この原稿を書いている現時点から数えて3日前の5月21日、加計学園の獣医学部新設をめぐる問題で、愛媛県が新たな文書を国会に提出した。文書では、3年前に柳瀬唯夫元総理大臣秘書官が官邸で学園側と面会したことが明らかになっている(こちら)。

 2日後の23日には、森友学園への国有地の売却をめぐる問題で、財務省が「廃棄した」と説明してきた学園側との交渉記録が見つかったとして関連文書を国会に提出している。なお、NHKなどの報道によれば、この記録文書については、去年2月に問題が明るみになったあと、財務省理財局の一部の職員が保管してあった記録を廃棄するよう指示していたことがあわせて発覚した(こちら)。

 さらに同じ23日、防衛省が、陸上自衛隊イラク派遣部隊の日報隠蔽問題の調査結果を公表している。「防衛省は当時の稲田朋美防衛相による再捜索の指示が伝わらなかったことを要因に挙げ、組織的隠蔽はなかったと結論付けた」とのことだ(こちら)。

 よくもまあ、あとからあとからとんでもない資料が出てくるものだと思うのだが、それでは、これらの一連の新事実が現政権の致命傷になるのかというと、私は、必ずしもそういう方向には展開しないだろうと考えている。

 23日に、私はこんなツイートを発信している。

《本来なら4月に決裁文書の改竄が明るみに出た時点ですでに詰みなんだけど、今回のこの交渉記録文書の廃棄の発覚で、逃げ道は完全に塞がれた。これでもなお逃げ切れるのだとしたら、別の何かが死ぬことになるのだと思う。》(こちら

 ところが、調べてみたところ、財務省が文書の改竄を発表したのは、4月ではなくて3月の12日だった。ということは、私のツイートにある「4月に決裁文書の改竄が明るみに出た時点で」という表現は、間違いだったことになる。この場でお詫びして訂正しておくことにする。

 とにかく、この事件をずっと注視してきたつもりでいる私にしてからが、文書改竄発覚の日時を失念していたわけだ。この事実を見てもわかるとおり、いわゆる「モリカケ問題」は、次々と新事実が暴露されている一方で、順調に風化が進んでもいる。もしかしたら、このまま尻すぼみで忘れられるかもしれない。

 今回は、この点について考えてみる。

 モリカケ問題の風化と、できれば、風化した後にやってくる未来について、触れることができれば有益かもしれない。

 国会に提出された財務省の文書と愛媛県の文書は、色々な意味で、容易ならざる事実を物語っている。

 たとえば、総理夫人である安倍昭恵さんの関与を強く示唆する記述が含まれている。それとは別に、安倍首相が加計学園による獣医学部新設の計画を3年前の段階で知っていたことを疑わせる文言が各所に散見されていたりもする。いずれにせよ、現政権にとっては、極めて不都合な資料だ。

 ということはつまり、事態はまさに、安倍首相ご自身が、昨年の2月17日に国会の答弁の中で

「私や妻が関係していたということになれば、まさにこれはもう私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい」

 という、強い調子の言葉とともに全面否定した、国有地取引への「関与」を裏付ける方向で推移しているわけで、してみると、安倍首相は、今回出てきた文書に追い立てられる形で、自ら職を辞することになるのだろうか。

 私は、ここでも、そういう事態には立ち至らないだろうという観測を抱いている。
 なぜかといえば、なにがあろうと30パーセント以下に数を減らすことのない確固たる政権支持層が、いわゆる「モリカケ問題」を、結局のところ、問題視していないからだ。

 別の言い方をするなら、「モリカケ問題」を理由に政権への支持をひるがえすタイプの国民は、とっくの昔に政権を見捨てているのであって、今年の3月の段階でなお政権を支持していた人々は、この先モリカケ問題でどんな新事実が浮上しようが、決して安倍支持を引っ込めるようなことはしない、ということだ。

 ごぞんじの通り、政権のコアな支持層の中には、
 「モリカケ問題は、マスゴミやパヨク連中によるフェイクニュースにすぎない」
 「あることないことを針小棒大に報道する捏造だ」
 「安倍さんには一点の曇りもない」
 「陰謀だ」
 という見方を牢固として捨てない人々が一定数含まれている。

 とはいえ、私の見るに、その種のいわゆる熱狂的な「アベ信者」は、声が大きいだけで、見かけほど数が多いわけではない。

 多くの政権支持層は、実のところ、モリカケ問題が「クロ」であることに気づいているはずだ。彼らは、メディアで語られている事件の構図のすべてに関して安倍首相が責任を負うべきだとまでは考えていなくても、少なくとも「モリカケ」事案の一部に首相や夫人が関わっていたことについては、内心、すでに認めているはずだと私は思う。

 で、ここから先が大切なところなのだが、日本人のおよそ3割を占める政権支持層は、モリカケ案件に総理夫妻が関与していたことを承知していながら、それでもなお、
「それがどうしたんだ?」
 と考えて、そのことを、辞職に値する不祥事だとは考えていないのだ。

