この2日ほど、関東地方では台風の影響なのか、久しぶりに涼しい風が吹いている。
おかげで、半月ばかり稼働しっぱなしだったエアコンに休息を与えることができた。
気象庁によれば、台風が通り過ぎると、また猛暑がやってくるらしい。
私自身は、梅雨が明けてからこっち、不要不急の外出を控えているので、さほど暑い思いはしていない。
なので、
「暑いですね」
と言われた時には、
「暑いのは無駄に頑張るからですよ」
と、心の中でそう答えることにしている。
心の中で言うのは、口に出してそう言うとカドが立つからだ。
頑張っている人間を揶揄してはいけない。あたりまえの話だ。
このあたりまえのことを悟るのに、私は、60年の時日を費やさねばならなかった。バカな人生だった。
ともあれ、頑張っていない人間にとって夏は暑くない。これは大切なポイントだ。ぜひ、今後の生き方の参考にしてほしい。
不要不急の用事をまるごと省くと、われら凡人の人生は、たちまちのうちに色あせ、立ち行かなくなる。
というのも、われらが楽しんでいる娯楽の多くは、不要不急の活動に伴って生じるあぶくのようなものだからだ。
たとえばの話、不要不急の外出を控えて自室に閉じこもっている私の日常は、甲子園の高校野球とMLBの大谷翔平選手出場試合を代わる代わるに視聴することでかろうじて持ちこたえているテの、はかない営みに過ぎない。
もし、この時期に「不要不急だから」「野外での日中の運動は危険だから」という理由で野球が中止されたら、私は水を失ったサカナのように苦しむことになるだろう。
ということはつまり、私が不要不急の外出を自粛し、なおかつ退屈を免れるためには、高校球児の諸君が炎天下の甲子園球場で汗にまみれてくれていないとならないわけで、言い換えれば、この世界から不要不急の活動をオミットしたら、少なからぬ穀潰しが退屈のあまり不要不急の愚行に自ら身を投じるに違いないということだ。
今回は、オリンピックの話をしようと思っていた。
当初の目論見では、「不要不急」という線で五輪不要論を展開するつもりでいたのだが、この論点はどうやら書き起こすまでもなくスジが良くない。
理由は、私自身がスポーツ観戦オタクだからだ。
つい先月まではW杯三昧のサッカー漬けで、この一週間ほどは打って変わって朝から野球まみれの日常を送っている。その、余暇時間の大半をスポーツ番組視聴に費やしているテレビ端末人間が、どの口でオリンピックを「不要不急」などと言えたものだろうか。
ただ、どうせ始まってしまったら夢中になって観戦することがわかりきっているのだとしても、そのこととは別に、わざわざ五輪を東京に呼ぶ必要がないということは、この際、明確に主張しておきたい。
世界中のどこの都市で五輪が開催されていようが、きょうび、おもだった競技はなんらかの形でテレビ中継される。とすれば、基本的に液晶観戦者である私のような半可オタクにとって、競技がどこで行われているのかは些末な問題に過ぎない。してみると、わざわざ世界中から選手団を招いて、莫大な予算を費やしてまでご近所で開催する必要はない。
このほか、東京で五輪を開催してほしくない理由をひとつひとつ列挙していけば、それだけで当欄のページは埋まるだろう。
が、今回、それはしないでおく。
あまりにもわかりきった話でもあれば、私自身いくつかの媒体でさんざん繰り返してきた内容でもあるからだ。ついでに申せば、このテの話は、わかっている人には退屈で、賛成できない人にとっては単に不愉快なだけで、つまるところ不要不急なのだ。
で、ちょっと角度を変えて、当稿では、五輪の地元開催を待望している人たちが、どうしてそう考えるのかについて、私なりに寄り添って考えてみることにする。
コラムニストは、呶呶烈々自説を主張するばかりではやっていけない。
時には他人の考えにあえて同調してみることで、硬直したアタマをほぐしにかからないといけない。
そうでなくても、ここのところ、様々な場面で、自分が少数派であることを思い知らされる機会が多い。
私自身としては、素直に見て、普通に考えて、あたりまえに感じているつもりでいるあれこれが、世間の側から見ると「変わって」いたり「特殊」だったり「ひねくれ」ていたりするらしいのだ。
