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 このところ、政治に関するニュースで「忖度(そんたく)」という言葉が飛び交っていますが、これはどうにも外国語には翻訳しようのない、わが国独自の言葉だろうと思います。

 元々は、古い中国の言葉で「相手の心情を推し量る」といった程度の意味合いだったようですが、今日では「相手の意向を推し量り、それにおもねった行動をとる」というところまで、すっかり含意が拡大しています。

 ところで、この「忖度」という言葉は、以前は今日ほどポピュラーなものではありませんでした。しかし、それはこれに相当するような言動やその傾向が私たちになかったからではなく、むしろそういうことが、空気のようにあまりに当たり前のことだったので、あえてそれを問題視する必要すらなかったからだと思われます。

 しかし、この「忖度」に通ずる日本的な心性は、「空気を読む」「気遣い」「気配り」「おもてなし」といったおなじみの言葉の中にも脈々と流れているものであることは間違いありません。

 その一方で、スポーツ界や大企業などにおいて長らく因習であったようなことが、実はパワーハラスメントに相当することだったのではないかと、最近、次々に顕在化してきています。

 忖度は相手の意向におもねる方向性のものであるのに対し、ハラスメントはその真逆のものであり、相手の気持を無視して何かを強要することです。さて、この一見正反対とも言えるような現象が、なぜ同時期に社会問題化してきたのでしょうか。

「忖度」に通ずる日本的な心性は、「空気を読む」「気遣い」「気配り」「おもてなし」といったおなじみの言葉の中にも脈々と流れている(写真:PIXTA)
「忖度」に通ずる日本的な心性は、「空気を読む」「気遣い」「気配り」「おもてなし」といったおなじみの言葉の中にも脈々と流れている(写真:PIXTA)

ハラスメントの意味がわかっていない

 パワーハラスメントの問題の成り行きを見ていますと、正直なところ、まだまだ因習側の保守性が払拭されず、爽やかな解決に至らないまま時間だけが過ぎて、問題が曖昧なまま風化していってしまうことが多いように見受けられます。

 その一因としては、ハラスメントという言葉の真の意味合いが正しく理解されていないという問題があるように思われます。

 ハラスメントは通常、「嫌がらせ」と翻訳されますが、この日本語が誤解を生みやすい一つの原因になっているのではないかと考えられるのです。

 つまり、この訳語では行為者側に「嫌がらせ」の意図や自覚があった場合にのみハラスメントが成立するかのような誤解が生じてしまいます。しかし、本来ハラスメントというものは、それを受けた人間が苦痛を感じたかどうかによって決定される性質のものであって、行為者側の意図とはそもそも関係がないものです。

 ですから、行為者側がいくら「そういうつもりはなかった」と釈明したとしても、それが決してハラスメントでなかったことの理由にはなりません。しかし、この基本精神がわかっていないと思しき釈明会見が、いまだに各方面で行われ続けているようです。

本来ハラスメントというものは、それを受けた人間が苦痛を感じたかどうかによって決定される性質のものであって、行為者側の意図とはそもそも関係がない(写真:highwaystarz/123RF)写真はイメージです
本来ハラスメントというものは、それを受けた人間が苦痛を感じたかどうかによって決定される性質のものであって、行為者側の意図とはそもそも関係がない(写真:highwaystarz/123RF)写真はイメージです

「他者」のいない「ムラ」

 私たち日本人は、そもそも「自他の区別」が苦手なところがあります。

 たとえ同じ言葉を使って同じ地域に生まれ育ったとしても、それぞれが違う資質を持って生まれ、異なった感受性を持ち、同じ言葉にも微妙に違う意味合いを込めていて、それぞれ独自の価値観や世界を持っている。この人間の真実にきちんと目を向けたとき、他人というものは、決して自分と似たり寄ったりの存在なのではなく、未知なる存在であること、つまり「他者」であることがわかってきます。このような認識をもって「自分」と「他者」を捉えることを、「自他の区別」と言っているのです。

 しかし、わが国は似たり寄ったりの同質な仲間たちで構成される「ムラ」的集団で過ごしてきた時代があまりに長かったために、私たちには、価値観も感受性も違う「他者」がいるのだという想像力が育ちにくかった。そういう特殊な事情があるために、人を「他者」として見ることができずに、仲間なのかよそ者なのか、つまり「ウチ」の人間なのか「ソト」の人間なのかという分け方をして、もっぱら付き合うのは「ウチ」の者に限定するような傾向がある。そのため相手と自分の同じところばかりを探し、その微妙な違いはなかなか視野に入ってこないのです。

