いよいよロシアワールドカップ(W杯)がはじまった。

 私にとって、サッカーのW杯ほどわくわくさせてくれるイベントはほかにない。4年に一度、世界一周旅行に旅立つみたいな心持ちだ。あと何回見られるだろうか。

 死ぬ前に、もう一回現地でナマの試合を観戦してみたいと思っている。生活に余裕ができたら、次の大会か、それが無理ならそのまた次の大会を機に、半月ほどスケジュールを空けて開催地を訪れてみたいものだ。

 今大会は、自国の代表チームとは距離を置くつもりだ。応援とは別の気持ちで、各国の精鋭の戦いを観賞しようと思っている。それでも十分に楽しいはずだ。

 日本代表が勝つようなことがあれば、私は喜ぶだろう。しかし、負けることになっても、それはそれで溜飲が下がるはずだと思っている。両面作戦だ。勝てば勝ったで選手を誇りに思うし、負ければ負けたで自らのサッカーファンとしての見識を誇りに思うことになる。どっちにしても、私は拍手を惜しまない。

 と、そんなことを考えている折も折、ツイッターのタイムラインに奇妙な文字列が流れ込んできた。どんなテキストであるのかを示すために、引用できれば良いのだが、それはできない。シャイロック、じゃなかったジャスラックが目を光らせているからだ。日本音楽著作権協会に登録している音楽家の楽曲を引用すると、著作権使用料が発生する。このことが、わたくしども文筆家を様々な場面で苦しめている。

 今回は、ある楽曲の歌詞について書こうと思っているのだが、その歌詞を読者の目前に引用して示すことができない。このことを、私が大変に心苦しく思っているということをどうかご理解いただきたい。

 歌詞検索サイトにリンクを張っておこうかと思ったが、これが著作権の侵害になるものなのかどうかに、私は確たる知識を持っていない。

 ゆえに読者諸兄は、自ら曲名を判断し、各自検索して欲しい。もし、ジャスラックが何かを言ってきたら、歌詞のサイトも消されることになると思う。そうなったら、読者諸兄には、できれば架空の歌詞を暫時思い浮かべながら次行以降を読んでほしい。

 ご確認いただけただろうか。
 ごらんのとおり、不思議な歌だ。

 私は、初見で
 「うひゃあ」
 と思った。

 「気高きこの御国の御霊」
 「たとえこの身が滅ぶとて 幾々千代に さぁ咲き誇れ」
 「さぁ いざゆかん 守るべきものが 今はある」
 といったあたりの言霊の幸ふところに感じ入ったからだ。

 まあ、あえて言うなら、君が代風、軍歌風、愛国歌風といったあたりの周辺にある何かではあるのだろう。

 私個人は、この歌がどうだということではなくて、こういう出来物が、民放のサッカー放送のテーマのカップリング曲として選ばれる時代がやってきたことに強い印象を持たずにおれなかった。

 平たく言えば、びっくりした、ということだ。

 別の感慨もある。
 具体的には、この歌の歌詞の中で使われている古語風の言い回しの不徹底さというのか中途半端さに当惑させられたということだ。
 で、その場で、以下の二つのツイートを発信した。

僕らの燃ゆる御霊 って、自分に敬語使ってる感じ?

「遥か高き波がくれども」のところもなんだかきもちわるい。どうしても文語っぽく書きたいんだったら、「きたれども」にしておくほうが良かったところだと思う。

 古語は厄介なツールだ。

 私もときに使う機会がないわけではないのだが、使用はツイッター上で狂歌を詠む場面に限っている。つまり、パロディ目的以外では使わないでいる。

 理由は、正確に使いこなす自信がないからでもあれば、効果を疑っているからでもある。

 なによりもまず、古語ならびに歴史的仮名遣いは、誤用すると馬鹿丸出しに見える。この点が非常につらい。

 しかも、誤用しやすい。理由は、古語とは言っても、自国の言語であるだけに、かえって勘違いに気づくことが難しいからだ。外国語なら、辞書の力を借りて、なんとか間違いを正すことができる。ところが、古語の場合、古語の現代語訳を集成した辞書はあっても、現代語を古語に翻訳する使用法に特化した辞書が見当たらない。探せばどこかにあるのかもしれないのだが、普通の人は持っていない。少なくとも私は知らない。