もちろん、他人と違うからといってただちに自分が間違っていると考えて意気消沈するわけではない。私はそれほど気持ちの弱い人間ではない。
とはいえ、自分の感覚が「普遍」で、世間のほうが偏っているのだと、20代の頃にそうだったみたいに自信満々のテイで言い切れるのかというと、そうもいかない。無理だ。
で、結果として、私は、さまざまな場面で発生する行き違いを
「ああ、そうですか」
の一言で処理している。
処理しているというよりは、マトモに対応することを断念していると言った方が適切だろう。
私はあきらめている。
われわれはわかりあえない。
であれば、せめて罵り合うのはやめようじゃないか、と、そのあたりに新しい線を引いている次第だ。
たとえば、特定の誰かが何かを好む理由を詳しく問い質してみると、それは、まさに私がそれらを嫌っている理由と同一だったりする。こうした発見は、私から、議論する気持ち根こそぎに奪い去って行く。
五輪の開催は、8月の東京に騒がしさと混乱をもたらすはずだ。
それらが2年後にやって来ることの予感がもたらすわずらわしさだけで、すでにして私は不機嫌になっている。
ところが、五輪を楽しみにしている人たちが待望しているのは、まさにその、私が嫌悪しているところの、騒がしさとせわしなさと混雑と混乱それ自体だったりするわけで、つまり、彼らと私の間には、議論をしようにも、はじめから歩み寄りの余地がありゃしないのだ。
しかも、どうやら多数派は彼らの方で、私はマイノリティーだ。ということは、この国において、正義は彼らの側にある。
思い起こせば、学校に通っていた時代から、すでに似た事情はあった。
私は、「行事」がきらいな子供だった。
「行事」というのはつまり、運動会とか学芸会だとか、あるいは遠足でも写生会でも良いのだが、そうした通常の授業とは違う、特別枠のスケジュールで挿入されるイベント一般のことだ。
なぜそれらのイベントがきらいだったのかというと、これはいま考えれば仕方がないことだったとも思えるのだが、百人以上の子供たちをひとつのイベントに集中させるためには、必ずや「同調」を求める局面が発生するからだった。
私は、その「同調」が苦手なメンバーだった。
それゆえに、校外活動や恒例の学校行事を含むカレンダーイベントのことごとくを、憂鬱な気分で過ごさねばならなかったのである。
たとえば、運動会では、本番に先立ってひと月以上前からフォークダンスの練習が通常の体育の授業をツブす形で繰り返されることになっていた。
その「練習」は、端的に申し上げて、苦行以外のナニモノでもなかった。
私が通っていた小学校では、1年生から6年生までの全校生徒が校庭をいっぱいに使って「グリーンスリーブス」という曲に合わせて一斉に踊る最後の場面が、学校の名物というのか、運動会の「見せ場」になっていて、ために教師たちは、例年通りの見事な群舞を今年もまた再現させるべく、毎度毎度、躍起になってダンスの練習を強要した。
私は、他人に合わせて決まった動作をすることが苦手で、うまく踊ることができない子供だったわけなのだが、それ以上に、意味のない練習を強いられていることが不満でならなかった。
「これって、来賓に見せるための踊りだよね?」
「どうしてぼくたちが、PTAだとか来賓を喜ばせるために踊りの練習をしないといけないんだろうか」
「運動会って、観客のための催しなの?」
「オレらは見世物なのか?」
と、胸の奥から湧き出してくる疑問と呪詛の声を飲み込みながら、大好きな体育の授業をツブされて、退屈な踊りの所作をリピートさせられるのは、私にとっては大変な苦痛だった。
しかし、それは私の罪だろうか。すべての子供は、自分が壁の中のレンガの一つに過ぎないことを12歳の段階で思い知るべきなのだろうか。
卒業式には「呼びかけ」というお約束の出し物があった。
これは、私の世代の者が小中学生だった時代に全国的に蔓延していた演出手法で、要は子供たちがユニゾンでポエムみたいなものを読み上げる集団朗読劇みたいなものだ。
私が通っていた小学校では、三学期に入ると、在校生と卒業生が、それぞれに用意された原稿を読み上げるべく練習を繰り返すことが習慣化していた。
