今回は、いわゆる「高度プロフェッショナル制度」(以下「高プロ」と略記します)について、現状で考えていることを書き残しておくつもりだ。

 「高プロ」を含む働き方改革法案が、この先、参議院での採決を経て可決・成立することは、もはや既定の路線だと思っている。与党側の勢力が3分の2に迫る議席数を確保している以上、しかたのないことだ。

 野党の側に抵抗の手立てがまったくないわけではない。たとえば、衆院でやっていたみたいに、審議を拒否することで法案の成立を遅らせることができる。あるいは、不信任決議案の提出で揺さぶりをかけたり、牛歩戦術や長時間の演説で議事の進行を妨げることもできるだろう。

 だが、法案の可決・成立そのものを阻止することはできない。時間稼ぎをして、有権者に抵抗したことを印象づけるのが精一杯だ。

 その種の時間稼ぎの抵抗が、有権者への効果的なアピールになるのかどうかも疑問だ。
 というのも、審議拒否を続けることは、そもそも議会政治の基本に忠実な態度とは言えないからだ。通るはずもない不信任案を提出することも同様だ。そんな形式的な抵抗に喝采を浴びせる国民が、いまどき、そうたくさんいるとは思えない。

 要するに、この先、野党側がどんな手を使ってどんなふうに抵抗してみたところで、法案が成立する状況は動かしがたいということだ。

 野党勢力ならびにマスメディアにできることがあるのだとすれば、法案の内容とその成立過程を粛々と伝えることで、有権者の記憶の中に次の選挙での有権者の投票に際しての判断材料を刻みつけることだと思うのだが、その作業も、あまり成功しているようには見えない。

 仮に、なんとか伝えることができたのだとしても、次の選挙の時に、有権者が国会で起こっていたことの仔細を覚えているのかどうかは結局のところわからない。

 そんなわけなので、小欄としては、法案成立前にオダジマがアタマの中でうじうじ考えていたことを記録しておくことで、せめて後知恵の繰り言を並べる時のための参考資料を積み上げておく所存だ。

 最初に「高度プロフェッショナル制度」という用語について整理しておく。

 そもそもの話をすれば、この制度の元来の名称であった「ホワイトカラー・エグゼンプション」がひどく難解だった。モロな横文字を何の工夫もなく並べ立ててみせただけのこの言葉は、当然ながら、一般には理解されなかった。

 ために、この言葉が持ち出された第一次安倍内閣では、ホワイトカラー・エグゼンプションは、さんざんな悪罵の中で取り下げられ、そのまま10年ほど雌伏の時を過ごさねばならなかった。

 で、その呪われたブラックオフィス・エグゼンプションならぬホワイトカラー・エグゼンプションが、第二次安倍内閣の発足とともに「高度プロフェッショナル制度」と看板を掛けかえて息を吹き返しているのが現在の状況だ。

 たしかに、「高度プロフェッショナル」の方が語感としてはわかりやすい。
 とはいえ、わかりやすい分、誤解を招く余地が大きくなってもいる。

 「ミスリード」と言い直しても良い。あるいは総理周辺の人々が好む言い方を採用するなら「印象操作」という言葉で言い換えても良い。
 いずれにせよ、実態を正しく説明していない。

 個人的な感覚では「残業代ゼロ制度」とでも呼んでおくのが、とりあえずの呼称としては、最もその内実を穏当に説明しているのではないかと思っている。

 とにかく、確実に言えるのは、この制度を表現する呼称として「高プロ」という用語が定着してしまっていること自体が、言葉を扱う産業であるメディアの敗北を示唆しているということだ。

 「高度プロフェッショナル制度」なる用語から普通に連想されるのは「高度で専門的なプロの労働者の働き方をサポートする制度」といった感じのニュアンスだ。

 前向きな響きと言って良い。

 ところが、制度が担保しているのは、一定額以上の報酬を得ている労働者の労働時間の制限を規制の対象から外すということに過ぎない。具体的には、1075万円以上の年収を得ている一定の業種(労働時間と成果が結び付きにくい仕事)について、労働時間の制限を撤廃し、あわせて残業代の支払いも不要とする改革が、「高プロ」の目指すところであるわけだ。

 労基法による規制の一部を撤廃するわけだから、政府の言う「働き方の柔軟性を高める」という説明に、ウソがあるわけではない。自由な時間に出退勤できるとなれば、さっさと仕事を終えて帰れるかもしれない。

