日米首脳会談で「物品貿易協定」(TAG)の交渉に合意したといわれるが、実態は自由貿易協定(FTA)にほかならない――。通商交渉の舞台裏を知り尽くした細川昌彦氏が、日米首脳会談におけるパワーゲームの深層を徹底解説する。
 
日米首脳会談 国連総会に合わせて実施 貿易交渉開始で合意(写真:AFP/アフロ)
日米首脳会談 国連総会に合わせて実施 貿易交渉開始で合意(写真:AFP/アフロ)

 まず、今回の首脳会談について素直に評価する点から始めよう。

 9月26日に開催された日米首脳会談における日本側の最大の焦点は、トランプ大統領が打ち出した自動車への25%の追加関税という脅しを避けるために、新たな貿易交渉をスタートすることだった。

 米国は追加関税で脅しながら、交渉入りを迫った。これに対し日本が最優先としたのは、自動車の追加関税を発動しない確約を得ることだった。とりあえず今後交渉している間は発動しない確約を得たようだ。これは7月の米欧首脳会談での欧州連合(EU)も同様の交渉をしており、日本はEUのやり方を参考にした。

 ただし、その拳は「挙げたまま」、ということも認識しておくべきだろう。米国はまだ脅しのカードを手放したわけではない。EUも日本も「交渉が続く限りは自動車への追加関税はない」と説明するが、米国から言えば、「脅しのカードを持ち続けて交渉する」というものである。

 日本はこれまで長年、米国からの圧力で譲歩を迫られることを懸念して、米国との2国間交渉を避けてきた。他方、今のトランプ政権は2国間協定にこだわって、米韓自由貿易協定(FTA)の見直し交渉、北米自由貿易協定(NAFTA)の見直し交渉、EUとの貿易交渉など、次々と2国間交渉を進めている。いつまでも日本だけが交渉に入ることを拒否し続けられないと、日本も現実を見据えた対応をしたのだろう。

 日米首脳が合意した交渉は「物品貿易協定」(TAG)という名のFTAの交渉だ。日本政府の発表では、これから日米でスタートするのは「物品貿易協定(TAG)」だとして、あえてFTAという名称を避けたようだ。それはなぜか。

日本が「FTA」の名称を避けたいわけ

 確かに、モノの貿易の関税の交渉を始めることにしたのだから、TAGと呼ぶこと自体は間違いではない。しかし世界貿易機関(WTO)という国際ルールでは、特定国に対して関税を引き下げるにはFTAという手段しかないということを忘れてはならない。TAGという名称を付けようが、付けまいが、それはFTAなのだ。

 安倍総理は「これはFTAか」との記者の質問に、「日本がこれまで締結してきた包括的なFTAではない」とすれ違い答弁をわざわざしている。これがその後、日本の報道に混乱と誤解を招いたのだ。これは「包括的でないFTA」であっても、当然FTAである。

 では何故FTAと呼ぶのを避けたのか。

 日本には伝統的にFTAに対して強烈なアレルギーがある。FTAになれば、米国からの圧力で日本は農産物の市場開放をさせられるとの被害者意識が根強くある。だから、国会答弁でも「今の協議はFTA交渉ではない」と言い続けてきた。

 実は同じように日本がFTAという名称を避ける動きは16年前にもあった。日本が編み出した「経済連携協定」(EPA)という言葉がそうだ。この言葉も日本の造語だと言うことはあまり知られていない。

 かつて1990年代後半ごろから世界はFTA締結へと動いていたが、日本はこうしたこともあって、この潮流に乗り遅れていた。そこで日本もついに2002年にシンガポールとの間で初めてFTAを締結した。その際もやはり、FTAと聞くと強く反発する農業関係者にどう説得するかが最大の問題であった。相手国にシンガポールを選んだのは、農産物の市場開放にはおよそ無縁な国だからだ。しかも名称をFTAではなく、関税引き下げよりもルールの策定を重視したFTAとして「経済連携協定(EPA)」という名称を編み出して、FTA色を薄めることに腐心した。実は名前がEPAであっても、実態はFTAなのだ。

