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平成の30年間、日本はいくつもの巨大災害に見舞われた。その教訓は生かされているのか。積み残された課題は何か。ポスト平成が始まろうとしている今、災害に克つ技術に迫る。

 「今回の地震で一番驚いたのが、いつもの時間に新聞を配達してくれたこと。道新さん頑張りすぎです。何と、昨日の夕刊も、今日の朝刊も来ました」「どうやって作った?」「本当に情報に飢えていたから泣いた」。

 2018年9月6日、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)上で静かな驚きをもって受け止められた「道新の夕刊」。北海道胆振東部地震の最中に地元紙の北海道新聞が届けた夕刊についてだっだ。

 北海道新聞は実売部数約100万部(2018年)を誇り、道内シェア7割を超える地元紙。その北海道新聞は、地震が起きた当日9月6日の夕刊と翌日の朝刊をほぼ通常通りの部数で配達した。夕刊は震災から約7時間後の午前10時4分には印刷を開始、朝刊は同日午後7時9分から作業を始めた。

 北海道全域の停電により、全道6カ所の印刷工場のうち、稼働できたのは北海道北広島市にある本社工場のみ。それでも夕刊は受託印刷や他紙の応援印刷を含め約64万部、朝刊は約133万部を刷り上げた。夕刊の印刷部数は、本社工場が道央地域向けに日々印刷している部数の約6倍にあたる量だった。

9月6日の夕刊(右)は4ページ、翌7日の朝刊は1面と最終面をつなげる連版となった
9月6日の夕刊(右)は4ページ、翌7日の朝刊は1面と最終面をつなげる連版となった
(北海道新聞社許諾D1901-1904-00020785)
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 そのときは突然訪れた。2018年9月6日午前3時過ぎ。北海道新聞のグループ企業で同紙の印刷を請け負っている道新総合印刷の本社工場で、作動していた2台の輪転機が突然止まった。停電により、稼働中の輪転機が緊急停止したのだ。前日夜から印刷を開始した朝刊を刷り終わる直前のこと。約1万9000部を残して突然停止となった。

 自宅で地震を感じた製作部部長の吉田祐二、工場長の越谷和裕はすぐに本社工場に駆けつけた。自家発電に切り替え、朝刊をほぼ刷り終えようとしていた午前4時30分。社内のテレビを付けて吉田と越谷は青ざめた。全道停電――。想定外の状況だった。越谷は当時の状況をこう振り返る。「もう、わーどうしようと。ただそれだけだった」。

 道新総合印刷では、2011年に起きた東日本大震災をきっかけにBCP(事業継続計画)対策を進めていた。本社工場は自家発電装置を備え、72時間にわたり連続運転できる。1日12時間運転と仮定すると、約6日間分の新聞発行が可能だ。毎日新聞など他紙との相互援助協定も結んだ。どちらかの工場に不具合が発生した場合に、互いの工場で印刷できるようにする。

 全道6カ所ある工場について、道新総合印刷はトラブルや災害に遭った場合にどの工場が代替工場として作業を担うかも明示的に決めていた。例えば、釧路工場が被災した場合は、その代替作業は帯広工場が担う、といった具合だ。

 記事制作を行う北海道新聞も同様に対策を打っていた。1995年の阪神・淡路大震災を機に、翌96年に全社の連絡体制や新聞製作などについて定めた重大災害マニュアルを策定。編集局が取材の態勢や要領などを定めた災害マニュアルもある。

 電源は、自家発電機を2基具備。重油タンクには当時満杯の5キロリットルが入っていた。記事制作に使うコンテンツマネジメントシステム(CMS)など誌面制作に用いるコンピューターシステムに供給する電力はまかなえる体勢を整えていた。

 一方、計算上は重油が最大1日分しかもたないため、震災当初は使用しないパソコンやプリンターは電源を落とすなどの節電を社内で呼びかけた。被害の大きかった胆振管内厚真町の取材現場には、発電機を装備した取材・宣伝車を派遣。電源車としてハイブリッドSUV車も現地に急行した。ハイブリッドSUVは2012年11月の暴風雪に伴い室蘭市や登別市で起きた長時間停電の教訓を踏まえて導入されたものだった。