 とはいえ、その「柔軟性」は「制限時間を超えて働くことができる」という、より過酷な方向への変化を許すものでもある。しかも、労働時間の規定が取り払われた以上、残業手当が発生する理由も根拠も消滅する。

 安倍総理は、国会答弁の中で、高プロが「労働時間に対してではなく、成果に対して報酬を支払う改革」である旨の説明をしている。ゆえに「優秀な人ならば、短時間で成果を出して、これまで通りかそれ以上の給与を得られる」ということだ。残業代が出ない以上、いやでも効率を考えるようになり、結果的に時短になるということもあるだろう。

 だが、この説明は十分と言えるのだろうか。

 労働時間に対して対価を支払うことへの経営側の義務は外されている。
 一方で「成果に対して報酬を支払う」点については、法案の中に、その基準や評価方法を明記した条文が存在しているわけではない。業種や働き方が違うのだから当然だが、それはつまり、「働かせる側と働く側で話し合ってね」ということだ。

 ということは、「労働時間に対してでなく、成果に対して報酬を支払う」という政府側の説明は、あくまでも、「時間に対して支払うのでない以上、成果に対して支払うと考えるのが自然だよね」という「感想」ないしは「観測」を表明した程度のものに過ぎない。

 それ以前に、「高度プロフェッショナル」という、この、なんだか中二病くさい二つの単語を並べてみただけに見える語感が、すでにしてゴマカシの匂いを発散している。

 「高度でイケてるプロフェッショナルの社員は、残業代がどうしたとかチマチマしたこと気にしないと思うぜ」
 「だよな。ゴルゴ13だとかビヨンセだとかが残業代申請の書類書いてる姿とか、まるで想像できないし」

 と、うっかり者の就活生なら、あるいはそんなふうに受け止めて

「高度プロフェッショナルかっけー」

 てな調子で、残業代ゼロの働きっぷりに憧れてくれるのかもしれないが、世間の労働者のすべてが夢見る就活生でないことは、ご案内の通りだ。

 制度を推進する側の人々が説明しているところによれば、
 「企業側から高プロの導入を打診されても、労働者の側がその申し出を拒絶する権利が保障されているので、労働者が過重労働に駆り立てられる心配はない」
 ってなことになっている。

 私は、この説明には少しく疑問を抱いている。
 というのも、現在の日本の職場環境では、経営側の申し出を拒否できる労働者が多数派であるとはどうしても思えないからだ。

 30年以上前の話ではあるが、私自身、会社側からのオファーを拒絶することの困難さを、身をもって経験している。以下、その時の状況をお伝えしておく。

 1980年の秋、私は、新卒で入社した会社での最初の年の慰安旅行への参加を拒絶した。
 旅行は、建前としては自由参加ということになっていた。
 なので、私は
 「あ、じゃあ、行きません」
 と簡単に答えた。
 ところが、これは、簡単な話ではなかった。

 まず、出欠確認を担当していたレク係の先輩社員が説得してきた。

 「あのな。慰安旅行っていうのは、ほら、みんな新入社員の参加を楽しみにしてるもんなんや」
 「はあ」
 「わかるやろ? ジブンが出ないと、みんなガッカリするんやで」

 それは、まあわかっていた。というよりも、色々と問題の多い新入社員である私に、じっくりと説教をカマす機会を狙っている先輩社員が山ほどいることを察していたからこそ、旅行への参加を見合わせたというのが実態に近い。

 「でも、自由参加ですよね」
 「まあ、タテマエはそうや」
 「じゃあ、行きません」
 「……あのな。そういう言い方されると、オレとしては、上の方に合わせる顔がなくなるんや。わかるやろ?」
 「たとえば不参加の理由を、骨折が完治してないので足が痛むからぐらいにしたらどうでしょうか?」

 次に出てきたのは課長で、この人は露骨に恫喝してきた。
 「君は会社で働くということをどう考えてるんだ?」
 「と申しますと?」
 「みんなが参加する慰安旅行から逃げ出して、同じ営業部の仲間として受け入れられると思っているのか?」
 「えーと、強制参加というお話はうかがっていないのですが」

 ここから先の話は、もう言うも愚かというのか語るに落ちるというのか、結局のところ課長の恫喝の後には、副部長による呼び出しが待っていたわけで、ことここに至った以上、私に残された選択肢は、全面降伏してあらゆる関係者に土下座謝罪し、おとなしく慰安旅行に参加したうえで説教百人組み手の生贄になるのか、でなければそのまま退社するかの二筋の道だけだった。

