カジノを含む統合型リゾート(IR)実施法案は、すでに衆議院を通過している。
 この先、審議は参議院に舞台を移しておこなわれる。

 今回は、この法案をめぐる議論について、現時点で考えていることを記録しておくつもりでいる。無論、私のような者の、たいして焦点の定まっているわけでもない感想が、法案成立の成否に影響を与えると考えているわけではない。法案の成立に抵抗をするべく決意を固めているのでもない。

 私が、たいして詳しくもないこの問題について、あえてわざわざ自分の考えを書いておく気持ちになっているのは、この先、ギャンブル依存症の問題が表面化したタイミングで読み返すための資料として、東京五輪開催前の、まだこの国に本格的なカジノが存在していなかった時代に、市井のド素人がギャンブル全般についてどんな予断を抱いていたのかを記録しておくことに、一定の意味があるはずだと考えたからだ。

 今後、法案が成立して、国内にいくつかのカジノが開帳すれば、カジノを舞台としたマネーロンダリングや、外国資本によるわが国の資産の収奪が、プライムタイムのニュースショーの話題として取り上げられる近未来がやってくるかもしれない。そういう時に、振り返るべき過去記事として、法案成立前夜の空気を伝える文章がウェブ上に残っていることは、おそらく、それを読む未来の人間にとって有意義な時間になることだろう。つまり、私は、決して後戻りできない過去から未来の読者に呼びかける形式でこのテキストを書いている。どうですか、未来のみなさん。あなたたちは、自分たちがずっと昔に選んだ選択肢を後悔していませんか?

 おそらく、現在、政府・与党の側は、いかに強権的に見えない形で法案を成立させるかといったあたりの手順や方法論に関して、あれこれと心を砕いていることだろう。とはいえ、法案成立への意欲そのものは、いささかも揺らいでいないはずだ。とすれば、圧倒的な議席数をおさえている与党に加えて、さらに野党の一部が合流している以上、法案の成立はもはや既定事項と考えなければならない。

 反対している野党も、自分たちが説得することで、与党が法案を撤回するとか、可決を断念するとか、内容を再考するみたいなことを期待して熱弁をふるっているのではないと思う。彼らとしても、自分たちの抵抗が効果を発揮しないことは承知したうえで、せめてカタチの上だけでもと考えて抵抗してみせているわけで、残酷な言い方をすれば、先日来続いている国会でのやりとりは、終演時刻や結末があらかじめ出演者にも観客にもすっかり共有されている定番の田舎芝居なのであって、議員諸氏は、審議のためにではなく、いずれはやってくる選挙戦に向けてアピールするべく、議員という役柄を演じ切るために、声を張り上げているのである。

 こういうお話をすると、

 「いや、国会は単なる議決機関ではない。なによりもまず言論の府であり、議論のために設置された国家の最高機関なのだ」

 的な建前論を持ち出して発言者を叱りつけるテの人たちがあらわれる。
 おっしゃる通りだと思う。

 しかし、国会が言論の府であり審議の場であるためには、前提として拮抗した議席数のバランスが求められる。その条件が満たされていない以上、国会がオートマチックな議決機関に堕している現状を認めるしかない。嘆いたところでどうなるものでもない。

 もちろん、たくさんある法案の中には、与野党全員一致で可決されるものもたくさんあるし、野党側の提出になる法案が成立するケースだってないわけではない。つまり、すべての議論において常に与野党が対立しているわけではない。当然の話だ。そして、与野党の見解に相違の少ない議案については、実りある議論がやりとりされているケースもあるし、双方の間で妥協や調整が機能している場合もある。

 が、ともあれ、与党勢力が3分の2に迫る議席を独占している現今の状況では、与野党の間で決定的に意見が対立している議案については、結局のところ、ある段階で議論を打ち切って多数派による強制的な議決に委ねる結末を迎えざるを得ない。ということはつまり、与野党双方による真摯な議論が最も切実に求められる重要法案であればあるほど、かえって審議過程を省略ないしは軽視した強行採決が行われがちになるわけで、つまるところ、さかのぼって考えれば、わたくしども選挙民が、こんな一党独裁の全体主義国家みたいな議席配分を許した時点で、一党独裁の全体主義国家じみた国会運営はすでに始まっていたのである。

 ギャンブル依存症は、アルコール依存症に比べてあまり知られていない。
 認知度が低いだけではない。理解度はもっと低いと思う。

 個人的な感触では
 「自業自得だろ?」
 「自己責任じゃね?」
 「つまりアレか? その病気の患者はギャンブルで勝つのは自分の手柄だと思う一方で、ギャンブルで負けるのは病気のせいだみたいな考え方を採用してる人たちなわけか?」
 「要するに我慢が足りないってことだろ?」
 「なんでもかんでも依存症のせいにできるんだったら、責任という言葉は不要になるだろうな」
 てな調子で笑い飛ばしている人が多数派なのではなかろうかと思っている。

