残念ながら(とあえて言うが)、「国の実力」という意味では日本は中国に太刀打ちできる状況ではもはやなくなった。人口が10倍、国土が25倍という国だから、そのことは仕方がない。これまでが特異な時代だったと考えるべきだろう。

 「国」としての中国は言うまでもなく「一党専制」の社会主義国であり、政治の決断次第でどうにでも動く国である。事態が日本にとってうまい方向へ運べばいいが、そうでなければ脅威は大きい。

 しかしその一方で、経済的に見て中国との関係抜きに日本企業、日本人個人の安定した将来を描くのは、極めて難しい。

 別に、中国という国が好きでも嫌いでも、中国人が好きでも嫌いでも、それは個人の自由で、どちらでもかまわない。大事なのは、正面から向き合う覚悟を決めるか、あるいは、自らの弱さに負けて目を逸らすか、である。今はそういう時代だ、と私は思う。

田中 信彦(たなか・のぶひこ)
 BHCC(Brighton Human Capital Consulting Co, Ltd. Beijing)パートナー。亜細亜大学大学院アジア・国際経営戦略研究科(MBA)講師(非常勤)、前リクルート ワークス研究所客員研究員。1983年早稲田大学政治経済学部卒。90年代初頭から中国での人事マネジメント領域で執筆、コンサルティング活動に従事。リクルート中国プロジェクト、大手カジュアルウェアチェーン中国事業などに参画。上海と東京を拠点に大手企業等のコンサルタント、アドバイザーとして活躍している。

 日本の国や企業、日本人が平和で豊かに生き延びるためには、冷静な目で中国の人々を見て、「中国人とはどういう人たちなのか」「中国の社会はどのような原理で動いているのか」を理解する必要がある。パソコンに例えて言えば、中国人、および中国社会のOSの構造を知っておくことが不可欠だ。少なくとも、知っておいて損はない。

 そのOSが好きかどうか、正しいと思えるかどうかは、個人差があるだろう。
 しかし、一つの社会には、その歴史を背景に生まれてきた価値観、そしてそれに見合った仕組みや習慣がある。その「現実」に異を唱えても、意味がない。自分が好きでも嫌いでも、相手の「現実」は存在しているし、それが変わるわけではないのだから。

 やるべきことは、その事実を正確に認識し、相手の原理を理解し、互いにメリットがある形で折り合いを付ける方法を考えることである。

ストレスを感じるのは、反応の相場が違うから

 私は中国と関わりあって40年近く、学生時代から中国語を学び、中国人と結婚し、一緒に商売をしてきた。もちろん嫌なことも、そして嬉しいこともたくさんあったが、学んだことは少なくない。悪い奴も、いい人もいたが、数の上ではいい人が圧倒的に多かった。

 中国には13億とも14億ともいわれる人がいるのだから、さまざまな個性があるのは当たり前である。いろんな考え方の人が、いろんなことを言って、いろんな行動をしている。しかし、そうは言っても、その社会にはその社会の長年の歴史的な蓄積の中から出来上がってきた共通の感覚、ある種の「クセ」のようなものがある。

 いわば
「こういうことを言われたら、こう反応するのが、この社会では普通である」
「こういう光景を見たら、こう感じるのが、この社会では普通である」
 といったようなことだ。これは日本社会にも当然ある。

 個人差の存在は認めつつも、社会のこうした「クセ」「妥当な反応の相場」はやはり存在する。歴史的な経験に培われた条件反射のようなもの……と言ってもいいかもしれない。それを知ることが、中国に限らず、異なる文化の下で育った人たちと付き合うには、非常に重要である。

 この連載では、40年近い個人的な経験の中から感じた、中国人がものを判断し、反応する時の「クセ」「反応の相場」とはどのようなものか、それらが、中国社会のどのような仕組みから生まれてきたのか、そんなことをお伝えしたい。

 いわば中国の人々や中国社会の判断基準の根底にあるもの、行動原理のようなものを、できる限り具体的かつロジカルに明らかにできれば、と思う。それだけで、日本人が感じるストレスはかなり軽減するはずだ。