 さらに、古文は、当該の言葉とその用例が、どの時代の、どの階層の人間による、どんな関係性の中での発話であるのかがはっきり確定しないと、正解を見出せない仕様になっている。同じ古文でも源氏物語の文体と、平家物語の文体は徹頭徹尾まるで別の世界の言語だし、徒然草と好色一代男の文章もはっきりと別のものだ。混用したらえらいことになる。

 ということはつまり、専門で研究している学者でもなければ、破綻のない擬古文を自分の手で独自に書き起こすことは、ほぼ不可能なのですね。

 かといって、仮に正確に使いこなすことができたのだとしても、たいしてありがたがられるわけでもない。
 むしろ、イヤミったらしいはずだ。

 そもそも現代社会に生きるほとんどすべての人間にとってなじみのない言葉や語法を用いて文章を書くことは、そのことだけでも相当に「気取った」「これ見よがし」な、「教養をひけらかしているっぽい」態度なわけで、だとすると、そういういけ好かない人間が、いけ好かない文章を振り回している場面でミスを犯すのは、これは爆発的にみっともないやりざまということになる。

 たとえばの話、フランス料理の店でギャルソンを呼びつけて、フランス語で食事を注文するのは、これはかなりリスクの高い振る舞い方だ。そこで、メロンを頼んでマロンが出てきたりしたら目もあてられない。

 何を言っているのかわからないムキもあろうかとは思うが、とにかく、そこいらへんのビストロで半端なフランス語を振り回してはいけないのと同じように、表現者たるもの、古典教養に関して満腔の自信を抱いているのでない限り、擬古文で歌を書くなどという暴挙に挑んではならないのである。

 それでも時々私が古語を使ってみたくなるのは、狂歌をカマす時などは、古語を使った方が断然「それらしく」なるからだ。「それらしく」というのは、つまり粋に構えた通人の狂歌っぽく仕上がるということで、どうせ拗ね者の捨て台詞ならせめて古体な口ぶりで演出しようではないかという意地みたいなものでもある。

 不思議なのは、地上波民放局がそれなりに社運を賭けたイベントであるはずのW杯サッカー中継のテーマソングを商品化するにあたって、しかるべきチェックが行われていなかったのか、ということだ。

 「僕らの燃ゆる御霊」にしても「波がくれども」にしても、あたりまえに古典文を読んできた人間なら第一感で気持ちの悪さを感じるはずのところだ。逆に言えば、この程度のゲロゲロ古典文さえチェックできていなかったということは、結局のところ、この歌が、校閲者なりの他人の目を通ることなく、あるいは、その目があっても反映されることなく商品化されてしまったことを意味している。

 さてしかし、「HINOMARU」が炎上したのは、擬古文としての不自然さのゆえではなかった。どちらかといえば、炎上の焦点となったのは本作が偽物ながらも醸していた「軍歌っぽさ」の方だった。

 で、批判が集中したことを受けて、作者の野田洋次郎氏は、謝罪をしている(こちら)。

 現在のところ、この話題をめぐって熱く議論されている論点は、
 「謝罪が必要だったのか」
 という点と、もうひとつは
 「気に入らない歌に集団で抗議するのは、言論弾圧ではないのか」
というポイントだ。

 以上の2点について、以下、簡単に考えを述べておく。
 謝罪は不要だったと思う。

 この歌に不快感を抱いた人々がいたことは事実だが、そんなことは謝罪を求められる理由にはならない。どんな歌であっても、不快に感じる聴き手はいる。それだけの話だ。

 歌を歌う人間は、自分の信じるところを歌えば良い。それを聴いて不快に思った人間は、その旨を訴えれば良い。それだけの話だ。特定の民族やマイノリティーをあからさまに差別しているとか、誰かの名誉を明らかに毀損しているとか、歌の出来上がりそのものが誹謗中傷で構成されているとかいう極端な事例でない限り、歌は自由に書かれ、歌われ、聴かれるべきものだ。

