無印良品、ファミリーマート、パルコ、西武百貨店、西友、ロフト、そして外食チェーンの吉野家--。堤清二氏が一代でつくり上げた「セゾングループ」という企業集団を構成していたこれらの企業は、今なお色あせることはない。

 日本人の生活意識や買い物スタイルが大きな転換期を迎える今、改めて堤氏とセゾングループがかつて目指していた地平や、彼らが放っていた独特のエネルギーを知ることは、未来の日本と生活のあり方を考える上で、大きなヒントとなるはずだ。そんな思いを込めて2018年9月に発売されたのが『セゾン 堤清二が見た未来』だ。

 本連載では、堤氏と彼の生み出したセゾングループが、日本の小売業、サービス業、情報産業、さらには幅広い文化活動に与えた影響について、当時を知る歴史の「証人」たちに語ってもらう。

 連載第10回目に登場するのは、堤清二氏の次男で、セゾン現代美術館の代表と館長を務める堤たか雄氏。経営者として辣腕を振るった堤清二氏だが、家族にとってはどのような人物だったのだろうか。堤たか雄氏に話を聞いた。(今回はその前編)。

セゾン現代美術館の館長と代表を務める堤たか雄氏(写真/竹井俊晴)
セゾン現代美術館の館長と代表を務める堤たか雄氏(写真/竹井俊晴)

たか雄さんから見た堤清二さんは、どのような人物でしたか。

堤たか雄(以下、堤):キーワードは自己否定とロマンです。

 詩人や作家の時にはロマンチストで、経営や実業に携わる時はリアリスト、その両面を持っていました。

 けれど、父自身はリアリストである自分はどうも嫌だったようなんです、どちらかというと。晩年は(堤清二氏の作家名である)辻井喬でずっといたいというのが本人の希望でした。経営から引退すると宣言をしてからは、かなり創作に力を入れていたので幸せだったのではないでしょうか。

 ビジネスの世界に情は禁物でしょう。そしてリアリストであるほど、ドラスチックに経営を実践しなくてはなりません。父もそれを実行せざるを得なかったのだと思います。

 ただ、それでもつい情が出て判断を誤って、後で「失敗だった」と本人が言っているケースがいくつかあります。(不動産開発を手掛け、セゾングループが解体する要因になった)西洋環境開発という会社を救おうとしていろいろ私財を投じましたが、「あれはもっと早くに潰すべきだった」と、本人は後悔したらしいですね。

 「あの時はちょっと情に流されて判断を誤った」というようなことを言っていました。

 父は、根本はすごく優しい人だと思うんです。例えばチョウとかトンボがクモの巣にかかって、捕食されそうになっていると、父は糸を切ってあげるんです。かわいそうだと言って。

 生態系の観点からは、クモも生きるために必死で捕食しているので、多分放っておいた方がいい。けれどロマンチストで情がとてもあったのです。テレビで高校野球の放送をしていて、どちらかが圧倒的にリードしていると、「これはかわいそうだ」「点を取らせてやりたい」なんて言っていたりしていました。判官贔屓というのがありましたね。

弱者に寄り添うという信条があったんでしょうね。

:父の視点は一貫して弱者の側にありました。体調がちょっとよくなった時に相馬市などの東日本大震災の被災地に行ったりもしていました。

 もともとが中道左派で、リベラリストだったというのが根幹にあって、威張ったりすることは絶対ダメでした。ロマンチストであり、リベラリスト。それに集約されます。

 あとは意外にも、感情の起伏のある人でした。機嫌が悪くて考え事をしている時に話しかけても、その時の答えは覚えていないんです。思考は別の方に行っているから。それを母や兄、私はよくわかっていたので、父が考え事をしている時には話しかけないようにしていました。

 また「経営者の頭」から、「詩人の頭」「作家の頭」と、ころころ変わる人でもありました。一番長く父の秘書を務めた人は、父のこの頭の切り替えについていくのが大変だったと言っていました。

 その秘書の方いわく、「経営者として話をしていたと思ったら、その直後に作家の頭になっている。だから周りの人は付いていけなかった」そうです。経営のことは分かっても、それ以外は分からない人は、どうしても多いですよね。そして、父の思考に付いていけなくて質問をすると、勉強不足だと怒られたりしていたそうです。