 あれから30数年が経過して、日本の労使環境は、多少は改善しているのだろうか。
 私には知るよしもない。
 が、根本の部分は、そんなに変わってはいないと、なんとなくそう思っている。

 高プロの対象となるような、年収1000万円を超えるビジネスパースンは、会社にとっても欠かせない人材なのであろうからして、その彼ら彼女らなら、あるいは経営側を向こうに回して、対等の条件闘争を繰り広げることも可能なはずじゃないか、などと、そういう幻想を抱いている若者が、青年漫画誌の愛読者の中あたりにはまるでいないわけでもないのだろうが、そこには大きな勘違いがある。

 ある社員が年収1000万円超の条件で高級優遇されているのは、そもそも、彼が現在の地位に登りつめるまでの間に、それだけ会社に対して忠誠を尽くしてきたことの現れであるに過ぎない、のかもしれない。

 だとすれば、その、「決してノーと言わない」資質を評価されて出世を果たした社員が、どうして高プロのオファーだけを選択的に拒絶できるものだろうか。無理だ。不可能にきまっている。
 
 つい2、3日前、この高プロ制度をめぐって、さる企業の役員と弁護士が、ツイッターを舞台に論争的なやりとりをしていたのだが、この中で発信されたいくつかのツイートが結果として炎上して、話題を呼んでいる。

 詳しい経緯は、まとめサイトなどを探して頂きたい。当欄では、以下にいくつかのツイートを引用するにとどめておく。

 まず、弁護士の嶋崎量氏の

《解雇理由無くても、仕事干され、追出部屋送りされ、屈辱的業務やらされ、面談で自称人事コンサルにいびられ、反省文書かされ、自宅待機させられ。。。 年収1075万以上でも、大手はそんな労働者たくさんいますが、交渉力などないから労働弁護士に依頼してるのです。 幻想を語らんで欲しい。》
こちら

 というツイートに対して、スタートトゥデイのコミュニケーションデザイン室長である田端信太郎氏が、そのツイートを引用した上で

《弁護士である貴殿にお聞きしますが、残業拒否は解雇理由や懲罰理由になります?物理的に鎖で繋がれてるわけじゃないんだから、自分の仕事はしたうえで、残業拒否して勝手に帰ったら?クビですか?高プロで年収1100万円ぐらいって無敵では?査定で給料下げられたら、高プロ該当者から外れるわけだしw》
こちら

 という質問を投げている。

 でもって、しばらくやりとりがあった後、田端氏は、過労死の問題に触れて

《自殺だから一義的に自己責任なのは当たり前でしょうが。上司が屋上から物理的に突き落としたりしたのですか? そんなに追い込まれても、会社なんて辞めて生活保護受ければいいわけです。あなた達、弁護士は訴訟になったほうが儲かるけどね。》
こちら

 と、断言している。

 私の方からは、引用したツイートの文言を論評することはしない。読者各位がそれぞれに判断してほしい。

 念のために付言すれば、上記のツイートについては、論争に熱中する中の「売り言葉に買い言葉」的な状況で発信された言葉であることを含みおいておく必要がある。

 その意味で、私は、ここに引用した言葉が田端氏の思想の全体であるとは考えていない。
 おそらく、「言葉が過ぎた」という中での一言に過ぎないのだろう。

 ならばわざわざここに引用したのはなぜかと言えば、たまたま田端氏のツイートの形で現れたこれらの言葉は、あるタイプの人々が抱いている典型的な思い込みだと考えるからだ。

 その「思い込み」は、最近よく言われる「生存者バイアス(生存バイアス)」という概念で説明されているところに近い。

 生存者バイアスというのは、戦場なりビジネスの世界なりで成功した人が、自分の成功を基準にすることによる判断の曇りを指す言葉だ。たとえば、ウサギ跳びを繰り返すことで強い足腰を作ったと自負するスポーツマンが、コーチとして指導する選手にウサギ跳びを強いる、みたいな事例に相当する。

 そのコーチが1日数百回のウサギ跳びを繰り返しても膝を壊さなかったのは、生まれつき人並み外れて強靭な筋肉や関節に恵まれていたのか、でなければ、単にインチキなウサギ跳びを習得していたからなのだが、その話とは別に、コーチが普通の成長期の子供に過剰なウサギ跳びを強要すれば、多くの場合膝を損傷する結果を招くことになる。