 15年以上経った今も、日本の“FTAアレルギー”は変わらない。今回、「TAG」という名称を考え出したのもFTA色を薄めるためで、歴史は繰り返される。EPAと言おうが、TAGと言おうが、WTOのルール上はFTAという概念しかない。現に米国では日米のFTA交渉として認識され、「日本とFTA交渉をする」と報道されている。

 いつまでも言葉で逃げるのではなく、むしろFTAであることを正面から認めて、その中身の是非について議論する成熟さが日本には必要だ。

 むしろ問題は交渉の内容だ。恐らく中間選挙後の年明けからスタートするであろうFTA交渉で後述する点で日本はどこまで頑張れるかが大事だ。

トランプ氏の中間選挙対策として「牛肉の手付金」

 自動車の追加関税の回避のために2国間交渉に入った日本が懸念するのは、「農産物の市場開放において環太平洋経済連携協定(TPP)で合意した以上の譲歩を迫られるのではないか」という点であった。これが日本の農業関係者の最大の懸念で、この懸念を払拭することが、日本にとっての次の優先事項だった。首脳会談では、「TPP水準が最大限である」ことを留意させたことは成果であった。

 ただしそれは裏返せば、「TPPで約束した水準までは引き下げる」と言ったのも同然だ。これからの交渉で関税引き下げが決まるのではあるが、今回、既に “手付金”を払ったと言える。トランプ大統領にとってはありがたいことに違いない。

 トランプ大統領の狙いは中間選挙に向けての得点稼ぎだ。ターゲットは牛肉である。

 TPPを離脱した結果、TPPに参加している豪州産牛肉に比べて、相対的に不利になる。さらに米中間の関税合戦の結果、中国の報復関税によって、米国の牛肉、大豆が打撃を被っている。中西部の農業州の農畜産業者の不満は爆発寸前だ。11月の中間選挙に向けて、この不満解消はトランプ大統領にとって至上命題となっている。

 そこで7月の米欧首脳会談では欧州から大豆の輸入増を勝ち取り、今度は日本から牛肉の輸入拡大を勝ち取って支持層にアピールする。わかりやすい構図だ。

 日本も欧州同様、コミットではないが、トランプ大統領が支持者に成果とアピールできるような「仕立て方」をEUのやり方を参考にして考えたのだ。

今後の焦点は自動車の数量規制

 今回の首脳会談の共同宣言文に気になる文言が盛り込まれてしまった。

 今後の交渉において日米双方が目指すものとして、「米国の自動車産業の製造及び雇用の増加を目指すものであること」と書かれているのだ。これは要注意だ。日本が農産物について既に述べたような「TPPでの水準が関税引き下げの最大限だ」とする文言を入れること主張したために、「それならば」と米国がその引き換えに持ち出したものだ。

 今回の首脳会談の結果に対して、日本の中には「自動車の追加関税を免れるために、農業が犠牲になった」という人もいるが、逆に「農業はTPP止まりという条件を米国に飲ませるために、日本は自動車で譲歩させられた」とも言える。

 これは何を狙っているのか。

 米国の交渉責任者であるライトハイザー米通商代表部(USTR)代表の目指すのが自動車の数量規制だ。追加関税の脅しで数量規制に追い込もうとしている。米韓FTAの見直し交渉で韓国に、NAFTA見直し交渉でメキシコ、カナダに数量制限を飲ませた手法だ。G7(先進7カ国)の一角であるカナダまでこの“毒まんじゅう”を食べさせられたのは衝撃だ。

 そして今、ライトハイザー代表は同様の手法で、EU、そして日本と交渉をしようとしている。

 米国の自動車販売台数は年間およそ1700万台で成熟市場になって、今後大きな伸びは期待できない。そういう中で、日系メーカーが米国で生産するのは377万台、米国内で生む雇用(間接も含めて)は150万人だ。これをさらに増加させるには、対米投資を増加させ、現在174万台である対米輸出台数を減らすことになる。その結果、日本での国内生産969万台は減らさざるを得なく、国内雇用にも影響する大問題なのだ。

 そしてそれを実現するために、今後の交渉で、米国がこの文言を盾に「対米輸出の数量規制」や「対米投資の数値目標」を強く要求してくると考えるのが自然だ。まさにこれこそ日本が断固拒否すべき管理貿易なのだ。