 私自身、つい最近までは、自分がギャンブルであまり勝った経験を持たないからなのか、それに依存する人たちがいるということをいまひとつイメージできなかった。

 ただ、この5年ほどの間に、アルコール依存症とギャンブル依存症の患者や家族の団体が共同で主催するイベントに何度か協力させていただく中で、ギャンブル依存症の関係者と情報交換をする機会を得た。この経験を通じて、私の認識は大いにあらためられた。

 アルコールもギャンブルも、最終的には、それに依存する人間が持っているほとんどすべての要素を破壊することになるものだ。が、その順序とプロセスには多少の違いがある。

 一般に、アルコールは、まずなによりもそれに依存する人間の健康を蝕む。対して、ギャンブルは必ずしも患者の肉体には害を為さない。ということは、ギャンブル依存の方が症状としてより「マシ」なのかというと、これもまた、必ずしもそういうことではない。

 たとえば、経済生活を破綻させる傾向は、アルコール依存症患者の場合に比べて、ギャンブル依存症患者のケースのほうがより早い段階で表面化する。というのも、どんな大酒飲みであっても、一晩で10万円分の酒を飲むことは不可能(店や酒の種類にもよるが、アル中は何を置いてもアルコール度数のコスパを重視するので)だが、ちょっとしたギャンブル依存者なら、一晩で100万や200万の現金を溶かすことは珍しくもないことだからだ。

 すなわち、ギャンブル依存症患者は、肝機能障害を患ったり大腿骨骨頭壊死に苦しめられることが少ない代わりに、多重債務に陥ったり家財をまるごと失うリスクを常にかかえている。

 結果として、ギャンブル依存症患者がもたらす悲劇は、家族や親戚を巻き込むことが多い。犯罪に結びつくことさえある。これは、実に深刻な話なのだ。

 詳しくは、以下のリンク先にある、「カジノ法案成立で最も損をするのは誰か?」という記事を読んでみてほしい(こちら)。

 この記事を書いた「ギャンブル依存症問題を考える会」代表の田中紀子さんには、何度か直接にお話をうかがったことがある。

 今回、私にこの記事を書かせるに至った発想も、その多くは彼女との対話に負っている。そういう意味で、はじめから受け売りの知識や情報に立脚した私自身の見解を、これ以上ここで繰り返すことは避けたい。

 なので、以下、ネット上でお決まりの約束ごととして繰り返されている、「カジノ」と「パチンコ」の話題に絞って話を進めることにする。

 カジノとパチンコをめぐる二項対立の議論は、ネット上ではそれこそ20年も前から蒸し返されている定番の水掛け論だ。

 この議論が必ず紛糾するのは、ざっと見たところ、パチンコが

  1. パチンコ業界の関係者に在日朝鮮・韓国人ならびに朝鮮半島から帰化した日本人が多いとされることから、この産業に対してあらかじめ偏見を持っている人々がいる。
  2. 「パチンコ産業からの収益の一部が北朝鮮に送金されミサイルや核兵器の原資になっている」という主張が繰り返されている
  3. 20兆~30兆円産業とも呼ばれるパチンコ業界の利権には、警察、暴力団、政治家などなど、多種多様な人々が群がっているとの噂がある
  4. そもそも三店方式(分からない方は各自検索)で欺瞞的な換金方法に乗っかるカタチで運営されているパチンコという業態そのものが、脱法賭博であると主張する人々が少なくない
  5. 店舗数の多さ、動いている金額の大きさを考えれば、わが国におけるパチンコの被害は、諸外国におけるカジノ賭博よりもむしろ甚大だとする議論がある

 といったツッコミどころを備えた極めて多義的な遊戯(ないしは脱法賭博)産業であるからで、私自身、上に挙げた5つの論点はそれぞれそれなりの説得力を備えていると思っている。

 ただ、パチンコの話題がカジノの新設とセットで持ち出される場合、別の問題が生じる。
 というのも、そもそも、古来、カジノ推進派の有力な主張は
 「パチンコを撲滅してその代わりにカジノを作ろう」
 というものだったからだ。

 カジノを作ることで、パチンコを滅ぼすことができるのなら、それはそれで、乗れない話ではないが、実際の手順を考えてみれば、それが簡単な話ではないことは子供にでもわかる。

 アシダカグモを招き入れることでゴキブリを根絶するみたいな、机上の空論ですべてが解決するわけではない。
 悪くすると、ゴキブリと、それを退治するために召喚したアシダカグモと、そいつをやっつけるために連れてきたムカデのすべてと同じ部屋で暮らさなければならないことになる。