「スジ」で考えるか、それとも「量」か

 と、大上段に振りかぶって始めたが、中身はできる限り具体的にしたい。中国人の判断基準や行動原理を、実例をもとに考えていきたいが、その際に私がフレームワークにしているのが、この連載のタイトルでもある「スジ」か「量」か、という切り口である。

 「スジ」で考える日本人
 「量」で考える中国人

 この枠組みで中国の社会や人々を見ることを、私は15年ほど前からあちこちの講演や企業での研修などでご紹介している。

 「スジ」とは何か。

 「そんな話はスジが通らない」「スジを通せ」などと言うように、「規則」「ルール」「道徳的規範」など、「こうするべき」という、いわば「べき論」のことと思ってもらえばいい。

 日本人、日本社会はこの「べき論」が好きで、とにかく「話にスジが通っているか」を重視する。逆に言うと、スジが通っていれば損得勘定は二の次、みたいな部分もある。

 一方、中国人的判断の基礎となる「量」とは何かと言えば、「これだけある」という「現実」である。「ない袖は振れない」という言葉が日本語にはあるが、現実に「袖」という物体がなければ、振りたくても振ることができない。いくら「袖を振るべきだ」とスジ論を言っても、まさに「ないものは振れない」のである。

 つまり、ここで言う「量」とは、「あるべきか、あるべきでないか」はともかくとして、「あるのか、ないのか」「どれだけあるのか」という現実を示している。

 中国人、中国社会が重視するのはこちらである。「あるべきか、どうか」の議論以前に、「現実にあるのか、ないのか」「どれだけあるのか」という「量」を重視する傾向が強い。

通路で立ち話をするのは悪いこと?

 具体的な例で考えた方が分かりやすいだろう。

 これは実際に中国の日系企業「あるある」の類の話なのだが、例えば、オフィスと社員食堂をつなぐ通路があったとする。昼休みの前後など、かなりの人がこの場所を通るので、通路の幅は結構広くて、余裕のあるつくりになっている。

 ある日、日本人赴任者の田中さん(仮名)がその通路を通りかかると、通路の真ん中に4~5人の中国人従業員が立ち止まって談笑している。話が盛り上がって、とても楽しそうだ。先に述べたように通路の幅はそれなりに広いので、この従業員たちが立ち話をしていても他の人は十分に通路を通ることができる。道をふさがれて通れない状況では全然ない。

 こういう場面があったとして、皆さんはどうお感じになるだろうか?

 田中さんの発想はこうである。

 「ったく、こいつら鬱陶しいなあ。通路ってえのは、そもそも通るためのところであって、立ち話をする場所じゃあねえんだ。通れればいいってもんじゃあねえんだよ」

 これが「べき論」発動の瞬間である。

 日本人の「相場観」からすれば、まず問題になるのは「そもそも通路とは何か」という「スジ」である。自分や他の通行人がその場所を「通れるか、通れないか」はほとんど関係がない。立ち話の一団が誰かの邪魔になっていようがいまいが、そんなことはどうでもいい。「通路で立ち話をしている」段階で、すでにアウト、なのである。

 一方、歩道に立って立ち話に興じている中国人従業員たちの思考はそうではない。普通の中国人の頭の中にある判断のメカニズムは「量」を基準に回っているので、「いまこの通路で仲間と話をしたい」との欲求が頭をもたげてきた時、そこで行動に移すか、移さないかを判断する材料は

 「他の人が通れるか通れないか」
 「他人の通行に影響を与えているか、いないか」
 「影響を与えているとしたら、それはどの程度の影響か」

 ということである。つまり、自分たちがこの通路で立ち話をしたとして、他の人が支障なく通れるだけの通路の幅(=空間の量)が確保されているか、いないかにまず頭が行く。そうはいっても……と感じる方がたくさんいると思うので繰り返しておくが、これは「良い、悪い」の話ではない。言い方が妥当かどうかわからないが、“天然”に、天真爛漫にそういう見方をするのが社会の「お約束」なのである。

 この「スジ」と「量」がぶつかると、どうなるか。

 中国人側からすると、自分が「通れる」十分な幅(=量)があるのに、黙って通らずに異論を唱える田中さんの発想が理解できない。「え? あなた、ここを通りたいんでしょ。通れるよね? 通ってくださいよ。他に何か目的があるんですか?」という話である。