 ですから、自分の行為が「他者」である相手にどのように受け取られるか、その不確かさと予測不能性について、思いが至らない。そのために、「ムラ」においてはハラスメントの問題が生じやすくなっているのです。

日本は今も「ムラ社会」、自他の区別が希薄なままだ(写真:strejman/123RF)
日本は今も「ムラ社会」、自他の区別が希薄なままだ(写真:strejman/123RF)

「ムラ」の構成原理

 「ムラ」とは、構成員が同質であることと、タテ社会の秩序を基本にして成立しているものです。タテ社会の秩序とは、無条件に年長者や親、先輩、上司などを敬うべきであるといった上下関係を重視するものであり、そのバックボーンには儒教的精神が潜んでいるのではないかと思われます。

 本来人間というものは、一人一人が生来違った性質を持ち、平等に独立した尊厳を持っているもののはずです。しかし、このような人間観は、「ムラ」にとっては甚だ都合が悪い。一人一人が自由意志を持つ「個」であってもらっては、タテの秩序が崩されるおそれもあるし、「同質性」を拠り所にする結束も難しい。

 そこで、新入りや若年者に対して、教育指導的な建て前のもと、つまり「しごき」や「かわいがり」という名の理不尽な制裁を加え、精神的な去勢を施すのです。つまり、自分で感じ、考えるような独立的精神が育たないように、恐怖心を使ってタテの秩序を叩き込むわけです。このような通過儀礼によって、「ムラ」は人を「個人」ではなく、従順で勤勉な「構成員」に仕立てていくのです。

 このようなやり方は、人員の統制を取る必要性の高い軍隊などでよく行われてきたものですが、わが国では運動部系の部活などでも広く行われてきていることはよく知られた事実です。よって、その延長線上にあるスポーツ界や体育会系的メンタリティを重んじる会社組織などで、その傾向が色濃く残ってしまうのは、至極当然の結果なのです。

 しかし、そんな風潮の中にあっても「個人」の意識に目覚めた人は、この通過儀礼の正体がパワーハラスメントであることに気がつき始めます。これに対し、「ムラ」のメンタリティに疑いを持っていない人間は、そもそも正当な通過儀礼を施したに過ぎないと思い込んでいるので、それがハラスメントであることに気づかないのです。

本来人間というものは、一人一人が生来違った性質を持ち、平等に独立した尊厳を持っているもののはず。しかし、このような人間観は、「ムラ」にとっては甚だ都合が悪い(写真:PIXTA)写真はイメージです
本来人間というものは、一人一人が生来違った性質を持ち、平等に独立した尊厳を持っているもののはず。しかし、このような人間観は、「ムラ」にとっては甚だ都合が悪い(写真:PIXTA)写真はイメージです

「ムラ」の洗脳

 「ムラ」はこの不自然な秩序を維持していくために、各人に「構成員」であることを美化するような価値観を植え付けようとします。例えば、「郷に入っては郷に従え」「長いものには巻かれろ」「苦労は買ってでもしろ」「人は皆、わが師と思え」「石の上にも三年」といった格言の数々を用いて、忍耐や従順さを称揚する価値観を植え付けるわけです。

 また、「ムラ」の結束を固めるためには、常に共通の仮想敵が必要です。

 本来、同じであるはずのない者たちを結束させるためには、共通の敵があれば手っ取り早い。これは、国家が内情不安定な時に仮想敵国の脅威をプロパガンダして、国内の結束を図る手口と同じものです。群れている人たちが、たいてい誰かの悪口の話題で忙しいのは、やはり同じ原理だと考えられます。いわゆる「いじめ」の問題も、この原理によるところが大きいのです。

 さらに、「ムラ」の理不尽さに耐えかねてそこを立ち去ろうとする者に対して、「お前、逃げるのか? ここで続かないような弱い奴は、どこに行っても続かないぞ」という脅しがよく用いられます。これは、ブラックバイトなどでも横行している、おなじみの手口です。

「社会」という名の「ムラ」

 このように「ムラ」という集団の特質を理解してくると、忖度ということがそこに必然的に生じてくる現象であることがわかると思います。「ムラ」はタテ社会なので、当然上の者への無条件的服従と配慮が求められる。言われる前に、自主的に上の意向に沿った行動をとることは、「気がきく奴だ」として高く評価されるからです。しかも「ムラ」では基本的に価値観がみな同質なので、下の者が上の者の意向を推量することが比較的容易であるという事情もあります。