 歌であれ文章であれ映像作品であれ、個人が制作する制作物である以上、万人に愛されることはあり得ない。まして、作り手が真摯に取り組んだインパクトの強い作品であれば、それだけ誰かを傷つける可能性も大きくなる。とすれば、誰かが傷ついたからという理由でいちいち謝罪するのは馬鹿げてもいれば、馬鹿でもある。

 もし仮に、誰一人傷つかない作品があるのだとしたら、その作品には力がないと考えなければならない。

 咲いた咲いたチューリップの花がといった調子の歌でさえ、特定の花に特有の記憶を固着させている人間の心に爪痕を残すことはあり得る。そう思えば、「傷つけた」などという言葉を口にすること自体が馬鹿な態度だったと申し上げざるをえない。

 おそらく、野田氏が謝罪したのは、W杯の開幕を間近に控えて、炎上を早めに鎮火させることを、クライアント筋から求められた結果なのだと思う。

 してみると、炎上の責任は、自局が展開する応援歌という枠組みの中にこういう「それっぽい」作品を放り込んでみせたテレビ局のキャンペーン展開のぞんざいさに求められなければならない。

 若い世代の楽曲制作者が、古文の素養を欠いていたことを責めるのは適切な態度ではない。「それっぽい」歌を書こうとした結果がなんちゃって軍歌ポップスに着地してしまった経緯も仕方のない展開だと思う。よって、RADWIMPSには何の責任もない。

 次に、言論弾圧について。
 まず、6月12日に「HINOMARUに抗議するライブ会場前アクション」という名前のアカウントから以下のような呼びかけのツイートが配信された。

《RADWIMPSの『HINOMARU』に抗議し、廃盤と2度と歌わない事を求めるライブ会場前行動
6月26日(火)17時~夜まで@神戸ワールド記念ホール前
集まろう!
絶対に許されない歌を出してしまいました。バンドとレコード会社は表明して下さい。ファンの方々は求めて下さい。それが解決策です。》(こちら

 このツイートは、記事執筆時点で、1050回RTされ、446の「いいね」を獲得している。

 特筆すべきは、1638のリプライ(返事)がついていることだ。それだけ、反響が大きかったということではあるのだが、そのリプライをアタマから読んでいくと、あらまあびっくり、ほとんどがツイート主への反論である。リプライを返した人々は異口同音に、「HINOMARU」への抗議行動の呼びかけを強い口調で非難している。

 こうした流れを受けて、同じ日にある政治学者が以下のようなツイートを書き込んでいる。 

《右であれ、左であれ、自分の意見をいう自由は認められなくてはならない。歌詞が気に入らないから歌うなというのは、表現の自由を奪う行為。何故、「リベラル」は、この蛮行を批判しないのか?彼らは自由を愛するのではなく、我が国を憎悪しているだけではないのか?》(こちら

 このツイートは、これまでのところ、RT5239、いいね9126の、リプライ139を記録している。一方の代表的な意見と見て良いだろう。

 このツイートに対して、私は、当該ツイートを引用した上で、以下のような文言を付け加えている。

《「歌詞が気に入らない」と感じ「歌うな」と発言することもまた「言論」「意見」「表現」であるということがどうしてわからないのか。「表現・言論の自由」は、あくまでも公権力が国民の表現・言論を弾圧することからの自由を保障したものであって、国民同士の意見の対立はむしろ自由の成果だぞ。》(こちら

 この私のツイートには、RT796、いいね970、リプライ72のアクティビティーが返ってきている。

 以上、ここに挙げた3つのツイートへの反応を見る限り、少なくともツイッター上では、「HINOMARU」への抗議行動に賛同する人より、「HINOMARU」への抗議行動に反発する人の方がはるかに多いことがわかる。

 私自身、誰かの歌が気に入らないからという理由で、ライブ会場の前で抗議行動を呼びかけたり、すでに発売されているCDの廃盤を求めたりすることはナンセンスだと思っている。自分自身が不快感を表明することはともかくとして、相手に「歌わないことを求める」のは、筋違いであるのみならず愚劣な態度だとも考えている。

 じっさいのところ、冒頭の、この作り物っぽい3つしかツイート履歴のないアカウントが呼びかけている抗議行動は、反応を見る限りでは、まるで成功しそうに見えない。私は、この抗議行動の呼びかけ自体、本気でやっているもなのかどうか、いまひとつ信じきれないでいる。

