2005年4月、マレーシア・クアラルンプールにある執務室で、リー・クアンユー・シンガポール初代首相(当時、右)と談笑するマハティール首相(当時) (写真=ロイター/アフロ)
2005年4月、マレーシア・クアラルンプールにある執務室で、リー・クアンユー・シンガポール初代首相(当時、右)と談笑するマハティール首相(当時) (写真=ロイター/アフロ)

 東南アジア諸国連合(ASEAN)の主軸であるシンガポールとマレーシアがいま世界で脚光を浴びている。シンガポールは初の米朝首脳会談という歴史の舞台になる。マレーシアでは、92歳のマハティール氏が選挙で選ばれた最高齢の首相として復活した。もともと一つの国だった両国が世界の耳目を集めるのは何かの因縁だろう。

 マレーシアのマハティール首相は東アジア経済圏構想など独特のアジア主義に基づいて発展をめざした。これに対して、シンガポール建国の父である故・リー・クアンユー首相はグローバル主義によって世界経済のハブの座を確保した。両雄の道に違いはあるが、第2次大戦後の混乱から立ち上がり、世界の信認を得た点では共通している。

92歳で再登場

 92歳のマハティール氏が4党連立を束ねて最高齢の首相として復活することをだれが予想しただろうか。盟友だったナジブ前首相の出国を禁止し、政府系ファンドの不正流用に強い姿勢をみせた。1981年から22年間に及ぶ長期政権で身につけた政治手腕は衰えていない。

 マハティール氏は、リー・クアンユー氏とともに日本経済新聞主催の「アジアの未来」会議の常連で、来日の際にたびたび懇談する機会があった。そのなかで見識豊かなマハティール氏の言葉にとまどったことがある。氏が語る「ヨーロッパ」や「ヨーロッパ人」が「欧州」や「欧州人」を指すのではなく、米国や豪州、ニュージーランドを含めた「白人」を指すことに気付くのに、やや時間がかかった。

 「私たちは、ヨーロッパ中心主義の世界に住んでいる」とマハティール氏は「履歴書」に書いている。そのアンチテーゼとしてアジアを位置付ける。「ほんとうはアジア人が先に欧州を発見したのである」と指摘する。マハティール氏のよりどころは、欧州中心主義に対するアジア主義の復活なのだろう。

ルック・イーストから東アジア経済圏構想へ

 その証拠に、マハティール氏が1981年、首相になってまず取り組んだのが「ルック・イースト」(東方政策)だった。米欧に「追いつけ・追い越せ」できた日本など後発国には、新鮮な視点だった。マレーシアが見習ったのは、米欧ではなく日本の近代化である。マハティール氏がうつむきがちな日本人に対して、いつも賞賛と励ましを忘れないのは、そこに原点があるからだ。

 1990年、その日本を核にして、EAEG(東アジア経済グループ)構想を打ち出す。日中韓にASEANなどアジア諸国が協力するもので「マハティール構想」と呼ばれる。しかし、盟主に担ぎ出されようとした肝心の日本が二の足を踏む。アジア諸国だけで経済圏が創設されることに、ベイカー米国務長官らが警戒し、日本に参加を見合わせるよう圧力をかけてきたからだ。煮え切らない日本の態度に、マハティール氏は不満を隠さなかった。

反IMFで通貨危機打開

 マハティール首相がその本領を発揮したのは、1997年のアジア通貨危機だった。タイを震源とするアジア通貨危機は地域に伝染する。フィリピン、インドネシア、マレーシア、韓国の五カ国である。そのなかで、マレーシアの対応は違った。各国が変動相場制に移行するなかで、マレーシアだけは固定制に復帰する。その旗を振ったのがマハティール首相である。1998年、資本取引規制を導入し、管理フロート制から、1ドル=3.8リンギットで固定制に逆戻りさせる。合わせて、国際通貨基金(IMF)の要求とは正反対の財政出動と金利引き下げで経済を刺激したのである。

 マハティール戦略は、冷戦後のグローバル時代に逆行するものとして国際社会の批判にさらされる。しかし、グローバル資本主義に安易に追従すべきではないとマハティール氏は確信していた。それはアジア主義の政治信条からきていたのかもしれない。

 IMF・世銀主催のセミナーでマハティール氏は「実需を伴わない為替取引は禁止すべきだ」と為替投機に警告した。批判の標的にされたヘッジ・ファンドの帝王、ジョージ・ソロス氏が「そうした考えは破滅的な結果につながる」と反論するなど、グローバル資本主義をめぐる歴史的な論争を繰り広げた。論争に終わりはなかったが、マレーシアがマハティール指令によって、通貨危機を乗り切ったのはたしかである。