 これが、これから始まる交渉の最大の焦点であろう。

 日本政府はこの文言を受け入れたことで、もちろん今後厳しい交渉が予想される。日本政府は平静を装い、メディアも大本営発表のせいか、意味不明の解説をしているものまである。本当にこの文言が日本にとって大きな失点でないならば、それを今後の交渉の結果で示すことを日本政府には期待したい。

新交渉で注目すべきは「米国の自動車関税」への攻めだ

 今回の首脳合意を受けて、新たな日米交渉が年明けにも始まるが、そこで注意しなければならないのが、日本は受け身一辺倒にならないことだ。日本はメディアも含めて、伝統的に「米国から攻められるのをどう守るか」にばかりに関心がいく悪い癖がある。しかし交渉は相手を攻めることも大事なのだ。

 具体的に米国を攻めるべきポイントは「米国の自動車関税」だ。米国は乗用車で2.5%、ライトトラックで25%の関税をかけて、これを死守しようとしている。

 かつてTPPにおける米国との関税交渉では、日本の農産物の市場開放と米国の自動車の関税撤廃がパッケージで合意されたことを忘れてはならない。

 新交渉でも当然、日米双方向でなければならない。かつてのTPP合意と同様に、日本の農産物の関税引き下げだけでなく、日本が米国の自動車関税の引き下げを要求するのは当然の主張だ。米国にかつてのTPP合意の“いいとこ取り”をさせてはならない。

注目すべき、対中国を睨んだ日米欧協力

 日米共同声明に盛り込まれた注目点は、こうした日米2国間の問題だけではない。中国の知的財産権の収奪・強制的な技術移転など中国の不公正な貿易慣行が日米共通の今後の大きなテーマだ。その問題に欧州も含めた日米欧が協力して対処することが盛り込まれた。これは大いに評価すべき点だ。メディアの目が余りこの点に向いていないのは問題だ。

 これがトランプ大統領の首脳会談の共同声明だからこそ意味がある。

 こうした中国の経済体制に起因する根深い問題にはトランプ流の関税合戦は手段として問題解決にはつながらない。むしろ中国が徐々に改善せざるを得ない国際的状況を作り出すことこそ大事なのだ。しかしトランプ大統領自身は恐らく全く関心がない。中国とは2国間の関税合戦での駆け引きにしか関心がない。

 そのことを理解しているのはライトハイザー代表だ。2017年12月から日米欧三極での貿易大臣会合を4回と頻繁に繰り返しながら、中国問題への対処を進めてきた。

 問題はそうした取り組みがトランプ大統領のお気に召すかである。トランプ政権の通商戦略はトランプ大統領の独断で仕切られていることから、いかにうまくトランプ大統領の頭に刷り込むかがポイントになる。

 それはライトハイザー代表の手腕にかかっている。

 7月の米欧首脳会談の共同宣言にも同趣旨の文言が盛り込まれている。これはまさしく日米欧が連携した「トランプ対策」なのだ。これはこの政権が独特の構造であることを物語っている。

会談直前の夕食会が持つ大きな意味

 同じく「トランプ対策」という意味では、会談直前での日米首脳2人きりの夕食会が大きな意味を持った。日米首脳会談の前に茂木大臣-ライトハイザー代表による閣僚レベルの交渉があったが、それに先立って、まず安倍総理とトランプ大統領との間で2人だけの夕食会がトランプ大統領の発案で開かれた。そこで安倍総理はトランプ大統領との直接の会話で、繰り返し刷り込んでいくことが可能になった。

 トランプ政権ではトランプ大統領だけがポイントだ。それで失敗したのが中国で、閣僚レベルで折角合意できても、トランプ大統領にちゃぶ台返しにあってしまった。逆にEUは直前の閣僚折衝では物別れに終わっても、翌日の首脳会談でトランプ大統領のお気に召せば、丸く収まった。失敗した中国と成功したEUの例をみれば、どう対処すればよいか明らかだ。

 そういう意味では安倍総理がトランプ大統領の頭を事前に作っていく機会があったことは効果的だったようだ。

 これがトランプ政権との付き合い方なのだ

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