1人の人間が、週に1度以上の頻度で原稿を書くのは、たぶん、不自然なことなのだ。

 私の場合、各方面の媒体に掲載している記事を合算すると、ひと月あたりでおよそ十数本だ。実に、2日に1本のタイミングで原稿を書いている計算になる。

 これは、異常なことだ。
 であるから、コメント欄にも、ときどき

 「何も話題が見つからないのなら、無理に書く必要はないのですよ」

 という感じの、あたたかいアドバイスが寄せられる。
 おっしゃる通りだと思う。
 私自身、書かないことに対して原稿料が発生するのであれば、ぜひそういう仕事ぶりで生計を立てたいと思っている。

 「今週は特に書きたいことがないので原稿は書きません。読者のみなさんは、真っ白な画面を眺めつつ、各自瞑想を楽しんでください」

 みたいなテキストでお茶を濁せたらどんなに素晴らしいことだろう。

 それでも締切はやってくる。
 それゆえ、私は今日もなにごとかを書かねばならない。
 こういうことが続くと、結果として、いつも愚痴ばかりを書いている始末になる。
 読み返して、つくづくいやになる。

 こういう感情を抱いている人は少なくない。
 どういうことなのかというと、世間にあふれている文章やメッセージやコンテンツが、どれもこれもネガティブであることに疲労感を覚える人たちがたくさんいるということだ。

 このあたりのことについては、ずっと昔、ある人物と言い争いをしたことがある。
 発端は、私の書いたある文章について、当時、親しく行き来していた友人が

 「人々に否定的なメッセージを与えるべきではない、とボブ・ディランが言ってたぞ」

 という感じの感想を伝えてきたことだった。
 ごく控えめな口調ではあったが、その論評は、私の痛いところを突いた。

 私は反射的に

 「そのボブ・ディラン氏ご本人から、オレは、否定的なメッセージを山ほど受け取っているぞ」

 と、言い返した。
 実際、私は、ボブ・ディランの作品を聴くと、ネガティブな気分を増幅されることが多かった。というのも、私は、もっぱらディラン氏の歌いっぷりの中にある底意地の悪さや辛辣さに大いに共感している聴き手だったからだ。

 その私の抗弁に対して、私よりはるかに音楽に詳しかったその友人が言ったのは、以下のような言葉だった。 

 「それは違うよ。ディランは彼自身が直面している否定的な状況について歌っているだけで、メッセージそのものが否定的なわけじゃない」

 なるほど。
 そう言われてみれば、ディラン先生は、聴き手に向けて直接に否定的な言葉を投げかけているわけではなかった。私が彼の作品や発言から否定的なメッセージを受け取っていたのは、私の中にあるネガティブな何かが、作品の中に結晶している特定の要素に反応していた、ということだった。

 ともあれ、メッセージの受け手に向けて否定的な感情をぶつけることは、呪い以外のナニモノでもない。そう思って、以来、私は、読者に対してはなるべく誠実であるように努めてきたつもりなのだが、その努力が常に成功していたとは限らない。

 読み返してみると、私の書く原稿の行間からは、ときに、明らかな呪いが漏れ出してしまっている。むずかしいものだ。

 今回は、「否定的なメッセージ」についてあらためて考えてみたい。

 いまさらこんな話を持ち出すのは、私が自分自身の否定的な感情に疲れているからでもあるし、うちの国の社会全体に、そんな気分(←具体的に言えば「ネガティブな話はもうたくさんだ」という感情)が蔓延している気がするからでもある。

 7年前の東日本大震災以来、さまざまな前提がリセットされたと、私は、そう思っている。

 より詳しく述べれば、それまで当然とされていた「常識」や、説明抜きで共有されていた「気分」が、いったんゼロリセットされて、それぞれに意味付けを再考されたうえで、あらためて再設定されつつあるということだ。

 その、再設定されつつある前提のひとつに、「言論のたたずまい」がある。

 わかりにくい言い方で恐縮なのだが、震災以来、私の目には、各方面の言論が、険しく辛辣な口調を帯びるようになっている一方で、逆の局面では、ひたすらにヌルく、微温的な方向に誘導されているようにも見えるのだ。