 現実に発生する生存者バイアスとは、結局、地雷原を歩き抜いて生き残った100人のうちの1人だけの言葉を金科玉条としてしまうテの認識の誤りなのであって、どこが間違っているのかというと、そのおおもとは、地雷原で死んでしまった99人の失敗者の証言がそもそもまったく取り上げられないという、取材源の偏りないしは観察範囲の偏りなのである。

 高プロは、社会の中で発生するさまざまな軋轢や矛盾を、市場原理に委ねることで解決しようとする考え方の延長にある施策だ、と私には思える。

 市場原理主義を標榜する論者は、商品だけでなく、労働力もまた、労働市場の中での自由な競争に揉まれながら、自らの商品価値に見合った適正価格に近似して行くべきだ、と考えている。

 労働市場が従来の規制や慣習から解放され、完全に自由化されれば、労働者の側に、転職、退職の自由が保障され、一方、雇用者の側には解雇の自由がもたらされる。でもって、個々の労働者は自身の労働者としての商品価値を武器に、それをなるべく高く買ってくれる雇用者に売ることで自己の価値を高めることができる。

 一方、雇用者は雇用者で、その時々に応じた労働者を、その時点での価値にふさわしい報酬で暫時雇い入れることができる。とすると、両者の交渉が公正である限りにおいて、両者の利益はWIN-WINではないか、というのが、この人たちの主張するところの大枠だ。

 この立場を代表する論客である竹中平蔵氏も、つい先日、NHKの「クローズアップ現代+」という番組に出演して、高プロの必要性について

 「規制を外すのではなく、規制の仕方を変えるのです」
 「これを入れていかないと、日本の明日はない」
 「適用する人が1%じゃなくて、もっともっと増えていかないと日本の経済は強くなっていかない」

 と、熱弁している。

 おそらく、氏の脳内にある設計図の中では、この先、1075万円以上という年収の枠を徐々に引き下げて、より多くの労働者が勤務時間や残業手当といった概念とは無縁な働き方をすることで、日本経済を再生させるプランが動いているのだろう。

 個人的には、労働者から残業手当を召し上げることが、現場から残業を駆逐することにつながるとは思っていない。

 日本中のラーメンからチャーシューを取り除けば国民の肥満が解消できるのかどうかについて考えることが無駄だとは言わないが、私はそのラーメンを食べたいとは思わない。 

 いわゆる新自由主義者が市場原理を愛するのは、それがシンプルで強力な原理だからでもあるが、私の思うに、それ以上に、成功者に優しいからだ。

 というのも、市場原理の要諦は、「強く優れた者だけが市場の試練を生き残る」ということで、これを逆方向に読み解くと、「富める者は正しい」「勝ち残った私は正義だ」「競争に勝ち残った人間は優れた人間である」という現世通行証の発行機関になるからだ。

 かくして、「市場を通じて正しい者が生き残る」という原理は、「富める者である私は市場をお墨付きを得た正しき現代人である」という同語反復を経て無敵のオラオラ道徳として結実するに至る。

 彼らのアタマの中では、経済弱者や失業者が疲弊するのは悪いことではない。

 むしろ弱く劣った者に過酷な罰がくだされることこそが市場の神の託宣であるのだからして、弱者が滅びることは、それだけ社会全体が強化されることだというふうに積極的に解釈される。

 でもって、弱者救済だの社会保障だのというリクツを振り回しているヤカラは、「お花畑ピーポー」「いい人ぶりっ子」「偽善左翼」「お涙リベラル」ぐらいな名前をつけて嘲笑しておけば一件落着、ってなことになる。

 現在、自らを成功者であると自覚していればいるほど、高プロを受け入れてしまいやすい構図が、こうして成立する。

 おやおや。
 なんだか荒れた結論になってしまいましたね。
 でも、フォローはしません。荒れた気持ちの時は、荒れた言葉を吐き出すのが私の健康法だからです。
 また来週。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

「自分が正しい」と信じるために成功を目指して働く、ってことですか。
「高プロ」というよりヴェーバーの「プロ倫」みたいですねー(すみません、半可通です)。

 小田嶋さんの新刊が久しぶりに出ます。本連載担当編集者も初耳の、抱腹絶倒かつ壮絶なエピソードが語られていて、嬉しいような、悔しいような。以下、版元ミシマ社さんからの紹介です。


 なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
 30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
 と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
 なぜ人は、何かに依存するのか? 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて

 日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
 現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!

(本の紹介はこちらから)

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