みんな「言うことが同じ」日本人、「違う」中国人

 こんどは日本人側の見方をしてみよう。「通路での立ち話」という状況を眼前に見た時、たいていの日本人は反射的に「そもそも通路とは何ぞや」という「原則論(スジ論)」がムクムクと頭をもたげてくる。それは、そうなるように子供の頃から躾けられているのだから。そういうクセがついていて、それができる人間が「優秀な人」であり、その発想ができない人は「出来が悪い」「しつけがなっていない」と、社会から判定される。

 一方、中国の人々は、同じく「通路での立ち話」を前にした時、「他の人が通れるか、通れないか」「どのくらいの現実的影響があるか」などなどの、「通路の幅」や「影響の大きさ」という「量」を判断する思考がムクムクと湧き上がってくるように育てられている(だから、人が「通れない」ような状態で立ち話をする人にはもちろん文句を言うし、中国社会でもマナーが悪い奴と判断される)。

 同様に、どの程度なら人に迷惑にならないかを適切に判断し、臨機応変な行動ができる人が中国社会の「優秀な人」である。

 さて、この結果として社会全体ではどうなるか。

 日本社会では、ある事象を前にした時、誰が判断しても結論は同じになる。「通路での立ち話」は日本人の誰が考えても、いつでも、どこでも、どんな状況下でも、そもそも「よくないこと」である。そこに判断のブレはない。

 しかし、中国の社会は「量」を判断する思考だから、通路にどのくらいの幅(=空間の量)があれば他人の通行に影響しないのか、各人の判断にはバラ付きが出る。「幅が1.5mぐらいないと人は落ち着いて通れないよね」と思う人もいれば、「いや、50㎝もあれば人は通れる」という人もいる。だから中国人は人によって判断が不揃いで、みな言うことが違う。ここに日本人は戸惑う。「規範というものがないのか、この国は?」である。

 かくて私も含む日本人は「中国の⼈が⾔うことはスジが通らない」「規律がない」と、ストレスを感じる。もともと「スジ」で判断する習慣を持たないのだからそれも当然で、このイラ立ちを多少なりとも解消するには「相手は“スジ”ではなく“量”で考えるんだ」という現実を理解しておくしかない。

だからお互いに相手を「出来が悪い」と思う

 スジか、量か。これは社会が所属する人々に植え付ける一種の思考のクセとか条件反射のようなものであって、そこに「良い、悪い」の違いも、「正しい、間違っている」の差も、もともと存在しないと私は思う。だから、「理解できない」「おかしい」と感じるのも当然である。

 問題は、自分自身の慣れ親しんだ判断基準をうまく運用できない相手を「出来が悪い」とお互いが思ってしまうことにある。無理もないことではあるが、相手のことを「出来が悪い」と思っていたのでは人間関係はうまくいかない。

 日本人は自分たちがものごとを判断する際に「通路とは通るところであって立ち話をするところではない」という「普遍の原則」を基準にし、それが(たぶん)世界人類共通の真理だ、と思っている。だからそういう発想をしない中国人を「出来が悪い」と思う。

 一方、中国人は、その場の状況を的確に認識し、どういう行動を取るのが最も合理的か(「今の状況下、他人が通路を通るための空間はどれだけあったらいいのか」)を瞬時に判断して、臨機応変な行動をするべきだと思っている。同じくそれが世界人類普遍の真理だと思っている。だから、どんな状況であっても原則にこだわる日本人を、頑迷固陋な「出来が悪い」人間だと思いやすい。

 まあ、なかなか難しいと言うしかないが、要はお互いに悪意があるわけではないし、もちろん双方とも「出来が悪い」わけではない。「どういう角度から物事を見るクセがついているか」が違う「だけ」なのである。

トラブル対応に強く、トラブル予防に弱い

 このような「ものの見方の違い」から、日本人と中国人は次のような行動様式の違いが導き出されてくる。そこにはメリットとデメリットがある。

 「スジ」から入る日本人は、まだ現実に発生していない(目に見えていない)ことでも、頭の中で「本来あるべき姿」を頭の中に描く習性がある。そして先回りして対策を立てようとする。