 われわれは、分裂しつつある。
 仮に、その分裂が、声高に叫ぶばかりの方向と、目と耳をふさいで自閉することを選ぶ方向への、二極化した分裂であるのだとすると、われわれの社会は、いずれ瓦解せざるを得なくなる。私は、その、ほぼ必ずやってくる近未来の到来を懸念している。

 震災直後の1カ月ほど、マスメディア発の報道もさることながら、ネット上のメッセージは、どれもこれもヒステリックな方向に傾いていた。

 ツイッター上でも、“放射能の恐怖”を煽るタイプの言説と、逆にその種の主張を冷笑する書き込みが強い口調でやりとりされていた。

 そんななか、震災後ひと月半ほどを経た2011年4月24日に、糸井重里氏が

《ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。「より脅かしてないほう」を選びます。「より正義を語らないほう」を選びます。「より失礼でないほう」を選びます。そして「よりユーモアのあるほう」を選びます。》
こちら

 とツイートした。
 このコメントが、当時のささくれだったネット内の空気をやわらげた効果の大きさを、私はいまでもよく覚えている。

 どんな状況であっても、メッセージや主張の内容そのものにではなく、口調や「ものの言いかた」に注意を向けることで改善されるあれこれが、たしかに存在する。特に、2つの相容れない陣営が相互に攻撃的な言葉を交わし合っていたあの時点では、言葉の中身よりも言葉の外見に気を配ることが、なによりも重要な意味を持っていた。そのことに気づかせてくれたあのツイートは、まるでコロンブスの卵みたいな、不意討ちだった。

 さて、そんなこんなで、特別な緊張にさらされていたあの困難な半年ほどの期間をくぐりぬけた後、私たちの社会は、徐々に平静さを取り戻しながら現在に至っているわけなのだが、震災を契機に険悪化・党派化してしまった言論状況は、いまでもまだ完全には正常化していない。

 たとえば、震災以前の段階では、おおまかな傾向としての立場の違いはあっても総体としては客観報道を旨としていた新聞社や放送局が、震災を機に、自社の思想的・政治的な立場を露骨なかたちで表に出すようになっている。

 このこと(言論機関が中立であることよりも、自社の旗幟を鮮明にすることに重きを置くようになったこと)が、それ自体として間違っているとは思わない。

 ただ、新聞各社が、建前として両論併記を心がけていたタイプの事案について、震災以降、あからさまに自説(オピニオン)を主張するようになったことで、新聞が、起きている事象の事実としての側面(ファクト)を虚心に確認するための媒体として、信用しにくくなってしまっている傾向は否めない。

 ネット上の言論も、目に見えて党派的になっている。
 一部では、一定の主張に沿った書き込みをする書き手に対して、一件あたりいくらという報酬を支払うことで、ネット上の論争を優位に進めようとしている勢力の存在が噂されていたりもすれば、号令一下集団的な方法で特定のターゲットへの攻撃的な書き込みを集中させるアカウントが暗躍している。

 結局のところ、2つの相容れない陣営が対立している状況では、双方とも、一方的にやられっぱなしではいられない以上、卑怯な方法に打って出なければおさまりがつかなくなる。

 かくして、匿名の言論はどこまでも荒れる次第なのだが、その一方で、無視できないのは、人々の間に議論という行為そのものへの根源的な次元での忌避感が蔓延していることだ。

 声高に叫ぶ人々が目立つ一方で、多くの人々は、人間と人間が対立する言論をぶつけ合う場面それ自体をこわがるようになっている。

 震災直後に、人々のものの言い方について、示唆に富んだツイートを配信した糸井重里さんが、つい先日、ご自身が運営するサイトの中で、

 なにか「いやだな」と思うようなことがあったとき、
 それをそのまま書くよりも、
 できるだけ「いいな」と感じたことを書きたい。
 できるだけじぶんの気持ちがよかったことを、
 書くようにしている。

(以下略。掲載欄「今日のダーリン」は毎日更新のため現在は閲覧できない)

 という文章を公開している。

 言いたいことはわかる。

 この文章も、大筋では、「人々に否定的なメッセージを伝えるべきではない」という、ディラン先生のお言葉(まあ、古い友人からの伝聞なので、たしかなところはわからないわけだが)とそんなに違わないものなのだろう。