 私たち日本人は、明治の文明開化のタイミングで、individualやsocietyという言葉に触れ、急ごしらえで「個人」や「社会」という翻訳語を造り出しました。

 それぞれが異質な存在であるような人間のあり方を「個人」と言い、そういう「個人」が集まったものを「社会」と呼ぶのですが、それまでそのような言葉がなかったということは、それまでは「個人」もいなかったし「社会」と呼べるような集団もなかったことを示しているのです。そこにあったのは世間であり、世間の構成員だったのです。ここで言う世間とは、先ほど論じた「ムラ」のことにほかなりません。

 厳しい見方をすれば、「個人」や「社会」という言葉が誕生して150年ほど経過したにもかかわらず、私たちは未だに「個人」として在ることに困難を抱え、あらゆる集団の内実は依然として「ムラ」のままなのです。ですから、いくら学校教育等で「個人」としての在り方の大切さを説かれたとしても、現実的には「個人」としての言動は歓迎されないどころか、「空気の読めない奴」と陰口を叩かれ、「いじめ」に遭い、「ムラ八分」の憂き目をみることになってしまうことになってしまうのです。

 「個人」として独自の思想を形成し、それを主張できるような真の優秀さは、「ムラ」においてはむしろ、秩序を乱す有害なものとして扱われてしまいます。「ムラ」における優秀さとは、そのような優秀さとは対極にある、あの忖度の能力のことだったのです。

神経症性としての忖度

 「ムラ」の最小単位は、家族です。

 親が、子どもを自分とは別個の尊厳と感覚を備えた「他者」とみなし尊重してくれた場合には、子どもは「個人」として成長することができます。しかし親が、わが子を自分の分身であるかのように見なしてしまった場合には、子どもにはうまく「自他の区別」の認識が育たずに、神経症性が生じてしまいます。

 自分の意見や感情を引っ込めて、相手の顔色をうかがうことを神経症性と呼ぶのですが、これはそもそも親との関係の中で形成されるのです。神経症性を植え付けられた子どもは、親にとっての「良い子」を演じるようになります。そしてその生は「誰かのため」のものになってしまって、「自分を生きる」ことができなくなってしまうのです。

 このように親の顔色をうかがうようになってしまった人は、次に教師の顔色をうかがうようになり、友人や先輩の顔色もうかがい、そして上司の顔色をうかがうようになるのです。

 忖度のメンタリティは、このようにして形成されたものなのです。

親にとっての「良い子」を演じるようになった子供は、「自分を生きる」ことができなくなってしまう(写真:szefei/123RF)写真はイメージです
親にとっての「良い子」を演じるようになった子供は、「自分を生きる」ことができなくなってしまう(写真:szefei/123RF)写真はイメージです

「ムラ」をやめなければ、忖度もパワハラもなくならない

 つまり、一見正反対のように思えた忖度もパワーハラスメントも、その発生源がいずれも「ムラ」によるものであったことが、お分かりいただけたのではないかと思います。

 先ほども述べたように、民主的な先進国の「社会」に暮らしているはずの私たちですが、実質的には、未だに大小さまざまな「ムラ」に取り囲まれ、その暗黙の空気によって「ムラ」の構成員であることを求められてしまうという、かなり窮屈な状況下に生きているのです。

 しかし、ここにきて忖度やパワハラの問題が次々と社会問題化してきているのは、一部の勇気ある人たちが、大変なリスクを承知の上で「個人」としての告発を始めたことによるものです。今私たちは、明治の文明開化で成し遂げられなかった「ムラ」的メンタリティからの脱却に、ようやく踏み出しているところなのかも知れません。

 世界的にも、セクハラを告発する#me too運動の機運が高まりを見せていますが、私たちもそろそろ、各人が「個人」として生きる決意を固め、因習に凝り固まった「ムラ」をやめ、本当に「社会」と呼べるようなものを作っていく必要があるのではないでしょうか。

 誰かの顔色をうかがっているような神経症的な在り方では、「心」のフタを開けることなど、とても恐ろしくてできるはずもありません。そのためにも、安心して「個人」でいられるような「社会」が、私たちには是非とも必要なのです。

次回へ続く)

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