「スジ」で考える場合

●メリット
行動が計画的になる
仕事の「前始末」をするので、スムーズに進むことが多い
行動後の問題の発生率が低い

■デメリット
決断に時間がかかる
前例にとらわれやすい、変化しにくい
心配過多で、杞憂に終わることが多い。結果的に無駄が出る
製品やサービスがオーバースペック、過剰品質に陥りやすい

 一方、中国人は「原則」そのものには拘泥せず、「量」つまり「現実」を優先する。状況に応じて判断していく思考様式なので、「現時点で見えていないこと」には興味が湧かない。「そもそも論」には関心が薄い。

「量」で考える場合

●メリット
決断が速い
現状の変化に対応し、臨機応変な行動をする
(結果的に)効率的である
(現実に問題が出た時、初めて対応するので、うまく行っている間はムダな行動がない)

■デメリット
規範性が低い。人によって、状況によって言うことが変わる
継続性に乏しい。一つのことを続ける根気に欠ける
ものごとの本質を追究する姿勢が弱い

 中国で日系工場の人たちと話していると「中国の従業員は生産ラインにトラブルが発生した時の対応は目を見張るものがある。寄ってたかってなんとかしてしまう。だが、トラブルを発生させないための対策にはからっきし弱い」という声をしばしば聞く。これはまさに双方の社会の発想や行動様式の違いを端的に表した現象だと思う。

 理屈っぽい話をしてきたが、こういう「スジか、量か」という基本的な判断基準の違いは、現実社会のあらゆるところに影響している。やや大げさに言えば、国家や社会の成り立ちそのものを規定しているとさえ言ってもいい。

 例えば、中国では政府や企業などに対する住民たちの暴動や抗議行動が頻発していると日本では伝えられている。現実にどのくらいの数が発生しているかは別として、その種の行動は確かにある。しかし、それらはほとんどが時を経ずして収まってしまい、大きく広がることはまずない。それはなぜか。

中国の「暴動」はなぜ収束してしまうのか

 日本人は政府や企業の行為に対して憤る時、「こんなことはスジが通らない」「こんなことがあるべきではない」と憤る。だから日本社会の抗議行動は「カネが欲しいんじゃない。スジを通せ」という主張になりやすい。もちろん「スジの通させ方」の結果で金銭の支払いになることは多いのだが、主眼は「スジ」にある。だから自身の損得におかまいなく、いつまででも抗議を続ける人が多い。

 一方、中国の人々は何に憤るのかと言えば、主に「自分が受けた損害」に対して憤る。同じ「憤る」でも、この2つには大きな違いがある。

 例えば、近くの工場が汚水を不法に垂れ流した。その時に「社会的責任がある企業がそのような行いをするのはけしからん」と憤るよりは、「環境汚染でマンションの価値が下がった。損害をどうしてくれる」と憤る。つまり「スジ」ではなく、金銭的損害という「量」で憤るのである。

 中国でも、金銭的補償には「謝罪」というスジの話が同時に発生するので、「スジ」と「量」は両方あるのだが、主眼は損得のほうにある。だから中国の「暴動」や抗議活動は、だいたいはおカネで(表面的には)収まってしまう。「問題はカネじゃない。道理が通るまで30年でも50年でも頑張る」という「日本的抗議」をする人は、いないわけではないが、中国社会では「変わった人」である。必ずしも社会の共感を得られない。「そんなことにこだわって、人生浪費してどうするのよ。適当な補償金もらって楽しく暮らしたほうが頭いいでしょ」ということだ。

 割り切った言い方をしてしまえば、中国社会がさまざまな問題を抱えながらも、おおむね安定して推移しているのは、中国の人々の人生観の根底にこうした観念があるからだ。


 次回以降、この「スジか、量か」というフレームを活用して、さまざまな事象を考えていきたい。ご愛読をお願い申し上げます。

■変更履歴
田中信彦氏より「生活の中心を日本に移します」との連絡がありましたので、氏の略歴の「上海在住」を削除いたします [2018/04/18 12:00]
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