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医療支援で関わったミャンマーの今を憂う

2021/03/30

 ミャンマー情勢の悪化に心を痛めている。ミャンマーの非暴力民主化運動の旗手で、ノーベル平和賞を受賞したアウン・サン・スー・チーさん率いる国民民主連盟(NLD)の民主的な政府が誕生して5年。総選挙でのNLD圧勝を追い風に2期目に入ろうとした今年2月、突然、何の前触れもなく、ミン・アウン・フライン総司令官が君臨する国軍がクーデターを強行。クーデター後、国軍の弾圧で3月26日までに328人が死亡している(3月27日時事通信)。スー・チーさんは拘束されたままだ。無抵抗の市民を虐殺する連中への怒りと悲しみで胸が張り裂けそうだ。

 私自身、ミャンマーとはいささか関わりを持ってきた。京都大学医学部の学生だったころ、スー・チーさんが京都に滞在していた。1985年10月1日から翌年の6月30日までの9カ月間、当時40歳だったスー・チーさんは京都大学東南アジア研究センターに客員研究員として留学していた。研究テーマはビルマ(ミャンマーの旧称)独立運動の歴史をたどること。スー・チーさんの実父は、「ビルマ建国の父」と呼ばれたアウン・サン将軍である。物心つく前に暗殺された父と縁の深かった日本で、旧軍関係者への聞き取りや、資料調査をしておられた。

 そのことを私たち京大生に教えてくれたのは、医学部の病理学教授だった故濱島義博先生だった。濱島先生は、1968年、医学部チームを率いて、鎖国中だったビルマの第2の都市マンダレーから南へ車で2時間ほどのポルパ山を訪ね、医療支援を開始した。驚いたことに4000人の村人全員が「目を開けられない状態」だったという。極端な水不足で洗顔や手洗いができず、トラコーマの結膜炎が慢性化して瞼が癒着していたのだ。濱島先生は「少々の抗生物質では、どうにもならない。患者さんを治す前に、まず水道を引かなければならない」と痛感したそうだ。

 その後も京大医学部のビルマ支援は続き、病院や医学研究センターが建設される。しかし、何よりも軍事独裁という「大病」を治さない限り、ビルマの将来は暗かった。

著者プロフィール

色平哲郎(JA長野厚生連・佐久総合病院 地域医療部 地域ケア科医長)●いろひら てつろう氏。東大理科1類を中退し世界を放浪後、京大医学部入学。1998年から2008年まで南相木村国保直営診療所長。08年から現職。

連載の紹介

色平哲郎の「医のふるさと」
今の医療はどこかおかしい。そもそも医療とは何か? 医者とは何? 世界を放浪後、故若月俊一氏に憧れ佐久総合病院の門を叩き、地域医療を実践する異色の医者が、信州の奥山から「医の原点」を問いかけます。

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