建国の父―冷房で生産性向上

 シンガポールがマレーシアから分離独立したのは、1965年である。初代首相に就くリー・クアンユーはいまでこそ「建国の父」と称されるが、建国された当初、シンガポールが東南アジア唯一の先進国にまで駆け上がると予想した人はいなかった。それどころか、英軍の撤退で「シンガポール経済は壊滅的打撃を受ける」と専門家は分析していた。

 そこからがリー・クアンユー首相の手腕である。外資に門戸を開き、多国籍企業を積極的に招き入れる。製鋼、海運など産業創造にも力を入れる。

 そして何より、金融センターをめざしたのである。アジアダラー市場として小さく生んだ金融市場だが、シンガポールが東南アジアの貿易、投資の拠点になるにつれて、国際的金融取引は幾何級数的に増大したと「回顧録」に書いている。ケンブリッジ大学で学んだ経験から、ロンドン・シティーのような金融センターの意義を体感していたのだろう。

 そんなリー・クアンユー氏と懇談するのは記者冥利につきるが、気を付けなければならないことが一点あった。室温の低さである。常温に慣れた身からすると寒すぎる。この点を聞くと、「常夏のシンガポールが生産性を高められたのは、冷房が行きわたったからだ」という答えがはねかえってきた。シンガポールが先進国に駆け上がれた意外な秘密かもしれない。

世界の鳥瞰図示す

 リー・クアンユー氏の話を30分聞けば、世界の鳥瞰図がわかった。これだけ世界の変化を深くかつバランスよく読める政治家は、世界を見渡してそういないだろう。英米だけではなく仏独など先進国首脳に信頼される。華人ネットワークもあり、中国との連携は深い。一方で、台湾との関係も保たれる。日本を中心にすべてのアジア諸国とは親密である。

 徹底したグローバル主義で世界経済のハブになることをめざしてきた。リー・クアンユー氏の広範な人脈なしには、この大目標は達成できなかったはずである。

引き継がれた指導力

 リー・クアンユー氏の政治手法は「開発独裁」と言われることもある。批判を許さぬメディア規制など影の部分があったのは事実だ。グローバル国家にふさわしい言論の自由を確保できるかが課題である。「緑のシンガポール」は美しいが、規則が多すぎて息苦しいという不満も聞く。しかし、美しい都市国家として世界経済のハブの座を維持するには、ある程度の規制は避けられないだろう。

 リー・クアンユー氏の後を受けたゴー・チョクトン首相も地味だが、強力な指導者だった。筆者が日本シンガポールの国際会議に参加した際のことだ。今後の運営について日本の代表が「いったん日本に持ち帰って」と切り出すと、ゴー・チョクトン首相は「いや、ここで決めよう」と言い放った。何事も即断即決であることをうかがわせた。

 現在のリー・シェンロン首相は、はじめは偉大な父親に遠慮がちだったが、その視野の広さ、深さは父親に匹敵する。ダボス会議で懇談の機会があったが、冷静な分析に世界のベテラン・ジャーナリストも聞き入っていた。いまやアジアで最も安定した政治家と受け止められている。歴史的な米朝首脳会談がシンガポールで開かれるのも、リー・シェンロン首相の存在が大きい。

東南アジアの両輪

 マハティールとリー・クアンユーという両雄は、両極にいるようにみえて、その関係は一貫して良好であった。リー・クアンユーは「マハティールとの考え方の違いはあっても、私は彼の首相就任から自分の退任まで(1981~90年)の9年間のほうが、それ以前の12年間より、2国間問題の解決に向けて大きく前進できた」と書いている。

 アジア主義とグローバル主義と立場は違っても、両雄はけっこう馬が合ったのかもしれない。様々な国際会議で、最も長く話し合うのがこの2人だった。周囲も「東南アジアの両輪」であることを認めていた。

 1991年、マレーシア・ビジネス評議会の設立総会の演説で、マハティール首相は「ビジョン2020」を発表している。2020年には、マレーシアが「徳」の高い先進国になるというビジョンである。生産性向上が鈍る「中所得国の罠」を克服できるかどうかがカギである。92歳のマハティール氏が首相に返り咲いたのも、先進国の仲間入りをめざす壮大な目標を自らの手で達成するためだったのかもしれない。

(参考文献)
「マハティールの履歴書」(マハティール・ビン・モハマド著、加藤暁子訳、2013年)
「リー・クアンユー回顧録上・下」(リー・クアンユー著、小牧利寿訳、2000年)
「ドルへの挑戦―Gゼロ時代の通貨興亡」(岡部直明著、2015年)
 いずれも日本経済新聞出版社刊
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