 戦後の政治家は、大筋において、なんらかの意味で利益誘導を心がけている人々だった。

 地元に鉄道の線路を引っ張ってくることを手始めに、地場産業の育成や、大手企業の誘致、高速道路計画の立案や原子力発電所の建設に伴う周辺自治体への補償などなど、地域選出の議員は、当然のつとめとして地元のために国の予算を使わしめることに力を尽くした。また、いわゆる「族議員」と呼ばれる議員たちも、自分に票と議席をもたらしてくれた特定の業界や団体の意を受けて、利益誘導をはかることを特段に後ろめたい仕事だとは考えていなかった。

 というのも、昭和の常識では、議員が為すべき第一の仕事は、すなわち自分を選出してくれた地元や業界や後援会組織や宗教団体への恩返しをすることだと考えられていたからで、それゆえにこそ、わたくしども20世紀の人間の多くは、そうやって様々な地域や組織や支援団体や圧力団体が、選挙を通じて利益誘導のための代議士を飼うことそれ自体を、民主主義の実相と信じて疑わなかったのである。

 そのデンで行くと、安倍さんが自分の親しい友人が経営する学園グループのためにひと肌脱いだことは、身内びいきのそしりは免れ得ないのだとしても、一人の人間として見れば、ごく自然な感情の発露でもあるし、昭和の常識から考えれば、むしろ頼りになる政治家(←「おやじさん」とか呼ばれるタイプの)としての当然の振る舞い方だったと言って良い。

 森友学園のために助言や協力を試みたのも、自分の政治的信条に共鳴してくれている教育者を応援しようとした熱意のあらわれであって、たしかに、公正な行政手続からはみ出している部分があったことは否定できないのかもしれないが、それにしたところでたいした問題ではない。というのも、政治家の「影響力」とは、つまるところ「公正な行政手続からはみ出すこと」そのものを指す言葉なのであって、だとすれば、「公正な行政手続を多少とも歪曲させる」ことができる政治家こそが、結局のところ「強い政治家」だということになる。

 実際、一部のマスコミや有識者が、政治腐敗の極致であるかのようにことさらに批判している「ネポティズム」(縁故主義)を、
 「そんなに悪いばっかりのものでもないだろ?」
 と考えている日本人は少なくない。

 現実に、仕事の回し合いや、社員の採用でも、縁故主義はわれわれの社会の有力な基本線であるわけだし、民間であれお役所であれ学校であれメディアであれ、われわれは、あらゆる場面でよく知った顔を優遇し、よく知っている人々に特別扱いを受けることで自分たちにとって居心地の良い社会を育んでいる。とすれば、お上品ぶったメディア貴族の記者連中や、きれいごとの言論商売で口を糊している腐れインテリの先生方がどう論評しようが、オレは非人情で公正な四角四面の政治家なんかより、清濁併せ呑む度量をそなえた懐の深い人情味溢れた昔ながらの政治家の方が好きだよ、と考える人々が一向に減らないことを、一概に日本社会の後進性と決めつけてばかりもいられないのだろう。

 その種の、現実に目の前で起こっていることこそが人間の社会の本当のリアルで、本に書いてあるみたいな小難しいリクツは、要するにアタマの良い連中がこねくり回してる絵図以上のものではないと考えている人々にしてみれば、あらまほしき立憲政治の建前だの、正しい民主政治の手続きだのみたいなお説教は、

 「なんだかタメになりそうなお話だけど、オレは忙しいんで、ひとつそこにいる猫にでも教えてやってくれよ」

 と言いたくなるテの退屈なお題目なのであろうし、憲法にしろポリティカル・コレクトネスにしろ一票の重さにしろ文書主義にしろ、その種の社会の授業の中で連呼されていた一声聞いただけでアクビの出て来るタイプの言葉には、嫌悪感は覚えても、ひとっかけらの親近感も感じないはずなのだ。

 つい昨日、ツイッターのタイムラインに流れてきた画像で考えさせられたのは、「月刊WiLL」という雑誌の6月号の写真だった(こちら)。

 見ると、表紙の一番右に
 「危機の宰相は独裁でいい」
 という大きな見出しが掲げられている。

 編集部がこういう見出しをトップに持ってきたことは、この種の主張を歓迎する読者がそれだけいることを見越した上での判断なのだとは思う。

 おそらく、信頼できる独裁者による政治のほうが、いつも議論ばかりしていて話が先に進まない議会制民主主義の非効率な政策決定過程よりもずっと合理的で果断でスピーディーであるはずだ、と考えている有権者は、おそらく多い。

 で、そういう人々は、立憲主義が危機に陥っていようが、文書主義が死に直面していようが、
 「そいつらは、やけにカラダがよわいんだな」
 くらいにしか思わないわけで、結局のところ、弱い者の味方をしているつもりでいるいい子ぶりっ子の連中の言い草が不愉快なわけだ。

 モリカケ問題を扱ううえでの難しさは、国会での不毛なやりとりをずっと見せつけられていると、「些細なネポティズムを騒ぎ立てて政局を作ろうとしている野党よりも、とにかく国策を進めようとしている与党の方がずっと誠実だ」というふうに見えてきてしまうところにある。

