中国の湖北省武漢市から世界に蔓延したと考えられている新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)。一時期、武漢市でウイルスの研究をしていた中国科学院武漢病毒研究所(以下、武漢研究所)から漏洩したのではないかと噂された。米Trump大統領が「漏洩の証拠をつかんでいる」と騒いだ時期もあったが、武漢研究所で扱われていたウイルスと世界で蔓延しているウイルスの遺伝子を比較したところ、異なることが確認されている。とはいえ、いまだに疑念を持つ人も多いようだ。

 武漢研究所の設立は1956年だが、重症急性呼吸器症候群(SARS)が流行した翌年の2004年、中国とフランスが「中仏予防・伝染病の制御に関する協力」の枠組みを締結。フランスは中国に対して、バイオセーフティレベル(BSL)を向上させるための設備や、必要な専門技術を提供することになった。かくして2015年1月に、アジア初のBSL4の実験室を持つ中国科学院武漢国家生物安全実験室が、武漢研究所の付属施設として完成した。だが、その後フランスとの関係は急速に冷え、当初予定されていたフランスからの研究者の派遣が無いまま、中国の共同研究の相手は米国に変わった。

米国から武漢研究所への資金流出に批判の声

 同付属施設が完成する前年の2014年、米Obama大統領は、米国内でのウイルスに関する研究を禁止する方針を打ち出した。米疾病対策センター(CDC)で重大な事故が多発したためだ。そして米国立衛生研究所(NIH)で実施されていたウイルスの研究を、武漢研究所に外部委託することにした。同研究の外部委託を積極的に推し進めたのが、NIH傘下の米国立アレルギー・感染症研究所(NIAID)のAnthony Fauci所長だ。また、NIHからのグラントの直接の受取先となったのが、感染症研究で実績のある非営利組織(NPO)で、同研究のコーディネーターを務めたEcoHealth Alliance(EHA)だった。

 NIHのグラントは2014年から2019年の5年間。テーマは「Understanding the risk of bat coronavirus emergence(コウモリ由来コロナウイルスの出現リスクの解明)」で、金額は310万ドル(1ドル=110円換算で、3億4100万円)だ。そのうち武漢研究所には約60万ドル(約6600万円)がコウモリの遺伝子解析のための設備投資費用として渡った。同研究では、野生のコウモリ由来のコロナウイルスに関して、遺伝子情報も含めた調査が行われた。そのため、武漢研究所はコロナウイルスに関する膨大なビッグデータを保有する。同研究に関するNIHのグラントは、2019年にさらに5年間更新されたが、今回の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の騒動を受けて2020年4月に突然打ち切られた。

 NIHのグラントの他にも、2017年には米国防省が、EHAのコウモリ由来の人獣共通感染症に関する研究に対し、650万ドル(7億1500万円)を提供。そのうち委託先の武漢研究所には、150万ドル(1億6500万円)以上が提供されている。これまでにEHAを通じ、武漢研究所に200万ドル(2億2000万円)以上が流れていることになる。この事実が明るみに出て以来、米国ではEHAをはじめ、NIHや国防省に批判が集まっている。

 2019年以降の研究では、ウイルスがどのように変異し、ヒトに感染する能力を獲得するのか検証されてきた。従って、SARS-CoV-2が武漢研究所から流出したという疑惑に関して、実情を最も把握しているのは、他ならぬ武漢研究所の研究者や、米国の共同研究者のはずだ。一部報道では、武漢研究所の管理体制はずさんで漏洩の可能性があると報じられたが、米国の共同研究者は「(武漢研究所の)管理は厳格で流出はあり得ない」と反論。武漢研究所やEHAが、中国と米国の政治対立のとばっちりを受けたことに同情の念を抱いているようだ。

 前述したコウモリ由来のコロナウイルスに関する研究は、「コウモリ女」ともあだ名される石正麗氏が率いていた。石氏は、武漢研究所に在籍しながら2000年にフランスでウイルス学の博士号を取得しており、フランスによるBSL4の実験施設の設立にも、EHAからの資金提供にも関与している重要人物だ。石氏もSARS-CoV-2の武漢研究所からの漏洩を否定している。

 SARS-CoV-2が天然のウイルスなのか、武漢研究所が起源なのか、真相はいまだ闇の中だ。だが、いずれにしても、サイエンスに大国の政治対立が介入し、世界に深刻な影響を与えていると思うのは、邪推であろうか。