 さてしかし、本物かどうかさえわからないこのバカげた抗議行動への反発は本物だ。
 ツイッター上では、「言論弾圧」への反撃の書き込みが溢れている。

 私は、抗議デモが実際に本当に行われたならともかく、歌に苦情が寄せられた程度の事実をとらえて、「弾圧」という言葉を使って騒ぎ立てることもまた、典型的な過剰反応だと思っている。

 結局、今回の騒動を通じて、最も大きく燃え上がったのは、「HINOMARU」という歌への抗議の声ではなくて、歌の作者が謝罪したことによって生じた「言論弾圧を許すな」という反作用だった、というのが、私の観察結果だ。

 形式論理で話をすれば、「言論弾圧を許すな」という声も、糾合の仕方や運動のまとめかた次第では言論弾圧のための道具として利用できるわけで、「言論」と「表現」をめぐるせめぎあいは、どこまで行ってもいたちごっこの部分を含むことから逃れられない。

 歌への抗議を抗議への反発が圧倒している今回のような事態が生じている背景には、世代によって「ロック」という言葉の受け止め方が違ってきているからだと思う。もう少し詳しく述べると、「ロック」というというイディオムが内包している「反抗」「抵抗」の対象が、ある年齢よりも若い世代の人々にとっては、すでに「公権力」や「政権」や「体制」ではなくなってきている、ということだ。

 たとえば商業ロケンローラーにしてもお笑い芸人にしても、自分たちのネタにクレームをつけてくるのは、「政府」や「当局」ではない。

 苦情を寄せてくるのは、圧倒的に「良識派の視聴者」や「人権団体」である場合が多い。テレビ局のディレクターが右顧左眄しつつ動向に気を配っているのも、実は「与党」や「政権」よりも、「野党の有力政治家に連なる反差別団体」や「活動家」だったりするわけで、してみると、彼らが当面自分たちの戦うべき敵として意識する対象は、「政府」「政権」「権力」「与党」ではなくて、「視聴者」「リベラル」「野党」「フェミ」「人権」「ポリコレ」ってなことになる。

 この問題については、いずれ別に項目を立てて考えなければならないと思っているのだが、今回はすでに行数を書きすぎたので結論を急ぐ。

 振り返ってみれば、はるか30年ほど前に、ビートたけしという名前の芸人が、たしか「週刊プレイボーイ」に掲載されたインタビューの中で、
 「オイラは右翼だよ」
 と宣言していたものだった。

 当時、その記事を読んだ私は、
「これはまた見事な逆張りだなあ」と無邪気に感心していたのだが、ことここに至った現時点から振り返って見るに、じつに1980年代初頭のまだ「ポリコレ」という言葉も何もなかった時点で、すでにして、あのビートたけしという男は、良い子ちゃんの行動規範に堕した戦後民主主義的サヨク人権思想がひとっかけらもロックじゃなくなっていることに気づいていたわけなのだな。

 私個人は、もう20年以上前の時点で、ロックは死んだと思い込んでいたのだが、どうやらその考えは間違っていた。

 ロックは、私が知っていた時代のそれとはまったく別の、どうにも始末に負えない不死のゾンビとして、目の前に立ちはだかっている。

 御霊にでもなるほかに、対抗するすべはなさそうだ。
とても困っている。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

対抗するなら御霊というより、怨霊じゃないでしょうか。
個人的に「実況中継」はちょっとイカす曲だと思います。

 小田嶋さんの新刊が久しぶりに出ました。本連載担当編集者も初耳の、抱腹絶倒かつ壮絶なエピソードが語られていて、嬉しいような、悔しいような。以下、版元ミシマ社さんからの紹介です。


 なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
 30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
 と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
 なぜ人は、何かに依存するのか? 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて

 日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
 現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!

(本の紹介はこちらから)

■変更履歴
記事掲載当初、本文中で「民放のサッカー放送のテーマ曲」としていましたが、正しくは「民放のサッカー放送のテーマのカップリング曲」です。お詫びして訂正します。本文は修正済みです [2018/06/15 11:00]
民放のサッカー放送のテーマのカップリング曲
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