「いつもやさしく遊んでくれたおにいさんおねえさん(おにいさん、おねえさん)」
「ともに汗を流したクラブ活動(くらぶかつどう)」
「応援に競技にちからのはいった運動会(うんどうかい)」
てな調子で、ポエムを朗読していたオダジマの気持ちを想像してみてほしい。
私は、本当に心の底からその種のイベントを呪っていた。
ところが、この世にも見え透いた集団子供朗読ポエムは、まんまと来賓を感動させた。
卒業式に列席している保護者や来賓の大人たちが、ハンカチを取り出して涙を拭う様子を眺めながら、私は、コントロールされた感動というものの安っぽさに思い至らずにはおれなかった。
「つまりこの呼びかけっていうのも、来賓のための出し物なわけだよな?」
「どうしてほかならぬ卒業生が観客のためにサービスをしなきゃならないんだ?」
「卒業式って、誰のための儀式なんだろうか」
たしかに私はひねくれた子供だったが、では、あの「呼びかけ」のポエムでうっかり涙を絞りとられていた大人こそが素直で理想的な日本人だったのだろうか。
いや、特にここで答えを求めているわけではない。先に進もう。
基本的には楽しみだった遠足や社会見学にも、必ず「同調」の試練は含まれていた。
校外活動の間、子供たちは列を乱してはならなかったし、勝手な行動を戒められていた。
で、私はといえば、学校側の想定する枠組みからいちいちはみ出しては叱責されるタイプの典型的な「手のかかる」児童だった。
これも大人になった目で振り返ってみれば簡単な話で、教師の側から見れば、遠足にせよ工場見学にせよ、校外に引率する児童の安全を確保するためには、教室内以上に徹底した「秩序」と「同調」を求めなければならなかったわけで、その当然の設定を、当時の私が、せっかく学校の外に出られたのに、なぜ自由を束縛するのだろうかと、どうしても納得できなかっただけのことだ。
多くの同級生は、十分に遠足を楽しんでいた。
もちろん、運動会もだ。
10年ほど前のことだが、小学校時代の同級生の何人かと話をする機会があった。その時、彼らは運動会の思い出として、あろうことか、あの「グリーンスリーブス」を懐かしがっていた。
私は驚愕した。
「おい、ウソだろ? あの地獄のバカ踊りの何が楽しかったんだ?」
「えっ? だってずいぶん練習したじゃん」
「だから、その練習がバカバカしくてつらかったっていう話じゃないか」
「いや、そりゃ最初のうちはキツかったかもしれないけどさ」
「なんていうのか、達成感があったぞ」
「そうそう達成感な」
「ウソだろ? おまえら本気か?」
いや、ウソではないのだ。本気なのだ。そして、おかしいのはたぶん私の方なのだ。
ずっと昔に味わった試練や苦労を、楽しい記憶として思い出すのが普通の日本人なのだ。
それどころか、試練の真っ只中にあってさえ、いつしかそれを仲間と一緒に分かち合う娯楽として享受できるようでなければ、将来まともな社会人にはなれないのだ。
これからやってくるであろう五輪関連のゴタゴタにしても、おそらく、多数派の国民はそんなに苦にはしないはずだ。
ボランティアの動員や、時差出勤の強要や、サマータイムの押し付けや、都内の交通渋滞や、ホテル不足といった様々な試練を、彼らは、むしろ楽しむに違いない。
そして、何年かたった後、
「あん時は大変だったなあ」
と、笑顔で振り返るのだ。
労役であれ負担であれ酷暑であれ不眠であれ、全員で担う試練は、うちの国では「共同体験」として美化される。
結局のところ、軍隊経験でさえ戦友の間では懐かしい思い出として反芻され得るわけで、そういう意味で、五輪は、順調に泥沼化しつつある時点で、成功の道を歩みはじめているといえるのだ。
われわれは、「これまでに経験したことのない新しいタイプのトラブル」を「みんなで心をひとつにして」「乗り切る」タイプの試練を、「夢」や「絆」といった言葉とともに神聖視している。
五輪期間中の二週間は、目新しいイベントや、集団的な統一作業が好きなタイプの人々にとっては、ワクワクする体験になるはずだ。