 実際、法案の審議に対してどちらが誠実であるのかという一点だけについていえば、たしかに、与党の方がマトモに審議しようとしていることは事実だからだ。

 ただ、どうしてスケジュール通りに法案の審議に入れないのかの理由は、野党が妨害しているからというよりは、政権の側が答えるべき質問にマトモに答えていないからだ。

 与党ならびに関係省庁が、重大な疑惑についての文書を隠蔽し、廃棄し、改竄して、質問をはぐらかしているからこそ国会が空転していることを忘れてはならない。

 ……と、この種のお説教を書いていると自分ながら空しくなる。

 なぜというに、私がいま書いたみたいなことは、わかっている人には言うまでもなくわかりきった話だし、聞く耳を持たない人々にとっては、目障りなだけのクズだからだ。

 ということは、私の文章を読んで目が開かれたり啓蒙されたりする人間は一人もいないのであろうな。

 話題を変えよう。
 日本大学で起こっている恐ろしくも不毛な出来事に関連して、私は、23日の未明に

仮にも日本一の規模を誇る大学の広報が、これほどまでに醜い弁明を平然と開示している現今の事態は、この一年の国会答弁が、言葉を軽視する風潮を蔓延させてきた流れと無縁ではないはず。→「つぶせ」は「最初から当たれ」という意味 日大が主張:朝日新聞デジタル
 というツイートを書きこんだ。

 このツイートには、私を「アベノセイダーズ」であると論評するタイプの反論が多数寄せられた。

 私の書き方に曖昧な点があったことは認めなければならない。

 たしかに、虚心に読み下すと、このツイートの論旨は、オダジマが、日大の広報がバカな弁明を並べ立てた「原因」を、国会において不誠実な答弁を繰り返している安倍政権による悪影響に求めているように見える。

 私の真意は少し違う。
 書き方として、そういう書き方になっているが、私が伝えたかったのは、

「安倍政権がこの1年以上国会を舞台に繰り広げている日本語の成り立ちそのものを毀損する悪質な言い逃れの答弁と、日大の広報がこのたびの悪質タックル事件に関する弁明として告知した、文脈を無視して形式論理上の曲芸に逃げ込むテの立論は、その本質において同質であり、いずれも、言葉の機能を偏頗な論争技術の道具に堕さしめている点で極めて社会を害するものだ」

 ということだ。つまり

「われわれの周囲にあまたある腐敗は、どれもこれも同じ腐臭を放っている」

 という観察を言葉にしたものでもある。
 その「腐臭を放っているもの」に、もし名前をつけるのであれば、いっそ「日本」と呼んでもかまわない。

 してみると、私のアカウントに押し寄せて、「反日」というレッテルを貼って行った人たちの言い分にも一理はあったわけだ。

 このツイートに先立つ3日ほど前の5月19日に

《安倍さんについてなにがしかの論評すると、必ずや「どうしてそんなに日本がきらいなのですか?」という感じの質問が届く。一応マジレスしておく。日本が好きだからこそ、政権のやりかたに反対せねばならないケースがある。それだけの話だ。どうしてこんな簡単なことがわからないのだろうか。》(こちら

 という内容のツイートを投稿したのだが、これには、7988件の「いいね」が付き、198件のリプライが押し寄せた。

 私を「反日」と呼ぶ人たちが想定している「日本」と、私が、「腐臭を放っている実体」として名付けようとした「日本」は、正反対のものだ。
 思うに、様々なズレは、ここにはじまっている。

 ともあれ、大切なのは、われわれが暮らしているこの日本の社会が、この5年ほどの間に、いけずうずうしい言い訳を並べ立てる卑劣な大人や、三百代言顔負けの聞くに堪えない屁理屈を押し出してくる商売人の目立つ、どうにも不愉快な場所に変化しつつあるということだ。

 その原因のすべてを安倍政権に押し付けるつもりはない。
 私は、言葉というコミュニケーションツールへの基本的な信頼感が、根本的な次元で損なわれていることの原因の少なくとも一部は、国会答弁の中でこの1年来繰り返されているあまりにも不毛な言葉のやりとりにあるはずだ、とは考えている。
 しかしながら安倍政権もまた、変化した「日本」の影響を受けていることは間違いないからだ。

 なので、私は日本を取り戻さなければならないと考えている。
 ん? この点では、安倍さんと一致しているのだろうか。

 具体的にどんな日本を取り戻すのかについて、果たして歩み寄りの余地があるものなのかどうか、しばらく考えてみたい。その前に、「自分を取り戻せ」とか言われそうだが。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

「リンゴは果物です」と言うと「バナナは果物じゃないと言うんですね!」と言われる……
そんなツイート(大意です)を読んで、私が辛いのはそれだと膝を打ちました。
(どなたの発言だったのかが見つけられません、どなたかご教示くださいませんでしょうか)

 小田嶋さんの新刊が久しぶりに出ます。本連載担当編集者も初耳の、抱腹絶倒かつ壮絶なエピソードが語られていて、嬉しいような、悔しいような。以下、版元ミシマ社さんからの紹介です。


 なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
 30代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
 と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
 なぜ人は、何かに依存するのか? 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて

 日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
 現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!

(本の紹介はこちらから)

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