「お父さんと呼べなかった」

家族といる時の堤清二さんはどんな人でしたか。

:身内が言うのもおかしいけれど、私や兄にとって、父は違う次元のすごい人でした。「お父さん」という感覚ではなかったんです。それは今もありません。本人は嫌だったかもしれませんが。

 私が小学校の頃、友達の家に遊びに行くと、その家のお父さんはステテコ姿でソファにごろんと寝転んでいました。それがとても新鮮だったんです。

 私は、父のそういう姿を一度も見たことがありませんでした。カジュアルな服装の日でも、デニムとシャツ姿で、食事をして、お茶を飲んだ後には書斎に入ってものを書いたりしていました。結局、父が寝転がってくつろいでいる姿は、生涯見たことがありませんでしたね。

 あと父のことを「お父さん」と呼びづらい感じもありました。兄もそうだったと思います。ですから、亡くなる前まで、兄も私も「清二会長」と呼んでいました。「お父さん」と呼んだことはありませんでしたね。

 厳密に言えば、小学校の頃には「パパ」と呼んでいた時期もあったと思います。けれど、ある程度大きくなってからは「清二会長」。「あの」と呼びかけたり、家の中でも「会長が」って言っていたり。冗談半分で、気軽に「お父さん」と言えない感じがありました。うちの家族はみんな敬語で話していましたし、食卓も静かでした。

かなり特殊な親子関係だったのですね。

:もっと「お父さん」という感じで接すれば、父はうれしかったのかなと思ったことがありました。

 かつて一度だけ、父と私の2人で奄美大島を旅行したことがありました。帰ってきた後、「すごく楽しかった。たか雄くんと2人なのも、たまにはいいな」と言っていたそうです。だったら、もっと一緒にいろいろなところに行ってあげればよかったな、と思いました。けれど父には近づきがたい感じがあって、2人でいるとどうしても緊張しちゃったんです。父親なんですけどね(笑)。

 子供の頃から、父のことはすごく尊敬して、敬愛はしていました。けれど私自身は、「同じようにはできないな」とも思っていました。

 私が中学生くらいになると、友達のお母さんに「たか雄ちゃんは将来、私たちとは違う人にならないといけないんだから、いろいろ頑張らなきゃダメよ」といったことを言われるようになりました。

 けれど、そういうものは周りに言われるほど、冷めていきますよね。私自身、果たして父のようになりたいかと言えば、違っていましたし。

 ただ、周りの人は期待をするんです。2年間、勉強のために西武百貨店で働いていた時も、「堤派」の人は、私が継ぐのかと期待をしたようです。そう言われるほど、私は逆に冷めていったんですね。多分、兄もそんな感じなのかなと思います。

堤清二さんは、子供時代にずいぶん苦労されました。

:そうですね。「妾の子」といじめられたとか。複雑な人間関係の中で育ったのだと思います。だからこそ、反骨精神も強かったのでしょうね。

アートも時代とともに変わる

たか雄さんは今年4月、セゾン現代美術館の館長に就任されました。2006年くらいから、本格的にセゾングループの美術館の仕事に携わるようになっていきましたね。

:2006年の秋頃からですね。最初は非常勤の評議員から普通の平理事になりました。「館長の難波英夫さんのもとで少し勉強するんだったら、美術館の仕事をやっていいよ」と、父に言われまして。ただ「経営には携わるな」とも言われましたね。

2015年にはセゾン現代美術館の活動の一環として青山にセゾンアートギャラリーを出しました。

:2年と期限を決めてアートギャラリーを開いていました。狙いは2つ。

 池袋の西武美術館を1999年にクローズして、作品は軽井沢のセゾン現代美術館に集約したのだけれど、それを知らない人も多かったので、宣伝をしたかったというのが1つめの理由です。

 もう1つは、セゾン現代美術館というのは孤高の存在で、業界の中では、悪く言うと、お高くとまっているイメージがあったようなんです。でも私の中には、もっと日常的にファインアートのみならず、カウンターカルチャーやデザインの展示もやりたいという気持ちがありました。美術館の専門家になればなるほど、美術館が一番上で、ギャラリーは売買をする場所だから格下という業界内の位置づけが分かってきました。デザインは、それと同等か下と思っている人が多いんです。

