中国の黄土高原の砂ぼこりが吹き荒れる丘に、朽ちかけた石垣がある。近くに暮らす人々は長らく、この石垣を万里の長城の一部と信じていた。無理もない。2000年以上前に北方民族との最前線として造られた万里の長城は、黄河が北に大きく屈曲するちょうどこの辺りを通過している。
だが、ここでは場違いなものも見つかった。ヒスイだ。破片だけでなく、円盤や刀剣、笏(しゃく)などに加工されたものも見つかっている。ヒスイはここ陝西省最北部では産出せず、最も近い産地でさえ、およそ1600キロも離れている。万里の長城の特徴とも合わない。オルドス砂漠に近いこの不毛の地で、なぜヒスイが大量に見つかったのか?
中国の考古学者チームがこの地を発掘調査したところ、意外なことがわかった。その石垣は、万里の長城の一部ではなく、壮大な要塞都市の名残だった。発掘は今も行われているが、高台にあるピラミッドやその周囲を取り囲む全長10キロを超える防壁、壁画やヒスイの工芸品に彩られた聖なる場所、そしておぞましい生け贄の証拠が見つかっている。
2020年の初め、新型コロナウイルスのパンデミックによって発掘が中止になる前に、考古学者たちは、石に彫られた見事なレリーフを70個も発掘した。大蛇や怪物、半人半獣などの図像で、後の青銅器時代の中国のものに似ていた。
さらに驚くべきことに、放射性炭素による年代測定の結果、ここ石峁(シーマオ)遺跡の一部は、4300年前に遡ることが明らかになった。万里の長城の最も古い部分より2000年近くも古く、確認されている中国最古の王朝、殷(商)が現れる500年も前のことだ。
石峁は、この僻地とも思える地で、紀元前2300年頃から紀元前1800年頃まで繁栄し、突然、放棄された。その理由は謎に包まれている。
中国考古学の道しるべとなってきた古文書のいずれにも、この古代都市に関する記述はない。だが石峁は大きく複雑なだけでなく、外部の文化とも活発に交流していた。面積はおよそ4平方キロと、米ニューヨーク市のセントラルパークより広い。その芸術や技術は北方文化の流れをくみ、歴代の中国王朝にも影響を与えた。
石峁だけではない。近年は各地の遺跡で発見が相次ぎ、歴史学者は中国文明の発祥について再考を迫られている。
「石峁は、今世紀最大の考古学的発見の1つです」と話すのは、陝西省考古研究院の院長で、石峁遺跡発掘のリーダーを務めた孫周勇氏だ。「中国の初期文明の発達に関する新たな見方を提示しています」