少なくとも、1カ月以上にわたってフォークダンスの練習を強要され、本番前の数日間は、居残りで通しのリハをやらされた経験を、600人が一斉に踊ったことで「達成感」として記憶できるタイプの人々にとっては、どんな試練であっても、結局は喜びとしてカウントされる。
最後にサマータイムについて。
朝日新聞が8月4、5日に実施し8月6日に発表した世論調査によれば、サマータイムの導入に53%が賛成している(反対は32%、その他・無回答が15%)。
私は、個人的には反対なのだが、なんだかんだで導入されてしまう気がしている。
理由は、サマータイム導入に反対であっても、「みんなが一緒にやる」ことそのものには、賛成する気持ちを持っている人が多数派だと思うからだ。
もう少し詳しく述べると
「自分の賛否はともかく、みんながやろうとしていることなら自分は追随するよ」
くらいな気持ちでいる人間が、日本人の大半を占めているということで、その人たちはいずれにせよ「大勢」に流されることを望んでいる。
つまり、自分の見解や主張には強くこだわらない代わりに、決断の責任もとりたくないと考えている人間が最大多数だということだ。
つまり、われわれは
「みんなで一緒に失敗するのならそれはそれでそんなに悪いことじゃない」
という形式でものを考えている。
ちなみに、上記の朝日新聞のアンケートの質問項目は
《2020年の東京オリンピック・パラリンピックの暑さ対策についてうかがいます。大会組織委員会は、気温の低い早朝を有効に使うため、日本全体で夏の間だけ時計を2時間進める「サマータイム」の導入を提案しています。あなたはこの案に賛成ですか。反対ですか。》
となっている。
あからさまな誘導尋問だと思う。
理由は、回答者に対して「気温の低い早朝を有効に使うため」などと、暑さ対策としてのサマータイムの利点だけを伝えて、デメリットについての情報を与えていないからだ。
この質問だと、
「まあ、この暑さだし、なんにも対策しないよりは、なんであれ、効果のありそうなことは試しても良いんじゃないかな」
くらいな気分で、
《賛成する》
にマルをつける回答者がけっこう出るはずだ。
その意味で、悪質な設問だと思う。
朝日新聞の意図や思惑はともかく、こういうアンケート結果が「世論」ということになると、多くの日本人は、与えられた「世論」なり「民意」に同調するはずで、その「同調」がわれわれを新しい場所に運んで行くことになる。これは避けることができない。
よく聞く話だが、家電量販店の店員が顧客から尋ねられる質問で一番多いのが、
「どの製品が一番お得か」
でもなければ
「どの製品が一番高性能か」
でもなくて、
「どれが一番売れているのか」
だということが、この間の事情を物語っている。
われわれは、リーダーに着いて行くのでもなければ、イデオロギーに誘導されるのでもなく、「みんな」という正体不明の存在に同調する形で新時代の扉を開くことになる。
さきほど、グリーンスリーブスの歌詞を検索してみてはじめて知ったのだが、あれはどうやら、自分に残酷な仕打ちをした人間に変わらぬ愛を誓う歌だったようだ。
なるほど、と思ってひとつひとつの言葉をかみしめている。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
将来がとても不安、いえ、楽しみです。
小田嶋さんの新刊が久しぶりに出ました。本連載担当編集者も初耳の、抱腹絶倒かつ壮絶なエピソードが語られていて、嬉しいような、悔しいような。以下、版元ミシマ社さんからの紹介です。
なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
なぜ人は、何かに依存するのか?
<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて
日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!
(本の紹介はこちらから)
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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。