 うちの学芸員も含めて、どうしてもそう考えてしまっていたんですね。それに対するアンチテーゼを示したかった。私は、どれも並列で素晴らしいし、どっちが崇高とかどっちがいいという議論はとても空虚だと思っています。「赤と青、どちらが美しいですか」という議論と一緒ですよね。

 「区別」はあれど「差別」はない。それを主張するために、東京で期間限定のギャラリーを始めたんです。

印象に残った展示はありますか。

:例えば、日本独特の、芸能人がつくるアートの1つとして、お笑いコンビ「キングコング」の西野亮廣さんの企画も開催しました。1日で3000人くらい来たのかな、ファインアートの企画でいらっしゃる人の、大体10倍くらいでした。

 1つの場所で、色々な企画を開催したので、専門家の先生からは「やっぱりあいつは何も分かっていない」「違いさえ分からないんだ」といった批判もいただきました。けれど、だからこそ一石を投じたというとも自負しています。なかなか黒字にはできなかったので、2年しか続けられませんでしたが。

今の経営者は普通なのがいい

セゾン現代美術館の館長になっても同じような理想を掲げているのでしょうか。

:話が少しそれますが、父の時代はまだ、カリスマ性のある経営者が多かったと思います。例えば、2004年、私は経済人が集まる日仏会議に出席しました。その時、日本側から参加したのは、ソニーの出井伸之会長やうちの父など、経済界を中心に大御所の方が何人か。フランス側も経済界の大御所と、政治家の方々が出席していました。

 私の目の前には出井会長がいて、私の左右に秘書の方が2人座っていた。そして、出井さんが少しでも身動きすると、秘書の方々はもう腰を浮かせて立つ準備をしている。すごいな、と思いましたね。そういう感じの大物経営者は、もう今の時代、あんまりいらっしゃらないですよね。

 ZOZOの前澤友作社長にお会いしたこともありますが、彼はこれまでの大物経営者とは違うタイプのオーラがありました。いい意味で、そういう時代になっているのだと思います。

 大きな人たちが大きな物語を紡ぐのではなくて、みんなの身近にいるような人の中で、個性が強く、「時代」をよく理解している人が成功を収め、活躍していく。そして誰でもそういう人になれる。そういう時代なのかなと思っています。

 そして美術や文化も同じようなものなのではないかと思うんです。

 今はインターネットを使って、海外から情報や画像をいくらでも引っ張ってこられる時代です。池袋の西武美術館があった頃は、まだネットのない時代でしたから、海外の珍しい芸術作品などはあそこでしか見られなかった。東京・六本木にあった音楽の館「WAVE」も同様で、あそこにいかなければ世界の珍しいワールドミュージックに触れることができなかった。

 けれど、今はどこにいても、世界を知り、触れることができますよね。誰もが気軽に取ってこられる情報を、いかに身近に活用して、気楽に楽しむか。それを提案することが重要で、今までの美術館は、そういう部分が弱かったのかな、と感じます。

 今年の夏、出張で訪れたヨーロッパの美術館で、グスタフ・クリムトの作品を使った、光と映像のインスタレーション作品を見ました。昔は美術館でそういった展示をすることは考えられなかったわけです。悪く言うと、俗っぽくなってしまいますから。けれど、それが今では展示されている。美術館でもこういった展示ができる時代なんだと感じましたね。

日本の美術館も時代に合わせて変わるべきだ、と。

:昔のセゾンを知っている人ほど、「俗っぽくなりたくない」と言ったりします。けれど時代が変わったのはいいことです。例えばファインアートはファインアートという種類で、デザインはデザインという種類で、漫画は漫画という種類で、どれがいい悪いは全くない。どれもいいと思うんです。

 昔のセゾン現代美術館のある理事は、私がちょっと漫画チックな作品をヨーロッパで買ってきて見せても、「何これ、漫画みたい」とまともに評価しませんでした。けれど、それは漫画の基準で見たら、とても良かったりするわけです。「区別はあっても差別はない」という姿勢で、「美術館って結構、気楽で楽しいですよ」と伝えていきたいですね。

(後編に続く)

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