってるよ。うっせえな」
と思ってたちまち退屈したし、かといって進み過ぎた授業には単純について行けなかった。
そんなわけなので、私が好きだったのは、教師がとりとめのない雑談を展開するタイプの授業で、そのせいなのかどうか、学校を出て何十年もたつのに、いまだに幾人かの教師が授業の中で披露した無駄話や与太話のたぐいを記憶している。
自分の中に残った雑談の中には、のちのち、生きていくうえでの糧になった話もあるし、一番苦しかった時に勇気をもたらしてくれた言葉もある。
そう考えてみると、これから先の困難な21世紀を生きる子供たちに必要なのは、カリキュラムに沿って適正な授業を推し進める教師よりも、むしろ魅力ある雑談を提供できる教師であるのかもしれない。
とはいえ、個人的な予測を述べるに、この先、雑談が面白いタイプの人間が教師を目指すのは、珍しいケースになっていくことだろう。なぜなら、子供たちにとって魅力的な雑談は、文部科学行政の目指すところとは乖離しているはずで、というよりも、文部科学官僚の抱く理想の生徒は、経団連ならびに産業界が期待する労働者像から逆算された極力無駄口を叩かないタイプの勤労専念者であるはずだからだ。
話を元に戻す。
建前からすれば、自分たちの選んだ国の代表が国政について真剣な議論を戦わせている場である国会審議の中継放送を、退屈だとかくだらないとかいって貶めにかかっているさきほど来の私のものの言い方は、民主主義そのものを罵倒する態度だと言えなくもない。してみると、国会審議の質をどうこういう以前に、国会をテンからバカにしてかかっている私のような書き手の態度こそが、民主政治の進展にとって最も有害な天敵であるのかもしれない。
つい3日ほど前、3月19日の参議院予算委員会で、自民党の和田政宗議員が、民主党政権で首相秘書官だった太田充理財局長に「安倍政権を貶めるために意図的に変な答弁をしているのか」と詰め寄る一幕があった(こちら)。
当日のやり取りを、逐語的に記録した記事からの引用を以下に示す。
和田政宗議員は、太田理財局長に対してこう言ったことになっている。
「まさかとは思いますけども、太田理財局長は民主党政権時代の野田総理の秘書官も務めておりまして、増税派だから、アベノミクスをつぶすために、安倍政権を貶めるために、意図的に変な答弁をしているんじゃないですか?」
ごらんの通り。
あまりといえばあまりにトンデモな暴言だ。
まさかとは思うが、和田議員はこんなバカな陰謀論を本気で信じているのだろうか。それとも、財務省の官僚を激高させて何らかの発言を引き出すために、あえて自分の考えとは違う憶測を並べ立てて相手を侮辱せんとしたのだろうか。
どっちにしても、ひどい質問だった。
当然、議場は荒れ、ネットは炎上し、一連の場面の録画は、その日の夜のテレビ各局のニュースで繰り返し再生された。そして、和田議員の当日の質問は、あたりまえの話だがスタジオに居合わせたすべての人間の失笑を買うことになった。
由々しき事態だ。
質問がバカバカしいこと自体ももちろん嘆かわしい事実ではある。が、それ以上に、国会でこういうレベルの質問が発され、それが全国ネットで中継されたことの意味がバカにならない。
でもって、なんというのか、われわれは、
「国会ってもしかして、バカの集まりだったわけなのか?」
という、本来なら意識の上にのぼってきてはいけない質問に直面している次第なのだ。
「っていうか、このレベルのヤツが議員なのか?」
「うちの市議会以下じゃないか」
「いや、底辺校の生徒会とどっこいだぞ」
でも、現実に、その驚天動地のバカ質問は、テーブルの上に堂々と供されてしまったわけだ。
質問を投げかけられた、太田理財局長は、
「いや、お答えを申し上げます。あの、私は、公務員としてお仕えした方に一生懸命お仕えするのが仕事なんで。それをやられるとさすがに、いくらなんでも、そんなつもりはまったくありません! それはいくらなんでも……それはいくらなんでも、ご容赦ください!」
と、いつもの冷静な姿とは違う、訴えかけるような口調で回答している。
この時の太田氏の受け答えの様子も、当日夜のニュースにはじまって、翌日の各種情報番組で何度も何度もリピート再生されている。各局のワイドショーでリピート再生されたということは、それだけ衝撃度の高い映像だったということだ。
このことは、国会が「ネタ」化していることを意味している。
明るい時間帯の情報番組の制作スタッフが金科玉条のごとくに重視している鉄則は、硬軟善悪上品下品を問わず、とにかく見て面白い映像を再生するところにある。
その意味で、和田議員と太田理財局長によるボケとツッコミのやりとりは、号泣議員の会見映像や虚言作曲家の弁明動画や、STAP細胞の不滅を訴える女性研究者のプレゼンVTRと同じく、人間の業の深さと愚かさを数秒の中に凝縮した極めて中身の濃いコンテンツだった。
さて、われらが和田議員の質問は、過日、なぜなのか、公式の議事録から削除される運びになった。
伝えられているところによれば、発言について、19日の理事会で野党が「公僕への侮辱」と抗議し、これを受け、和田氏が削除することに同意したのだという(こちら)。
私は、この削除の意味をうまく自分に説明することができずにいる。
発言に抗議した野党議員の言い分も、それを受けいれた和田議員の側の認識も、
「議会人としてあり得べからざる発言だった」
ということなのだろうとは思う。
要するに、
「ひどい言い方でした。取り消します」
ということではあるのだろう。ここまではわかる。
で、取り消されたことで、国会の品位は回復したのだろうか。