 カジノ誘致を主張する人々の立場も様々で

  1. 在日コリアンの収益源であるパチンコをツブしたい
  2. パチンコ業界と警察の癒着が不愉快
  3. 脱法賭博であるパチンコはそもそも反社会的

 といった感じで、もっぱらパチンコ敵視の立場からカジノに肩入れしている人々もいれば、単純によりおしゃれなギャンブル場の設置を望んでいる人々もいる。

 「パチンコのような各方面とズブズブになっている腐敗した脱法賭博を生きながらえさせるよりは、いっそ、国がきちんと管理して透明性を確保したうえで、クリーンな賭博場を開帳した方がいいではないか」

 という主張は、たしかに魅力的に聞こえる。

 とはいえ、あたりまえの話だが、古い悪徳の存在が新しい悪徳の導入を免罪するわけではない。
 でなくても、

 「パチンコというおよそ不透明な賭博場が、すでに全国各地に5000軒近くある以上、このうえ3つや4つの公営カジノができたのだとして、たいした問題じゃないだろ?」

 「ギャンブル依存を持ち出す人たちにしても、まだ存在すらしていないカジノによる被害を言い立てるつもりなら、その前にパチンコの問題の解決してからにすべきなんじゃないのか?」

 という議論は、そもそも多分に詭弁の要素を含んでいる。

 パチンコがもたらしている害悪に対処せねばならないのはその通りで、その点については、すでに様々な人々が取り組んでいる。

 この種の議論をする人たちの定番のツッコミの形式である

 「Aを告発するなら、その前にBを告発するべきだ」

 式の言い方は、そのままでもほとんど詭弁なのだが

 「Bを追及していない人間にはAを追及する資格はない」

 というカタチに逆転すると、さらに露骨な言いがかりになる。

 この論法を敷衍すると、世界中のすべての罪を告発しきった後でないと、特定個別の悪徳に異を唱えることができなくなる。

 「どうせ太り過ぎでモテないんだから、爪を切って清潔にしたところで無駄だ」

 や

 「パスタでカロリー摂取をしている以上、ケーキを断念したところでダイエットにはならない」

 は、そもそもウソだ。

 そして、

 「体重を適正範囲に保つことができていない人間は、爪を切る資格がない」
 「パスタを食べる人間はケーキを食べない選択肢を持っていない」

 は、より悪辣な詭弁になる。
 そして、あるタイプの人々はより凶悪な詭弁を好む。

 そもそも、パチンコの害とカジノの害は別モノだ。
 金額、頻度、客層すべてが異なっている。

 しかも、カジノにはマネーロンダリングに使われるかもしれないという別種の問題があるし、貸金業の免許を持たないカジノ業者が顧客に金を貸す(つまり、負け分の支払いを一定期間猶予することで、所持金以上の負けを背負わせることができる)ことがもたらす害悪もまだ、どんなものになるのかはっきりわかっていない。

 もうひとつ言えば、新しい悪徳を迎え入れることで、古い悪徳を根絶できるとする考え方がどうにもファンタジックである点を指摘せねばならない。

 「パチンコのような各方面とズブズブになっている腐敗した脱法賭博を生きながらえさせるよりは、いっそ、国がきちんと管理して透明性を確保したうえで、クリーンな賭博場を開帳した方がいいではないか」

 という、さきほどご紹介した主張は、

 「パチンコのような半世紀以上続いている産業を一朝一夕に根絶できると思ったら大間違いだ」

 という意味でも、

 「カジノみたいなそもそも賭博であるものを『クリーン』に開帳できると思ったら大間違いだ」

 という意味でも、二重に大間違いだ。

 もちろん、パチンコがもたらしている被害対策には現在もこれからも、最大限の努力を傾けなければならない。

 が、カジノを開帳することで、パチンコの被害が帳消しになるわけでもなければ、パチンコ利権が消えてなくなるわけでもない。おそらく、新旧の違ったタイプの悪徳はそれぞれに別々の被害を生み出しながら、相互に足を引っ張り合うこともなく、むしろ互いの顧客を融通し合うカタチで共存していくに違いない。

 ところで、私は当稿の中で、先程来パチンコについて「脱法賭博」という言葉を繰り返し使っているが、この用語は、私個人がそう思っているから使っているだけのごく私的な言葉で、公式の見解ではない。

 ちなみに政府は、この2月20日、パチンコが賭博であるかどうかという質問に答えて、
 「パチンコは刑法 第185条の賭博に該当しない」
 とする答弁書を閣議決定している(こちら)。

 パチンコを賭博でないと考えている政府が開帳するカジノがどんな施設になるのか、正直な話、私にはまったく見当がつかない。

 ただ、ろくなものにはならないことだけは断言できる。
 この点は賭けても良い。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

ギャンブルは、賭ける人を見て楽しむもの。
おじいちゃんからそう教わりました。

 小田嶋さんの新刊が久しぶりに出ます。本連載担当編集者も初耳の、抱腹絶倒かつ壮絶なエピソードが語られていて、嬉しいような、悔しいような。以下、版元ミシマ社さんからの紹介です。


 なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
 30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
 と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
 なぜ人は、何かに依存するのか? 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて

 日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
 現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!

(本の紹介はこちらから)

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