 ただ、私は、今回の糸井さんの文章には、全面的には賛成できない。
 むしろ、震災後の社会に勃興しつつある「論争恐怖症」の風潮を後押ししてしまう意味で、有害な部分のほうが大きい、とさえ思っている。

 いつもいつも、「いやだな」と思ったことばかりを書いている自覚を持っている書き手の一人として私が思うのは、受け手である人々に否定的なメッセージを投げつけることが不当な振る舞い方であるのはその通りなのだとして、書き手自身が経験していたり、直面していたりする否定的な状況に対して抗議の声をあげることそのものは、決して否定されてはならないということだ。

 険しい言論ばかりが幅をきかせがちなSNS空間の中では、一方で
 「いつもニコニコしていようね」
 「なるべく機嫌よく過ごすのが人生のコツだよ」
 「今日のほっこりをみんなに提供するよ」
 といった感じのほっこり系のアカウントが、局所的な人気を集めている。
 それが悪いというのではない。

 が、私は個人的に、腹を立てないことや、文句を言わないことそのものを人徳として称揚してしまうことは、現代の過剰忖度社会がわれわれに強いている頽廃のひとつなのだと考えている。

 「批判したほうが『正しい』と思われるだろうけど、ぼくはそれをしない」
 というマニフェストは、一見、穏当な主張に聞こえる。
 しかしながら、この言葉は、「批判する人々への批判」を含んでいる意味で油断がならない。

 つまり、
 「批判したほうが『正しい』と思われるだろうけど、ぼくはそれをしない」
 というこの言い方は、「批判」をしている人々が「他人に『正しい』と思われたいがために何かを批判している打算的な」人間たちだという主張か、でなければ、彼らが「居丈高に他人を批判する独善的な」人々である旨の批判を(本人の意図とは関係なく)含んでしまうわけで、その意味でこのメッセージ自体、批判的な響きを持つ言葉なのである。

 何かや誰かを批判することよりも、それらについての優れた点や良い側面に注目して、称賛する態度を心がけたいというお話は、個人の処世術としては有効なのだろう。現実に、現代人たるわれわれが他者との共存の中で生きて行くほかに選択肢を持たない存在である以上、「批判」や「反抗」の態度を「中二病」ないしは「反逆クール」として退ける生き方を選んだほうが、社会的には批判を受けにくくもあるはずだ。

 ただ、困ったことや腹の立つことに対して、人々が声をあげなくなれば、その分だけ世界は確実に窮屈になる。

 しかも、小さな不満やちょっとした違和感を我慢することで追い詰められるのは、いつも、より貧しく、立場の弱い人々に決まっている。ということはつまり、人々に笑顔でいることを勧めているのは、もしかしたら圧迫をより強めようとしている人々であるのかもしれないのだ。

 大いに不満を述べるべきだと言いたいのではない。

 私は、素敵な何かを発見したときに感想を述べることを抑圧するべきではないのと同じように、誰であれ、不満を感じた時に、その不満を表明することを遠慮すべきではないということを申し上げようとしている。これはとても大切なことだ。

 誰もが前向きで心あたたまる発言だけをしていれば、世界が良い方向に変化するのであれば、それに越したことはない。しかしながら、そんなことはあり得ない。誰も不満を述べない世の中では、誰の掣肘も受けない万能の権力者が、あらゆる抑圧をほしいままに展開するはずだ。

 地獄は、必ずしも人々が怒っていたり悲しんでいたり暗い顔をしている場所ではない。
 本当の地獄では、すべての人間が機嫌の良さを装っている。

 そういう世の中を呼び寄せないために、せめて私は、不機嫌な表情を持ちこたえようと考えている。
 まあ、読者のみなさんにとっては、うっとおしいかもしれませんが。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

コメント欄で色々な方の“呪い”を毎日浴びるのも担当の仕事、と思っておりますが
大量に読むとマジで体調悪くなります。ちょっとだけ気にかけてくださると嬉しいです(涙)。

 小田嶋さんの新刊が久しぶりに出ます。本連載担当編集者も初耳の、抱腹絶倒かつ壮絶なエピソードが語られていて、嬉しいような、悔しいような。以下、版元ミシマ社さんからの紹介です。



 なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
 30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
 と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
 なぜ人は、何かに依存するのか? 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて

 日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
 現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!

(本の紹介はこちらから)

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