私は、そう思っていない。
もし仮に和田議員の発言によって、国会の品位なり、良識の府たる参議院の尊厳なりが毀損されていたのだとすれば、それを回復するためには、発言を削除するだけでは足りない。
というよりも、発言を取り消すことは、国会の依って立つ基盤そのものを損なうことになる気がしている。
言論の府としての国会の権威と尊厳を防衛するためには、
「これこれこういう名前の議員によってこういう発言が為された」
という事実を、むしろ太字で明記するくらいの勢いで記録してしかるべきだ。
で、しっかりと記録した上で、その発言が不適切だったというのなら、発言者が関係者に陳謝し、相応の懲罰なりを受けた上で、発言を撤回すればよろしい。そういう手順を踏まないと、発言の不適切さの意味そのものがはっきりしない。単に削除したのでは、もみ消したのとそんなに変わりがない。
われわれが暮らしている普通の世界の日常では、発言を撤回することは、必ずしも、元の発言を記録から削除することを意味していない。
発言を撤回するためには、一定の手順を踏んで、正しくそれを取り消さなければならない。
まず、発言者は、自分の発言が間違いであったことを認めた上で謝罪し、罰を受けなければならない。そうやって自分の発言が無価値かつ有害で撤回に値するバカ発言であったことを認めたうえで、しかしなお、記録そのものは、「本人によって撤回された発言」という形でデータとして残されていなければならない。
ところが、国会の記録を見ていると、彼らは、昨年の安倍総理による「立法府の長」発言もそうだが、事実誤認や不適切な表現を含んだ発言は、議事録からまるごと削除することで発言そのものを「なかったこと」にしてしまっている。
どうかしていると思う。
国会議員だって人間である以上勘違いもすれば、言い過ぎることもあるだろう。
とすれば、国会の審議の中で筋の通らない話をする時もあれば、事実誤認に基づいて対話をかわしていることだって皆無ではないはずだ。
それらを、発言した通りに残さないで、何が議事録だというのだろうか。
明らかな言い間違いであれ、国会の品位を貶める暴言であれ、発言は発言だし審議は審議だ。それらを残さないのなら、記録が記録である意味がない。
現在、国会では、行政文書の改竄が焦点になっている。
一度決裁された文書が官僚の手で事後的に書き換えられたことが発覚したこのたびの事態は、生きている人間の戸籍がある日書き換えられて死んでいることにされた事態とそんなに遠くない驚天動地のできごとだ。
紙幣の額面がいつの間にか財布の中で書き換わっていたら信用経済もへったくれもなくなってしまうことは、誰が考えてもわかるはずのことなのだが、同様にして、行政官が行政文書を改竄することは、世界を世界たらしめているシステムというのかプラットフォームを破壊するという意味で、一種のテロ行為に近い。
であるからして、今国会の審議は、いつにもまして重要なはずなのだ。
ところが、その文書改竄の原因だったり経緯だったりについて議論をすすめているはずの国会の議事録の中で、たしかに発言されていた言葉が、なぜなのか、なかったことにされている。
国会審議の議事録から、不適切な言葉や間違った発言を改めようとする態度は、それはそれで、間違ったやりかただとは思わないが、元発言そのものを削除してなかったことにしてしまう発想は、国会を無謬の存在たらしめようとする意図以外からは出てこない考え方だと思う。
国会は無謬なのだろうか。
とんでもない。
無謬ところかバカ揃いだ。
少なくとも私はそう思っている。
しかし、問題は、彼らがバカなことではない。
バカはおたがいさまだ。
バカな部分を多く併せ持った人間たちであるわれら国民の代表である限りにおいて、国会議員の中にも一定数のバカな議員は含まれていてしかるべきだし、マトモに見える議員の中にも一定量のバカな部分が含まれていることは決して異常なことではない。
というよりも、バカであることそのものは決して致命的な問題ではないのだ。人間が人間であるという前提から当然の帰結として導かれる結果にすぎない。
問題は、国会が、バカであるにもかかわらず、自分たちのバカさを認めようとしていないことだ。
ぜひ、バカな審議の中のバカな発言を、きっちりと記録に残しておいてほしい。
おそらく、50年なり100年なりの時間が経過した後に読み返してみて、より多くの教訓を含んでいるのは、バカな発言の方だと思う。
「ああ、われわれの先人の中には、こんなにもバカな人がいたのか」
と、はるか未来の日本人がそう思って自らを省みる糧としてくれるのであれば、和田議員としても本望なのではあるまいか。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
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なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
なぜ人は、何かに依存するのか?
<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて
日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!
(本の紹介はこちらから)
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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。